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第2話 大地の精油

 それからまもなく、黒鳶が暮らす都会でも雨の季節がはじまった。  雨がちの天気が続くと、官舎の一階から三階まではひどく湿っぽく、ひやりとした空気に浸される。窓をあけても風は通らず、さまざまなにおいが部屋にこもった。黒鳶はますます自分自身のにおいに悩まされることになった。だからついに、しとしとと雨の降る休日、街へ香料を買いに出かけたのだ。  最初は百貨店の香水売り場や置き香の棚をみてまわったが、明るくひらけた場所で香りを嗅ぐのがどうも落ちつかなかった。黒鳶はあきらめて売り場を出て、雨が降り続く薄暗い街中を歩き回った。帽子屋と書店に挟まれた小さな香料屋をみつけたときは、午後をすっかりまわっていた。 「何をさがしているんだね? 自分用かい? それとも贈り物?」  店の中は暖かい色合いの光に照らされていた。カウンターの向こうに立つ店の男は、百貨店の店員とちがって穏やかな口調だったので、黒鳶は落ちついて答えることができた。 「えっと……自分用です。雨が続くから、においが気になって……」 「これが香料見本だよ」  店の男は両腕をひろげて自分の左右のカウンターをさした。博物館の陳列コーナーのように区切られた棚の上に、透明な四角い覆いをかけられた球体がずらりと並んでいる。 「全部覆いをとって嗅いで、気に入ったものをいえばいい。品物をだしてあげよう。香水、練り香、置き香、煙香、いろいろな種類があるから、使い道にあわせて選べる」  黒鳶は手近なひとつをのぞきこんだ。香りは指先ほどの大きさの丸い石に染みこませてあるらしい。透明な覆いにはラベルが貼られている。いくつかのラベルにはラベンダー、オールドローズ、ワイルドローズ、ジャスミンのような、黒鳶も知っている花の名前が書かれている。だが別の方向に目を向けると「雪山の風」「岸壁に打ち寄せる波」「枯葉の寝床」「樫が燃える暖炉」といった詩のような言葉が書かれているラベルもあった。   好奇心にかられ、いくつかの覆いをとってにおいを嗅ぐ。ふわりと甘く香るものからツンと鼻を刺激するものまで、たくさんの香りがあった。  黒鳶は慎重に嗅いでまわり、気に入った香りをいくつかみつけた。この香りがあれば湿った部屋も爽やかに感じられそうな香りだ。 「いいのがあった?」 「あの……『森の泉の夢』は……」  店の男はうなずいて背後の棚から商品を取り出す。平たい小さな銀色の缶、深い青色をした六角形の硝子瓶。紙箱に収められた、丸薬のように固められた香。 「部屋に置いてつかうならこれかな。体につけたいなら香水か練り香だ」 「触っていいですか?」 「ああ」  黒鳶は青い硝子瓶に手をのばし、自分の体がこの香りをさせる様子を想像しようとした。ところがその瞬間、自分の――いつもの――あのにおいが腋の下のあたりからあがってきた。  やっぱり、ちがうような気がする。 「どう?」 「あ……すみません、やっぱり他のをみてもいいですか?」 「もちろん」  店の男はあっさり答えた。気分を害した様子がないのに黒鳶はほっとして、また見本の列の前に戻った。見本の小石は軽く、真っ白で、透明な覆いに囲まれていると岩石の標本のようにもみえる。  黒鳶は自分のにおいを意識しながら、あらためて香りを探しはじめた。ところがこうなると、自分の感覚にしっくりするものがまったくみつからないのだ。こんなにたくさんの見本があるのに。  ふと、棚の奥まったところにひとつだけ離して置かれた見本が目に留まった。覆いをとって嗅いでみる。とたんに、不思議なほど懐かしい気分が襲ってきた。ああ、これだ。何度か夢にみた森の香りは。 「あの、これをください」  ところが黒鳶が指さした見本をみたとたん、店の男は困ったような表情になった。 「ああ……『大地の精油』ですね。申し訳ない、今は在庫がないんですよ」 「そうなんですか」 「とても珍しい香りでね。乾季にしか作れないので、入荷自体が少ないんですよ。産地も限られているし」 「どこで作っているんですか?」  店の男は地方の森林地帯の名を告げた。 「この香りが珍しいのは、香りの原料がこの森でしかとれないせいでね。乾季の粘土から香りを抽出する」  なるほど。黒鳶は納得したが、同時にひどくがっかりした。 「次の入荷はいつですか?」 「来年――ただそれも……」男は帳面を取り出してめくった。「なにせ生産数が少ないのでね。次の入荷も予約でいっぱいだ。追加仕入れができるか問い合わせてみよう」 「お願いします」  黒鳶はそういったものの、運よく手に入っても来年のことだと思うと落胆は去らなかった。ため息をついて顔をあげると、店の男はカウンターの下に体をかがめて、何やら探している様子だった。 「たしかここに――ああ、これだ」  黒鳶の前に小さな銀色の缶を置き、蓋をひねる。あらわれた丸薬のような塊からさっきの香りが漂った。 「これは去年、得意先用に作ってもらった特別な見本でね。今はもう必要がない。練り香しかないが、もしよかったらどうかね?」  沈みかけていた黒鳶の気分は一気に晴れやかになった。 「いいんですか? ありがとうございます」 『大地の精油』の効果はてきめんだった。  黒鳶は毎朝、香りが練りこまれた粒を人差し指と親指で慎重につまみ、腋、股のあいだ、首筋にこすりつけた。ふわりと漂う香りは黒鳶の心を落ちつかせただけでなかった。自分の体のにおいもこの香りと組み合わせられると、それまでとはうって変わっていい匂いだと感じられるようになったのだ。  毎日つけていたので、缶の中身はどんどん減っていった。もったいないから今日はやめておこう。そう思っても、朝シャワーをあびたあと、黒鳶の手は勝手に缶をあけてしまうのだった。雨の季節が終わるころ『大地の精油』はついになくなってしまった。黒鳶は恨めしい気分で缶をひっくりかえし、裏面に小さな文字で生産地が書いてあるのをみつけた。ここから列車で三日かかる地方の森林地帯の、特に奥まった地域である。  乾季にしか作れない、と店の男が話していたのを黒鳶はあらためて思い出した。森林地帯は一足早く雨の季節がおわり、乾季に入ったはずだ。  ひょっとしたら、直接産地をたずねれば手に入るのではないだろうか。天啓のようにそんな考えがひらめいた。家族で旅行へ行った記憶もほとんどない黒鳶にとっては冒険にひとしい考えだ。だが一度思いついた企みは心から消えなかった。黒鳶は休暇を申請し、寝台列車の切符を買った。  初めてのひとり旅だった。  寝台列車は都市部を抜け、平原を抜けて走った。森林地帯にさしかかると目に見えて鹿族の姿が増え、やがて他の種族より多くなった。黒鳶にとってはこれまでにない経験だった。生まれてこのかたずっと、他の種族に囲まれて生活してきたのだ。  列車をおりると、周囲は香料の一大産地だった。この地域の森や畑で育てられているのは香りのもとになる植物ばかりだ。だが黒鳶の目的地はさらに先だ。やっと乗合自動車に席をみつけたが、同席者も鹿族がほとんどで、他種族は狐族ひとりだけである。鳥族はずっと上空で鳴きかわしている。彼らは獣とちがい乗り物を使わないのだ。  自動車はガタガタ揺れながら、あまり整備されていない山道を走った。たどりついた村は黒鳶が予想したよりも大きく、賑わっていた。軒をつらねているのは香料の製造所で、直売所もあるようだ。宿も簡単にみつかった。黒鳶は中庭に面した明るい部屋に荷物を下ろし『大地の精油』の空き缶をふところに入れて、直売所に向かった。空は青く晴れ、緑は鮮やかに輝いている。黒鳶の心も浮き立っていた。  ところが直売所の村人の返事は黒鳶が望んだものではなかった。 「大地の精油? ああ――あるけど、売れないねえ」 「どうしてですか?」 「今季の製造分はぜんぶ売約済みなんだよ。今年はとくに原料が少なくてね。去年が旱魃だったものだから」  村人が説明するには、この精油の原料は一年前に掘り出した粘土なのだという。雨を吸った粘土を乾季に掘り、蔵で一年かけてゆっくり乾燥させる。翌年の乾季に土を蒸留し、精油に香りを移すのだ。ところが昨年は雨がすくなく、よい土があまり獲れなかった。  はるばるここまで来たのに。黒鳶はまたがっかりして、うつむいてしまった。意気揚々と質問したのに、とたんにしょんぼりしてしまった彼を気の毒に思ったのだろうか。 「その缶、見せておくれ」  村人は黒鳶が手にした『大地の精油』のラベルをしげしげと眺めた。 「これは山吹の製造所だね。そういえば都会の店に卸したって話、聞いたことあったけど……」 「どうしたんだ?」  背後で陽気な声が響いた。黒鳶は驚いて、あろうことか髪のあいだから獣型の耳――鹿の耳をぴょこりと出してしまった。ゆっくりふりむいたが、恥ずかしさに頬が熱くなる。耳だけとはいえ、不用意に獣型を出してしまうなど子供のころ以来だ。  声の主は日焼けした青年だった。黄色の髪と眉の下に輝くような褐色の眸がみえる。黒鳶の心臓がどくんと跳ねた。斑鹿族だ。  でも、どうしてそれがわかったのだろう。人の姿になると鹿族も斑鹿族も外見は同じだ。だから黒鳶はいつも単なる鹿族で通してきた。 「山吹。ちょうどいいところに来たよ。ほら、これ、あんたのところのだろう? わざわざ都会から買いに来たんだって」 「うちの? ああ、そうだね。ありがとう。ただ……」  また断られるのだろう。黒鳶は山吹と呼ばれた青年からおどおどと目をそらした。だが青年の返事は、黒鳶の予想とは異なるものだった。 「今は在庫がないんだ。でも待ってもらえるなら、すこしなら売れるよ」  山吹の唇が黒鳶に近づく。雨の季節のあいだに慣れ親しんだ香りが黒鳶を包みこんだ。 「これ、卸商人には秘密な。自家用に作る分だから。何日ここにいる?」  内緒のささやきが耳に触れる。黒鳶の背筋はなぜか、甘く震えた。 「あ……本当に?」 「ああ」  青年の笑顔は樹々のあいだから差しこむ光のように輝いてみえた。  どうせ休暇はたくさん残っているのだ。黒鳶はうなずき、滞在をきめた。

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