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偉大な星たちの絵 4.愚か者通り

 感情にかられてセルダンの名前を漏らしたのは、アピアンにとって一生の不覚だった。  たしかに自分の結婚をあきらめてくれと王に告げようと思ってはいたが、セルダンを持ち出すつもりは毛頭なかった。王のもとを辞したあともしばらくアピアンは考えこんでいた。  失敗を気にする性格は昔からだ。しかしさすがに今は子供の頃のようにいつまでもくよくよ思い悩みはしない。夕餉は不要だと女官に告げると、アピアンは私室に閉じこもって着替えをはじめた。  年の離れた第二王子とちがい、アピアンはめったに王の一家と食事を共にしない。私室でひとりでとるか、そうでなければ王城のあちこちにいる知人と会食することも多い。いまでは第一王子の知人は騎士団員から回路魔術師、ギルドの職人まで幅広かった。  とはいえ今日、アピアンは誰と約束していたわけでもなかった。まっすぐ寝室に入ると箪笥の奥の隠し抽斗をあけ、必要な小道具を寝台の上に並べる。鏡の前に立つと髪をぴったりした網の帽子で覆い、その上から金髪のかつらを被った。同じ色のもみあげの毛をはりつけ、眉毛は筆で色味を変える。  服装は裕福な貴族の子弟に仕える従者といったところ。紋章のたぐいは何もないが、近頃はやりの羽根のついた帽子を持っていれば、主人の留守にめかしこんで城下をうろつけるほどの余裕があるとわかる。仕上げに回路魔術師の暗色のローブを羽織る。帽子はローブの内側に隠し、フードをおろして私室を出た。  尖塔の下の隠し通路に入るとアピアンはローブを脱ぎ捨てる。誰にみとがめられることもなく王城の外へ出た彼はいまや「アルティン」だった。いつもならこの姿に扮するときはセルダン・レムニスケートが近くにいる。しかし今は彼に会いたくなかった。王に話してしまったことをどう説明するべきか、アピアンは心を決めかねていた。というわけで、向かったのは「アルティン」に馴染みの盛り場である。近年「愚か者通り」と呼ばれるようになった街路の一角にある。 「今日はひとりかい」  カウンターで酒を注文すると「アルティン」を知る女主人が気さくに声をかける。ドレスではなく騎士服に似た細身の服を着こなしている。 「いつもの警備隊のお友達はどうしたの?」 「出世したんだ。忙しいらしい」とアピアンは答える。 「あんたもしばらくみなかったね」 「ああ。最近おもしろい話はある?」 「おもしろい話? さあて――」  女主人はカウンターにグラスをすべらせる。ここはアピアンにとって王都の空気を肌で感じられる場所だった。二十歳のころなら、変装して城下をうろつくのはただのうっぷん晴らしにすぎなかったが、それから何年も過ぎて「アルティン」が街に馴染んだいま、この店は城下の噂をいち早く知るための重要な情報源だ。 「そうだな、近頃はこんなところにも王族の落とし子がいるって評判だが、会ったかい?」  アピアンはグラスを回す手を止めた。 「落とし子だって? いったいどこから?」 「さあ、前の王様か、その前の王様に連なる誰かがやらかしたんじゃないか?」  反射的にアピアンは王家の系図を思い浮かべた。かつての疫病で多くの命が失われた結果「忘れられた王族の落胤」という話は簡単に信じられない事柄である。王宮はもとより審判の塔でも相手にされないだろう。しかし―― 「それはたしかにおもしろい話だ」とアピアンはいった。「そのご落胤とやらは王宮にも知られているのか?」 「とりあえず王子はご存知だそうだよ」  王子。思いがけない展開に顎が落ちそうになる。 「王子って、どっちの」 「アピアン殿下さ」  女はクスクス笑った。 「殿下はご理解くださったそうだ。もらった『しるし』をみせては金を借りていると小耳に挟んだ」 「警備隊はそいつを放置しているのか?」 「いや、彼らも話は聞いてるんだが、どうも説得されてしまうみたいだ。でなければ本物なのかもしれないね」 「でなければ精霊魔術師もどきが法螺をふいているか、だな」  アピアンの返事をきいて女の目は皮肉っぽく光った。 「あたしは昔からそういうのに鼻が利くたちなんだ」 「そっちこそ、先祖にご落胤がいるんじゃないか? 精霊魔術に抗する力は王族の血に伝わるものだと聞いたぞ」 「くだらない」女はアピアンを鼻で笑った。 「こんなのただの山勘さ。力なんてものじゃない」 「どんな男だろう。顔を見たい」 「この店にもっと通いな。近頃は取り巻きもいて目立つよ。王子の後ろ盾でデカいことをやりたいとか、あれこれ吹いているみたいだ」  女の表情をみながらアピアンは思案した。その男がみせる『しるし』とやらに警備隊員が騙されているのなら、違法に魔術を使っていることになる。しかも自分の名を使われているとなると、このまま放置して良いとも思えない。 「ぜひ会ってみたいな」とアピアンはいった。「殿下が何を約束したのか、知りたいものだ」  アンダース王弟殿下は毎朝、奥方とともに王宮の庭園を散歩される。  子どもはいないが仲むつまじいことで知られている夫妻である。セルダン・レムニスケートはすこし離れた回廊からその様子を見守っていた。王宮の中では警護は不要なのだが、このあとの公務に付き従う予定である。鋭い耳が背後で響く鈍い足音をききとる。ふりむかずとも相手はわかっていた。 「セルダン」  午前の光にアピアンの栗色の髪が透け、淡く輝いている。セルダンは軽く一礼した。 「おはようございます」 「朝から真面目だな、レムニスケート」  王子はからかうような口調でいった。 「叔父上を待っているのか」 「ええ」 「夜はどうだ。暇はあるか?」  セルダンは横目でアピアンをみた。 「夜は非番ですが」 「『アルティン』が昨日、例の酒場で気になる噂を聞いた。詳しい話をたしかめたい」  セルダンのこめかみはぴくりと動いた。 「昨日? まさか殿下おひとりで城下に?」  アピアンはさらりと繰り返した。 「アルティンが、だ」 「お一人で行かれるのはやめるよう、何度もお話ししたはずです」 「セルダン、『アルティン』は護衛がつくような人間じゃない。そう心配するな、私は五体満足だろう。すぐに帰ったよ」 「まったく、あなたは――」 「セルダン、叔父上が来るぞ」  さえぎるようなアピアンの声にセルダンは不承不承口をつぐんだ。アンダース殿下が奥方と別れてまっすぐセルダンの方へやってくる。 「アピアン。どうして朝からこんなところに?」 「友人をつかまえたく思いまして」  アンダースはセルダンと王子に交互に視線を走らせ、微笑んだ。 「私のせいで親友とすごす時間が減ったといいたいのだろう」  アピアンは破顔した。 「いいえ、彼の職務のせいです。レムニスケートは友情より仕事の方が大切だ。そうだろう、セルダン?」  セルダンは思わずしかめっ面をする。 「殿下、非番のときならいつでもお供しますよ」 「そうか? それなら夜を待つとしよう。叔父上、お邪魔しました」  王子の眸がいたずらっぽくきらめいたとたん、セルダンの中で欲望がうごめいた。アピアンは優雅に手をふると黙って回廊を歩き去った。

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