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第3話 吐息の熱量

 村にならびたつ香料の製造所はぜんぶ、明るい橙色の煉瓦でできていた。屋根瓦は桃色をおびた橙色で、どの建物からも、とんがった帽子をかぶったような小塔がのびている。山吹はすれちがう村人とすばやく挨拶を交わしながら、すたすたと歩いていく。黒鳶は彼を見失うことがないよう、必死でついていった。  村人は山吹のうしろに黒鳶がいてもとくに好奇の目を向けなかった。まもなく黒鳶はすれちがう村人の半分が斑鹿族だと気づいた。同族がこんなに集まっている場所に来たのは生まれて初めてだ。黒鳶が何者なのかたずねられないのも、斑鹿族だとわかるからか。 「おっと、気をつけて」  曲がり角で山吹は急に足をとめ、手をのばして黒鳶を制した。景色が遮られるほど荷を載せた車が黒鳶の前を通り過ぎる。荷台に積んだ袋の口から鮮やかな色の花びらがこぼれた。 「今年は雨がよく降ったし、いまは花も満開だ。どこの蒸留器もいそがしい」  山吹は車が進んでいく先を指さした。倉庫のような作業場の扉が開け放たれ、低い桶のまわりに人々が腰をおろしている。ムシロを敷いた床に袋の中身――摘みとられた花がぶちまけられていた。人々は花に群がる虫のように集まって、花びらをむしり、桶に投げ入れていく。桶が花びらでいっぱいになると、ふたりがかりで桶を持ち上げ、建物の奥の方へ運んでいく。 「あっちに蒸留器があるんだ。ほら、塔がみえるだろ?」  山吹はとんがり帽子のような屋根を指さした。 「あれだけたくさん花があっても精油になったら十分の一だ。俺のところも今は花にかまけているけど、雨のにおいは自家用だから」 「雨のにおい? 大地の精油、だろう?」  黒鳶は聞き返した。山吹は白い歯をみせて笑った。 「ここじゃ、粘土の精油は昔から雨のにおいって呼ばれてるんだ。大地の精油っていうのは商品名さ。ま、こっちの方がかっこいいからね。こっちが俺の製造所だ」  道を曲がって歩き出す。気さくな山吹のふるまいに黒鳶の緊張も薄れてきた。 「そんなに若いのに、自分の製造所をもっているのかい?」  そうたずねると黄色い髪を大きく振った。 「家族でやってるからね。今はおやじが留守だから俺が表に立ってるだけさ。この村の製造所はみんな家族経営なんだ」 「その、僕は雨のにおい……が欲しくて来たんだけど、精油って、どんなふうに作るのかぜんぜん知らなくて」  黒鳶は慎重に言葉を選びながらいった。ひとつの香りをもとめてはるばるやってきたというのに、自分が何も知らないことを自覚して、恥ずかしくなっていた。  山吹は黒鳶のためらいをまったく気にしたそぶりがない。 「そりゃあそうさ。狐の卸商人だって最初は何も知らないんだ。みせてやるよ」 「どうしてそんなに親切なんだい?」  山吹は驚いたように目をみひらいた。 「うちの製品が気に入って、こんなところまで来てくれたんだろう? あたりまえだよ。そういえば名前、聞いてなかった。俺は山吹」 「黒鳶……だ」  おずおずと名前を告げる。 「黒鳶」山吹がくりかえすと、自分の名前なのにとても新鮮な響きに思えた。 「きれいな黒い髪に似合ってる。俺、都会から来た斑鹿族に会うのははじめてだよ。こっちに親戚がいる?」 「いいや。両親が亡くなって……ひとりなんだ。親族に会ったこともなくて」 「気の毒に」 「いや、ずっと昔のことだから……」  話しながら歩くうち、いつのまにかふたりは森を背後にひかえて建ちならぶ漆喰塗りの蔵に近づいていた。漆喰は桃色がかった橙色で、瓦屋根は明るい黄色だ。 「あそこに雨のにおいの原料がある」山吹が建物を指さした。 「蒸留がはじまったから今は半分空だ。空いたところに今年獲った粘土を入れて、来年用にする。見てたい?」 「いいの?」 「もちろん。俺の蒸留器もみていってよ――あ、母さん」  山吹は蔵の横手を通った女性を呼びとめた。 「山吹、こんなところにいたのね。その人は?」 「お客さんだよ。うちの品物が気に入って、ここまではるばる来てくれたんだ――」  山吹は女性に駆け寄り、小声で話しはじめた。黒鳶はどうしたらいいのかわからないままその場に立っていたが、山吹の話が終わったとたん女性は笑顔になり、黒鳶を手招きした。 「遠くからよく来たね」  黒鳶は差し出された手を握った。 「突然すみません。お邪魔だったら宿に戻りますから」 「お邪魔? まさか」山吹の母は乾いた声で笑った。 「宿ってどこに?」 「直売所の裏の……」 「ああ、卸がいるところ? あんな狭いところにわざわざお金出して泊ることないよ。うちに来なさい」 「え、でも……」 「雨のにおいを買いたくてはるばる来たんだって? 自家用はふつう売らないんだよ。卸商人に詮索されるのも嫌だから、うちに泊まりなさい」 「あ……」ふつうは売らない、という言葉に黒鳶は首をすくめた。 「それはあの、無理をいうつもりはなくて……」 「いいのよ。あの子が売るっていったんだから。誰にでもそんなことをいう子じゃないの。それにあんたは斑鹿族だし、親戚みたいなものよ。そうそう、都会育ちって聞いたけど、ほんとうにこっちに親戚はいないの?」 「はい。両親は子供のころ故郷を連れ去られたとかで、何も知らなかったんです」 「ああ」  山吹の母の目が同情の色をおびた。ずっと昔、森林地帯から鹿族の子供を連れ去って、都市の労働者にしようというたくらみがあったのだ。貧しい鹿族の親が子供を手放し、子供たちは列車で故郷から遠くへ連れていかれた。 「それなら今日からここがあんたの森よ。さあ、山吹についていきなさい」 「ありがとうございます」  蔵の入口で山吹の手がぶんぶんと大きく振られ、黒鳶を呼んでいる。急ぎ足で近づいていくと、あのにおいが鼻を打った。『大地の精油』の香りに似ているが、もっと野性を感じさせるにおいだ。 「あれが粘土だ」  蔵の中には棚が整然とならび、クリーム色の大きな円盤が積まれていた。チーズのような形だった。 「今年の粘土を収穫したら、空いた棚にならべるんだ。収穫は花の蒸留のあとだけどね。蒸留器はこっち……」  黒鳶はもっとこの香りを嗅ぎたかったが、山吹はもう歩きだしている。とんがり帽子の小塔がならぶ煉瓦の建物に入ると、大きな桶の前で忙しく手を動かしている数人が「山吹~」と声をあげた。 「どこで遊んでるのさ」 「その人は? 今年の恋人? もう春は終わってるよ」  他意のないからかいにちがいない。自分も山吹も雄なのだ。黒鳶の頬はかっと熱くなったが、山吹は「ちがうよ。黒鳶はお客さんだ」とあっさり答え、黒鳶の前をさっさと歩く。  ふたりは狭い通路を進んでいた。前方の戸口が目指す場所らしい。空気には熱気がこもり、黒鳶は汗ばんでいた。 「気にしないで。おばさんたちは暇なんだ」と山吹がいう。 「暇……には見えなかったけど」 「口が暇なんだよ! ずーっと喋ってないと気がすまないんだ。ほら、これが蒸留用の窯だ」  そこは屋外に面した広い場所で、窓も戸口も開け放たれていた。真ん中に黒鳶が中に入れそうなほど大きな丸い窯があり、火が焚かれている。窯の中央の高いところから細い管がのび、隅にある別の装置につながっていた。 「窯の中には香りの原料と水が入ってる。ああやって熱を加えてエッセンスを凝結させて、こっちの純粋な精油に溶けこませるんだ」  ここで働いているのは男衆だけで、熱いせいか全員半裸になっている。いつのまにか山吹もシャツの前をあけていた。黒鳶は無意識のうちに山吹の褐色の肌を凝視していた。あわてて視線をそらしながら、汗ばんで胸に貼りつくシャツを引っぱる。さっきから肌が火照ったように感じるのも、この場所の熱気のせいだ。いくら同族だからって、会ったばかりの、それも雄を意識するなんて、あるはずがない。  鹿族は他種族に対しては臆病だが、同族のあいだにいればまったくそんなことはない――と、世間一般では信じられている。同族の集まりで気があう相手をみつけるとすぐに親密な間柄になって、気軽に愛を交わすし、同性のあいだでもよくあるのだ、と。  鹿族をほとんどみかけない都会でもまことしやかにささやかれる話だが、黒鳶はこれまで本気にとったことはなかった。なにしろ、斑鹿族はもとより、年齢のちかい鹿族にすらめったに会わない生活をしていたのだ。  それなのに今は出会ったばかりの山吹の肌をみて、こんなにどきどきしている。  きっと錯覚だ。こんな遠くまではるばるやってきて、親切に扱われて、自分はちょっとおかしくなっているのだ。 「あの、外に出て……いいかな」黒鳶はそっと山吹へいった。「暑くてたまらないんだ」 「ああ、ごめん。気づかなくて」  山吹は脱いだシャツを腰に巻き、黒鳶の背中をそっと押した。布越しに感じた手のひらの熱さが心臓をまた跳ねさせる。男衆の視線を感じながら黒鳶は涼しい風の吹く外に出て、ほっと息をついた。 「母さんがここに泊まれっていっただろう?」  山吹はシャツで上半身の汗をぬぐっている。黒鳶は視線のやり場に困った。 「ああ、そう聞いたけど……いいのかな」 「あたりまえだ。荷物はどこ? 宿?」 「うん。一度戻らないと」 「一緒に行こうか」 「いや、いいよ。そこまでしてもらうのは悪いから」 「遠慮しなくていいのに」  宿まで付き添うという山吹をなんとか振り切り、黒鳶は村の中心部へ戻った。他に泊まる場所がみつかったと話すと、宿の者は「ああ、親戚に会えた?」とあっさりいって荷物を渡してくれた。  こんなことでいいのだろうか。山吹の一族の製造所へ戻りながら黒鳶は不安になったが、森を渡る風を感じながら元の道を歩いていると、ずっと向こうで山吹が手を振っているのがみえた。そのとたん心がぱっと浮き立って、それまでの不安はどこかへ消えてしまった。 「荷物、俺が持つよ」 「仕事はいいのか?」 「黒鳶を案内するのも俺の仕事だ。部屋はこっち」  製造所の裏に山吹たちの家族が暮らす大きな家があった。母屋から枝のように伸びた屋根のある通路が離れの小屋をつないでいる。木組みのテラスがある小屋はきちんと整頓され、大きなベッドには枕がふたつ置いてあった。 「ひとつ離れた森筋の親族が帰ったばかりなんだ。きれいだろう?」  そういって山吹はテラスへ通じる窓を開け放った。 「俺の部屋はあっち」  山吹の横に立つと、テラスの向こう、木立をはさんで母屋の窓がみえる。 「ああ……」山吹がとつぜん低いため息をついた。 「いいにおい。黒鳶って、ほんとうにいいにおいがするね」 「……え?」  黒鳶は思わず山吹をじろじろみつめかえした。 「そんなこと……ないと思うけど。今は練り香もつけていないし」 「俺がいうのも変だけど、どうして練り香がいるの?」 「だってそれは……」黒鳶は迷ったが、ぼそぼそと答えた。 「自分のにおいが嫌なんだ。ここだとあまり気にならないけど、街では時々すごく……気になってしまって」 「変だな」  あっと思ったときには、山吹の腕が黒鳶の背中にまわっていた。鼻先が黒鳶の首筋をさぐるように触れる。 「すごくいいにおいだよ」 「や、山吹……」 「髪もきれいだ。黒鳶……」  山吹の吐息が顎をなぞり、指が背中をそっと撫でる。黒鳶はぶるっと体をふるわせた。嫌だからではなくて、その逆だ。まさにさっき――熱せられた窯の横で黒鳶が思ったのは、こんな風に山吹に抱きしめられたら、ということだったのだ。 「直売所で黒鳶をみたとき、びっくりしたんだ」山吹が耳元でささやいた。 「すごくいいにおいがして――すごくきれいで……」  山吹の唇が頬をかすめる。黒鳶はささやきを返すだけで精いっぱいだった。 「山吹、僕は……経験がなくて……きみのことは……好き……だと思う、けど……僕たち、雄同士だし、会ったばかりだし……」 「そんなの関係ある?」山吹の声は黒鳶をあまくしびれさせた。 「キスしていい?」 「ごめん、僕、は、はじめて……だから……」 「優しくするから」  顎をもちあげられ、黒鳶は山吹の眸を正面からみつめたが、唇を覆われたときは目を閉じていた。軽く吸われるだけで頭がぼうっとする。黒鳶は思わず山吹のシャツをつかんだ。温かい舌が口の中に入りこんで、歯の表と裏をゆっくりなぞっていく。こんな風に他人と密着したことのない黒鳶にはほんとうに思いがけない行為だ。それなのに自分の体はこのことを予期していたように熱をもちはじめている。背中から腰、前の――  はっとして黒鳶は山吹から体をもぎ離そうとした。 「あ、あの」  山吹はきょとんとした表情で、そっと黒鳶の肩に腕を回す。 「嫌だった?」 「嫌じゃない……でも……こわくて」 「大丈夫」山吹は片手で黒鳶の髪を撫でた。 「今夜、来ていいか?」  黒鳶は返事ができなかった。山吹は髪を撫でつづけている。 「黒鳶が嫌なら来ない」 「嫌じゃ……ない」 「だったら夕食のあとで。俺は行かないと」  山吹が出て行ったあとも黒鳶の心臓はどきどきと脈打っていた。体が熱くて、股のあいだがきつくてたまらない。意識したとたん黒鳶の顔は真っ赤になった。ひょっとして、これが成熟するということなのか?  黒鳶は大きく息をつき、窓から流れこむ森の風にしばらく身を晒していた。

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