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第1話 森に降る雨

 森に雨が降っている。  黒鳶(くろとび)は梢から滴る水が土をうがつのをみていた。土に染みこんだ雨つぶが木の根をくぐり、岩のあいだから地上にでて、泉になる。透明なしずくが岩をつたってぽたり、ぽたりと落ちていく。水と緑と土のにおいがする。かすかに甘く、湿りけもあり、それにもかかわらず爽やかで、かぐわしい。  香りは黒鳶の鼻先をかすめ、逃げていく。香りのもとに向かって走りたいのに、黒鳶の体はうごかない。岩の間に蹄がはさまっていた。黒鳶はもがき、顔をかがめる。下半身は獣化しているのに胸から上は人のかたちだ。うつむいたとき鼻についた臭気は、さっきの香気とは似ても似つかない。  顔をしかめ、鼻に皺をよせたとたん、目が覚めた。  真上にみえたのは白い天井だ。雨の音もしなかった。  黒鳶はベッドを降りてカーテンをあけた。窓の外にみえるのは灰色の壁である。空はずっと上の方に切り取られた四角形でしかない。夜明けの色をたしかめて黒鳶は窓から離れた。  ここは独身の役人に与えられた官舎の一室で、窓のすぐ外にもそっくりの形をした官舎が建っている。出世すればもっと上の眺めのいい部屋がもらえるというが、黒鳶はまだ若く、低層の暗い部屋で我慢しなければならない。職場へ行く準備をしようと腕をあげたとき、むわっとしたにおいが鼻についた。  黒鳶は寝起きのときと同じように鼻に皺をよせ、服とタオルをかきあつめた。出勤まえにシャワーを浴びなければ。  最近の黒鳶は、自分の体のにおいが気になってたまらない。  学校を卒業したあと役所で働きはじめて二年、いまの部署へ異動して一年たつ。若くて健康で、外見にとくに目立ったところはない、雄の鹿族だ。給料は高くはないが生活には困らないし、仕事をつらいと思ったこともない。黒鳶は何年もまえに親を亡くしていた。恋人や親しい友人と呼べる存在もいないが、つつましく暮らしていけるのだから、そんなことは気にしないようにしていた。  しかし、近頃自分の体から漂ってくる、このにおいはひどく気になった。  あんないい香りのする森の夢をみるのも、これと関係があるのだろうか。街なかで育った黒鳶はあんなに深い森になど一度も行ったことがない。あの森の風景はたぶん、子供のころ親に聞かされた故郷の話から生まれた空想だろう。  鹿族は獣五種族――熊、狼、猪、狐、鹿――の中ではいちばん温厚な種族だといわれている。都会よりも田園や森を好むから街なかでは少数派だ。大人数の役所にも鹿族はほとんどいない。しかしそのために困ることはなく、むしろ職場では穏やかで控えめな性格が重宝されることもある。  このにおいはいつも黒鳶を悩ませるわけではなかった。体を洗った直後の肌は石鹸の香りがするだけだ。シャツのボタンをとめているときも、ピンと伸びた襟からは糊のにおいがかすかに鼻をつくが、不快ではない。  だが、部屋を出て食堂へ行く途中や、ひとりで静かに朝食をとっているとき、役所へ行って同僚や上司にあいさつをしているとき――歩いたり階段を上ったり、自分が体を動かすときに、黒鳶はなんとも表現できないにおいが自分の体からこぼれるように思うのだった。  それがどんなにおいなのか、言葉であらわすのは難しかった。汗の酸っぱいにおいや排泄物の臭気とはちがう。酒や腐った食べ物のにおいにも似ていないが、断じて「良い香り」ではなかった。自分以外の者からおなじにおいを嗅いだこともない。  さらに黒鳶を困惑させるのが、このにおいが自分にとってつねに不快なものとはかぎらない、ということだった。たまにとてもいいにおいだと思うこともあるのだ。そんなときはきまって、黒鳶は自分の皮膚の下にこもったような熱を感じた。しかしこのにおいが同僚や、すれちがう者たちを不快にさせているのではないかと思ったとたん、黒鳶の肌はさっと冷えて、落ちつかない気分になるのだった。何もしていないのに、自分でも正体のわからない羞恥にかられてしまうのだ。  におい、気になりませんか。  上司に一度、さりげなくたずねてみたことがある。しかし上司は何のことだかわからないといった様子で、しかもタイミングよく同僚が香辛料と揚げ物のにおいをぷんぷんさせながら事務室に戻ってきたから「おまえ、美味そうなにおいをさせてるじゃないか」と、黒鳶ではなくそっちへ声をかけ、話は終わってしまった。  やがて黒鳶は、ある雑誌で嫌な気分になる記事を読んだ。精神の不調によって幻のにおいを嗅いでしまう、ということがあるらしい。  ひょっとしてこれは自分の心の問題なのだろうか。悩みがだんだん深くなって、ある日黒鳶は意を決して病院に行った。  鹿族にありがちなことだが、狼族の看護師たちを前にして、黒鳶は最初びくついてしまった。狼族はそんな反応には慣れているのか、怒ることもなかった。黒鳶は検査をいくつか受け、そのあと熊族の医者に診察を受けた。 「結論からいいますと、黒鳶さんが気にしているにおいは幻ではありません」  医者は穏やかに、だがきっぱりとそういった。黒鳶にとっては思いがけないことだった。 「これがあなたが気にしているにおいです」示されたのは細かい文字と数字の列だ。 「これはあなたの種族が成熟したあと、皮脂腺から出すにおいです。でも他の種族にはわからないものなんですよ。わたしもまったくわかりません」 「そうですか?」  黒鳶は半信半疑で問い返したが、医者の言葉は明快だった。 「これはあなたの体が成熟して、同族だけがわかるサインを出すようになったということなんですよ。それともうひとつ――あなたは単なる鹿族じゃない、|斑鹿《まだらじか》族だ」 「え、はい……その通りですが」黒鳶は途惑った。「それが、何か」 「斑鹿族はふつうの鹿族よりも成熟が遅いといわれています。半年ほど前から気になるようになった、といいましたね。これもあなたが斑鹿族だからでしょう。他の鹿族はもっと前に成熟して慣れるので、においを気にしたりしないようです。何にしても、気にされることはありません。おなじ斑鹿族の方にしか感じられないものですし、同族の方にとっても嫌なにおいではありませんよ」 「そうですか?」 「ええ。発情周期と関係するにおいですから。街に同族のお知り合いはいますか?」 「いえ……」  たしかに黒鳶は斑鹿族だ。しかし人間の姿ではただの鹿族と見分けがつかないから、鹿族で通すことの方が多かった。  斑鹿族は鹿族内部の少数種族で、地方の森に棲んでいる。数が少ないのは月人に狩られたことがあるからだ。今のように地上の種族が人として認められる前、月人は斑鹿族の毛皮だか角だかを宝石のように珍重したという。斑鹿族が他の鹿族よりも一段と臆病になったのはこの記憶が引き継がれているせいだ、ともいわれている。  もっとも黒鳶は自分がそこまで臆病だと思ったことはなかった。とはいえたしかに人見知りな性格で、新しく友人を作るのは苦手だ。それに亡くなった親以外の斑鹿族に会ったことは一度もない。 「とにかく、あなたが気にしているものは異常のサインではないんです」  医者はそういったが、黒鳶は釈然としないまま診察室を出た。受付へ向かう途中、カルテをこわきに抱えた看護師が黒鳶を追ってきて、小声でささやいた。 「あの、どうしても気になるなら、そのにおいに合う香料をさがしてみるのはどうしょう?」  黒鳶は思わず聞き返した。 「他のにおいをつけて消せばいい、と?」 「いや、気をそらすためですよ。それに他の香りを重なることで、元のにおいも好きになれるかもしれませんし」  そんなことがあるだろうか。黒鳶は疑わしく感じたが、香料でにおいをごまかすのは悪くないとも思った。今まで考えたこともなかったのだ。

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