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拘束ベルト・エネマグラ

 彼が風呂から出てきて、髪を乾かしている時間が苦手だ。ドライヤーの音だけが喧しくしている室内において、ピンと空気が張り詰めている。彼のこれからされることへの期待と不安、それから緊張感が伝わってくる。やがて風の音が止み、コードを片付けている音をスマホを弄りながら聞いていた。 「町田さん」  ソファに座る俺の正面に立ち、黒い革の首輪を差し出す。彼が首輪を渡し、俺が彼の首に嵌める。これが俺たちの合図だった。お願いします、と緊張気味に言う彼の手から首輪を受け取った。いつもなら、その場で首に巻いてやる。彼が跪く前に立ち上がった。 「サクラくん、こっちおいで」  彼を手招きして向かったのは寝室。ベッドに向けられた三脚に乗ったビデオカメラと、部屋の面積の大半を占めるベッドは毛布や掛布団が取っ払われ、代わりに汚れてもいいように下半分にバスタオルが敷き詰められている。その上に枕が高く積まれ、マットの下から伸びる拘束ベルトと手足足枷の拘束グッズが乗っていた。 「今日は手足動かせないようにしようと思うんだけど、いい?」 「いいよ、別に」  何でもないことのように言うが、彼の表情は強張っていた。合意を得られたところで彼をベッドに座らせ、預かっていた首輪を彼の首に巻いた。 「服脱いでいい?」 「どーぞ」  服が汚れるのを嫌う彼は、躊躇いもなくさっさとその場で裸になった。色を抜いた明るい髪、鋭い目つき。刺青が入っていてもおかしくない風貌ではあるが、刺青どころかシミひとつない。痛いのが嫌いで、ピアスの孔ひとつ開いていない身体である。彼の手首足首に枷を嵌め、それぞれ固定ベルトの金属フックに取り付けた。彼の身体は、仰向けにベッドの上で大の字のまま動かせなくなった。 「こんなの、どこで買うの」  呆れたように彼が言った。彼の傍らに腰掛け、スマホで購入履歴を調べる。 「普通にネットで買えるよ。そんなに高くないでしょ」  画面を見せると、彼は顔を顰めた。拘束ベルト手足足枷目隠しセット、1580円。元々興味はあったものの、アダルトグッズを購入し始めたのは彼と付き合うようになってからだ。 「それで、今回一緒に買ったのがこれ」  画面を切り替えて再び彼に見せる。エネマグラ、3200円。使用するのは初めてなので、医療用の非電動タイプのものを選んだ。 「メスイキとか、ドライって言ってわかる?」  怪訝な表情を浮かべていた彼の目つきが一層険しくなる。知っていて俺を睨んでいるのか、知らなかったのかは判断が付かない。  ドライオーガズム。射精を伴わずに絶頂に達すること。俺の知る限り、彼はまだドライで達したことはない。この商品のレビューを読むと、評価はまちまちで失神するほどよいというものとよくなかったというものと両極端だった。ドライで達するようになるまでには長い開発期間が必要らしいが、後ろで快楽を拾うようになった彼ならばすぐに使いこなせるようになるかもしれない。 「さて、そろそろ始めようか」  ベッドから腰を上げ、拘束ベルトと一緒に入っていた目隠しで彼の目を覆った。反射的に彼の身体が動いたが、手がわずかにベッドから浮いたのみだった。すぐに手はベッドの上に落とされ、彼は諦めたように息を吐き出し、身体の力を抜いた。  まな板の上の鯉。俯瞰で彼を見て、咄嗟に頭の中にこの言葉が浮かんだ。自分のスマホで撮ることは滅多にないのだが、彼の全身が映るようにベッドに縛り付けられている裸体を撮影した。シャッター音に気付いた被写体がきゅっと口を引き結んで顔を背ける。セットしておいたビデオカメラに電源を入れ、モニターを覗いて録画を開始した。 「サクラくん、今更だけど手とか痛くない?」  手に温感ローションを出しながら訊ねる。目が見えない彼は、ベッドの沈む感覚、ローションの蓋が開いた音を頼りにこちらに顔を向けた。 「引っ張られてる感じはあるけど、痛くはない」 「そう? ならいいけど。後ろ、指挿れるね」  肛門に中指をあてがうと、ビクッと内股が反応し、ふッ、と彼の口から短く息が漏れた。狭い入口の内側は、温かくて柔らかい。相変わらず侵入を拒むように強く絞めつけられるが、ローションのおかげでスルスルと指が挿っていく。付け根まで指が挿ったところで、指を曲げて内側を擦ったり指を出し挿れしていると、だんだん彼の息遣いが荒くなり、小さく手足を動かして落ち着きがなくなってくる。そのうち、拘束されている時点で半勃ちだった性器が完全に勃起して小さく震えていた。  最初は性器に触れるつもりはなかったのだが、気が変わった。 「先に一回抜いておこうか」 「え……町田さん?」  一旦指を抜き、ウェットティッシュで簡単に手を拭く。それからドアの前あたりに配置してあったビデオカメラをベッドに寄せた。足首をベルトで固定され閉じれない秘部にピントを合わせた。  改めてローションを手にとりなおし、両手に塗り広げる。後ろを弄りながら性器にも刺激を与えた。 「ひッ!? あ、ダメ、すぐイくぅ!!」  彼がベッドから腰を浮かせて悶える。後ろを弄る指は2本に増やしている。性器を扱く左手は、粘度の高いローションでにちゃにちゃと卑猥な音を立てていた。利き手ではないのでどうかと思ったが、彼の反応を見る限り悪くはないらしい。腰が揺れていることに気付き、ただ握っていると自ら浅く腰を振って自慰を始めた。 「はははっ。人の手オナホ代わりにして……。やーらしい」  性器をぎゅっと握ると、何やら大声で喚きながらビクビクと身体を痙攣させて白濁液が噴き出した。 「はぁー、はぁー、はぁー」  射精を済ませた彼は、ぐったりとベッドに身体を預け、大きく胸を上下させている。彼のナカから指を抜き、手を拭いた。先程彼に画面で見せたエネマグラにローションを垂らし、ぱくぱく口を開けているアナルへと挿入する。 「は!? 待った、なに、ちょッ、やだ!!」  脊髄反射で足枷で繋がれている彼の片足がビクンと動く。指とは異なる異物に抵抗感が大きいようだった。 「エネマグラだよ。さっき見たでしょ?」  先端が細めのエネマグラは、嫌がる彼の意思に反して簡単にナカに収まってしまった。彼の様子を見ながら、前立腺に当たるように位置の調整をする。調整が済むと、再び手を拭いてベッドを離れた。 「町田さん?」  気配と音で俺が離れたことに気付いた彼は、不安げな声で俺を呼びながら目隠しされたまま首を左右に動かして探す動作をする。 「ここにいるよ」  窓際に立ったまま返事をする。 「こっち来て。近くにいて」  さほど広い部屋でもないのだから、同じ部屋にいる時点で近くには”いる”のだが、目隠しされている彼には声が遠くに聞こえていたのかもしれない。スリッパの音を立てながら傍らに寄り、彼の胸あたりの位置でベッドに腰掛けた。 「もう終わり?」  ベッドが沈んだ方角へ彼が首を向けて言う。エネマグラを仕掛けているが、今のところ反応はないようだ。 「逆に聞くけど、これ以上ナニして欲しいの?」  軽く開かれていた彼のてのひらに人差し指を乗せるとピクッと指先が動いた。手首に巻かれている安っぽいマジックテープの手枷を触り、手首から肘にかけて身体をなぞると、パッと手を離した。 「そうだな……今度ボンテージコスチュームでも着てみる?」 「いや、そういうことじゃなくて」 「アダルトグッズ見てたら面白そうなのいっぱいあったよ。乳首ローターとかサクラくん絶対気に入ると思うんだ。今度買ってみようか」 「だから、そういうのじゃなくて……」  彼が歯切れ悪く返事をする。言いたいことはなんとなくわかる。恐らく、射精させてほしいのだ。抜いたばかりの性器は再び天井を向いて透明な蜜を垂らしていた。落ち着きなく腰を揺らし、足は拘束ベルトを引っ張ってソワソワしている様子だった。 「町田さん、ナカのやつなんか動いてるんだけど」  切羽詰まった声で彼が言う。 「それ、エネマグラが勝手に動いてるんじゃなくてPC筋の働きでそうなるらしいよ」  エネマグラを購入する際に読んだキャッチコピーで得た知識を披露する。正確には蠕動運動とPC筋と肛門括約筋が関わってくるらしいが、詳しいことはわからない。とにかく、エネマグラが動くことによって前立腺が刺激され、ドライオーガズムに達するというわけだ。 「すごいね、サクラくん。まさかこんなすぐに使いこなせるとは思わなかった」 「全然嬉しくないんだけど」  彼らしい返答に、小さく笑って返した。 「ねぇ、もうこれ抜いてよ」  いよいよ余裕がなくなってきたようだった。 「まだ挿れたばっかりじゃん。もうちょっと頑張ろう?」 「ずっと腹のあたりがぞわぞわしてて気持ち悪いんだけど」 「気持ち悪いんじゃなくて、気持ちいいんでしょ?」  つつ、とヘソの下を指先でなぞると、ビクビクと彼の腹がうねる。 「身を委ねてごらん。ドライでイくのって、射精してイくより10倍気持ちいいんだって」  思いのほか順調に進んだため、ゴールは近いと思っていた。エネマグラを挿入してから30分以上経過しているが、未だに到達には至っていない。何度も波は来ているようで、またその周期もどんどん短くなっているらしかったが、あと1歩のところで上手くイけないようであった。波が来るたびにビクビクと身体を痙攣させ、途切れ途切れに喘ぎ声を漏らし、時折両手両足をばたつかせて叫んでいた。とても苦しそうだった。 「町田さん、もう……」  何回目かの波をやり過ごした後の、助けを求める声は弱々しく涙声で、アイマスクを外してやるとびっしょりと涙で濡れていた。負けず嫌いなのは美点なのか、欠点なのか。あまりにも酷い顔をしていたのでこんなになるまで我慢しなくても、という思いが先行する。そして、その考え方は人としては合っているのかもしれないが、プレイにおけるS役としてはどうなのだろうと疑問に思う。もし、彼に頼りないと思われたならば信頼関係が築けていないということになる。SMにおいて信頼関係は欠かせないものだ。しかし、今それを考えたところで結論は出ないし、意味もない。一旦頭の隅に追いやり、よく頑張ったね、と微笑みかけて頭を撫でてやる。相変わらず涙目ではあったが、強張っていた表情がふにゃっと柔らかくなった。こんな無防備に笑い返してくれるのならば、この先もきっと俺たちは大丈夫だろう。確信に近い自信。一瞬でも揺らいでいたことがなかったかのようだ。  首輪を外そうとした時だ。待って、と彼が鋭い声を上げた。 「町田さん、まだイってないでしょ」  彼が鼻をすすりながら言った。タガが一瞬にして外れたのが分かった。  俺たちがしている行為は所詮お遊びに過ぎないのかもしれない。しかし、SMをしている以上、相手に危害を加える危険性があることを常に自覚している必要がある。判断を誤らないためにプレイをする日は絶対にアルコールは飲まないし、注意深く彼を観察している。  修行が足りないと言われればそれまでだ。必死に保った理性を、彼がたったひとことで壊してしまった。  手枷、足枷と拘束ベルトを繋ぐ金属フックを全て外し、気だるげな彼の身体をうつ伏せにしてそれぞれフックを繋ぎなおした。自身のペニスにコンドームを装着し、エネマグラを抜いて自分のモノをねじ込もうとした。 「痛っ!」  彼がビクッと身体を強張らせ、両手は拘束ベルトを握りしめて引っ張った。先程挿っていたエネマグラよりも、俺のモノの方が太い。 「ごめん、我慢して。できる?」  枕に埋まっていた頭が、わずかに縦に揺れる。ローションを足し、ゆっくりと狭いナカを暴いていく。心なしか、いつもより腸壁のうねりが活発になっているような気がする。 「あッ、ああ!!」  突然彼が高い声で叫び、ビクビクと全身を震わせる。大きく息を整えながらなおも余韻が引かないようで肩甲骨の辺りが小さく痙攣していた。 「大丈夫?」  彼の反応に目を丸くして声を掛けると、2回頭が縦に揺れた。そっと彼の腹の下に手を滑り込ませると、やはり射精を済ませた後で、シーツの上に敷いてあったバスタオルがぬるぬるしていた。 「上手にイけたね」  散々イくにイけない状態で焦らされていたから、射精の快楽が大きすぎたのかもしれない。震えている身体を撫でながら褒めると、ずっ、と鼻をすする音が聞こえた。引かない快楽を持て余し、脳の理解が追い付かずビクビク身体を痙攣させながらすすり泣きを始めた。グズグズになって訳が分からなくなっている彼がもういやだ、と弱音を吐いた。俺はやめようとしていたのに、煽ってきたのはそちらの方だ。当然、ここでやめるつもりはなかった。 「ア゛」  一気に根本まで挿入すると、彼が喉を反らせて潰れたような声を上げる。 「やだっ、やだ!! もうやだ!」  身体を倒して彼の上に腹這いになり、彼の身体をベッドに押し付けるように腰を振った。彼は泣き叫んで抵抗するが、四肢をベルトで繋がれており抵抗らしい抵抗にはなっていない。彼の痴態に興奮しながら、彼のナカで射精を済ませた。  今度こそ首輪を外し、手枷足枷を外して彼を自由にした。安物を使ったせいか赤く痕が残り、擦り切れているようなところもあった。彼は大丈夫と言っていたが、次回使う時はタオルを噛ませることにしよう。身体が自由になった彼は、脱ぎ捨ててあったジャージを拾い気怠そうに風呂場へ向かった。  彼が風呂に入っている間にベッドメイクをする。拘束ベルトを回収し、敷いてあったバスタオルを剥ぎ取る。毛布と掛布団を元に戻す。道具を片付けている時にビデオカメラの存在を思い出し、録画を停止した。使用済みのバスタオルは脱衣所に持っていき洗濯機の中へ入れた。  ベッドメイクが済んだベッドの上で、改めてエネマグラの使い方を調べた。彼の反応を見るからに、使用方法が間違っていたとは思えない。何かコツがあったのかもしれない。  ネットの記事を読み漁っていると、いつの間にか時間が経っていた。寝室のドアが開く音を聞き、スマホの画面を消して身体を起こした。 「サクラくん、ごめん。エネマ使う時はオナ禁しなきゃいけなかったみたい」 「へえ」  風呂上がりの彼の反応は薄く、目は異様に冷たかった。彼はあまり感情を表に出す方ではないが、喜怒哀楽は分かりやすい方だと思う。彼の機嫌が悪いことに気付いたが、行動を振り返ると思い当たる節ばかりでキリがない。  彼がベッドに上がってきて俺の正面に胡坐を掻いた。彼の腕をとり、パジャマ代わりのジャージを少し捲る。手首側に濃い赤い線が1本と肘側に薄い赤い線が1本、ちょうど手枷の幅で残っていた。今のところ内出血はしていないようだ。 「これ、風呂で沁みなかった?」 「いや、別に平気」 「一応軟膏塗っておこうか」  彼の返事は聞かず、手を伸ばして宮に常備してある軟膏に手を伸ばした。軟膏を塗る間、彼は何も言わずされるがままになっていた。いつもプレイの後は身体に傷がないか確認している。最初の頃は鬱陶しがられ、拒絶されていたが、最近ではすっかり諦めたようで風呂上りに自ら俺の元へ来るようになった。 「今日はこの後どうするの?」  これも毎回お馴染みのやり取りとなっている。学生である彼はバイトに課題に日々忙しく過ごしており、この後リビングに戻って課題をすることも少なくなかった。 「今日はもう寝る」  両手足の軟膏が塗り終わった。 「お尻、痛くない? 塗っとくか?」 「自分でやるからいいよ」  半分冗談、半分本気で言った。尻の孔など何度も見られているのだから、今更取り繕う必要もないのだがそういうわけにもいかないらしい。俺の手からひったくるように薬を持って行った。 「町田さん、目瞑って」  その場で塗るのだろうと思って、言われた通り目を閉じた。プレイをするときは率先して服を脱ぐくせに、何故今恥じらう必要があるのだろう。彼の考えることはわからない。それにしても、軟膏を必要としたということはやはり痛かったということなのか。傷になっていなければいいが。  一通り考え事が済んだところで、ある違和感を覚えた。軟膏を塗るならばズボンを脱がなければいけない。同じベッドの上で手を伸ばせば触れられる距離で座っているのだから、彼が動けばベッドが揺れなければおかしい。ベッドの揺れどころか、布が擦れる音すらない。  目を開けようとした時だ。胡坐を組み、足首を触っていた俺の手の甲に彼の手が触れた。 「なに?」  目を閉じたまま聞く。彼は何も言わず、手首を掴んで俺の右手を顔の高さまで持ち上げた。そして、何かが指の関節にぶつかった。  弾かれたように目を開けると、黒目が小さめの彼と視線がぶつかった。俺の右手が触れていたものは彼の顔面、正確には彼の唇だった。 「目、瞑ってて。それからもうちょっと力抜いて」  見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌ててきつく目を閉じた。それにしても、彼は一体何をやっているのだろう。手が唇から離されたと思ったら、今度はゴツゴツした布の上に押し付けられる。恐らくゴツゴツしたものは彼の鎖骨で、布は彼が着ている高校時代に使用していた黒のジャージだ。ゆっくりと、身体をなぞって手を下におろされる。肋骨があるところは固く、腹は柔らかかった。風呂上がりの高い体温が、布越しに伝わってくる。強く手を引っ張られるものだから、前のめりになって左手をベッドの上についた。 「これ、何? 何かのサービス?」  手を引こうとしても、彼が強く手を握っているから引くに引けない。普段は意識したことがなかったが、彼の手の大きさに少なからず動揺した。 「町田さん、今日前戯雑だった」  だから怒っていたのかと、合点がいった。殴られることを覚悟した瞬間、唇に何かが触れた。 「おやすみ」  その一言と共に手が離された。ベッドが大きく揺れ、キスされたのだと気付いた時には、彼はとっくにこちらに背を向けて深く布団を被っていた。そういえば、今日は一度もキスしていなかったことに気付いた。

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