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第8話 雨のにおい

 森林地帯へ派遣されたからといって、すぐに山吹に会えたわけではなかった。  黒鳶は今回、狼・熊・猪族が合同編成した軍の特急列車で移動した。休暇で何度も訪れた駅はいつもののんびりした雰囲気とは様変わりしていた。  大雨を降らせた雨雲は去ったものの、地上の復旧ははじまったばかりだ。山吹の村へ通じる道は一部が土砂で埋まっていて、自動車が通れない。道が閉ざされて半分孤立した村は他にもあって、主に獣に変身した熊族や猪族が復旧にあたっていた。緊急に必要とされる物品は猪族が背に負って運んでいた。獣型になって、森の獣道を疾走するのだ。  黒鳶にも仕事はいくらでもあった。現地の役所へ到着した直後から、黒鳶は避難所へ物資や道具を送る手配にあけくれた。  土砂で自動車道がふさがれても狼族と鹿族は獣道を走って情報を運んでくる。彼らの報告を聞き取ってまとめたり、あいまに入る問い合わせに答えたりするのは、黒鳶がこれまでやってきた仕事と本質的には同じだが、一日の終わりにはくたくたになった。眠るのは近くの安宿で、役所と宿を往復するだけで数日がすぎた。  そのうちに熊族たちの働きで道路の土砂がなくなり、崖の補強も進んで自動車が通れるようになった。黒鳶は避難所を巡回する部隊に加わった。  この役所で働いていた鹿族は、黒鳶が来たのをとても喜んでくれた。おなじ鹿族だから、というのもあったが、黒鳶の仕事ぶりを買ってくれたというのもある。 「こっちに親戚がいるんじゃないか? 連絡はとれたかい?」  物資を積んだ車内でたずねられて、黒鳶は「斑鹿族の村につがいがいるんです」と言葉すくなに答えた。 「つがい? なんだって、もっと早くいえよ」同乗の鹿族が慌てた口調でいった。 「避難所にいるのか?」 「狼族からは道が崩れただけで、村のみんなは大丈夫と聞いてます。でもつがいとはまだ連絡がとれなくて……」 「心配だろう。そこまで送ってやるよ」 「え、でも……」 「何日も休みなしで働いているじゃないか。そっちの村の細かい状況を把握して、緊急で補修が必要な場所や必要な物をリスト化してくれ」  その日の夜おそく、黒鳶は山吹の村にたどりついた。  雲のない空にはまるい月が輝いていたが、村は暗かった。燃料を節約するために明かりを落としている家が多いのだ。直売所の裏手の宿に狐族の卸商人はひとりもおらず、近隣の森から難を逃れてきた鹿族が滞在していた。今日はここに泊まるという同僚に別れをつげ、黒鳶は急ぎ足で山吹のもとへ向かった。  臨時派遣職員に志願したとき、短い手紙を書いて送ったのだが、届いたかどうか心もとなかった。道中にならぶ香料製造所もすべて真っ暗だ。しかし山吹の一族の母屋には明かりが灯っていた。 「黒鳶! どうやってここに?」  扉をあけたのは母親だった。 「避難所まわりの車で送ってもらいました。今、こっちの役所で働いているんです。手紙は着いてませんか?」  母親は首をふったが、とにかく中に入れと黒鳶をうながす。奥からぞろぞろと斑鹿族が顔を出したが、山吹はいない。 「あの、山吹は?」 「山吹! あの子はどこ?」  鋭い問いかけにざわざわと声があがる。 「夕飯のときはそこで――」 「兄ちゃんならさっき外へ行くのをみたよ」まだ幼い弟がこたえた。 「あの子はまた!」母親は舌打ちし、それから申し訳なさそうな顔で黒鳶をみた。 「きっと採取場だ。呼んでくるから待ってて」  採取場とは雨のにおいの原料になる粘土を掘る場所である。 「どうして採取場に?」  黒鳶は聞き返した。母親は渋い表情になった。 「蒸留塔は大丈夫だったんだけど――窯がひとつ、雨漏りでやられただけでね。ただ採取場のまわりは水路が溢れて、ずっと近寄れなかった。昨日からやっと復旧作業ができるようになってね」 「山吹は粘土が流れるのを心配してるんだ」 「こんな夜中に見に行っても仕方ないのに」  みんながいっせいに口をひらいた。黒鳶は荷物を足元に置いた。 「わかりました。僕が行ってきます」 「駄目だよ、着いたばかりなのに」 「いいんです。早く山吹に会いたいから……あ、これ、おみやげです」  母親はそっと息をついた。 「行くのなら姿を変えて行きなさい。その方が安全よ」  黒鳶は納屋の前で鹿に変身した。獣になるのはひさしぶりだった。採取場の方角はゆるやかな上りで、鹿の目のほうが森の奥まで見通せた。駆けぬけると水のにおい、濡れた木の葉と土のにおいでいっぱいだった。  突然ひらけた場所に出る。粘土の採取場はむきだしになった段丘状の場所だ。地面は濡れていた。水路を固めた石がところどころ壊れ、あたりに転がっている。上の方に人影がみえた。  やまぶき。  黒鳶は鹿の姿のまま叫び、跳んだ。前方で月明かりに照らされた背中が揺れ、黒鳶をふりむく。 「まさか……」  山吹を目の前にして、黒鳶の全身は喜びと安堵でふるえた。体を覆う白いまだらを星のように煌めかせて、もう一歩。  やっと隣に立って山吹を見上げる。ところが山吹は、黒鳶がここにいるのが信じられないといいたげな表情だ。黒鳶は山吹の体に胴を押しつけた。 「黒鳶、いつ来たんだ。どうして……」  黒鳶はまた変身しようとしたが、首に山吹の腕が回されるのを感じてそのまま動きをとめた。 「ああ……会いたかった」  山吹が黒鳶の毛皮に顔をうずめる。 「次に黒鳶がくるのを楽しみにしていた。こんなときじゃなければもっとよかった」山吹の声はひどく心細い調子で響いた。「粘土が流れてしまうんじゃないかって、気になって仕方なくてさ」  山吹のにおいが黒鳶を包みこむ。そのとたん自分でも思いがけないことに、黒鳶の体は勝手に変身をはじめてしまった。山吹が顔をうずめている上半身が人の姿に変わっていく。黒鳶は鹿の後肢で不器用に立った。人の声が喉から飛び出す。 「大丈夫だよ、山吹。僕が来たもの。乾季がくればここの土から雨のにおいが採れる。そうだろう?」  山吹の腕が裸の背中をぎゅっと抱きしめた。 「黒鳶、仕事はどうしたんだ」 「何日か前からこっちの役所で働いているんだ。臨時職員に志願して来た」 「そうか」 「会いたかった。山吹……」 「ん?」 「一緒にいたい」  山吹の腕の力がもっと強くなる。抱きしめあうたびにお互いのにおいが混ざりあい、黒鳶を陶然とさせた。体を揺らしたとたんに蜜がこぼれた。 「ああ、山吹……だめ、僕……濡れて……」 「うん。帰ろう」あたたかい手のひらが黒鳶の髪を撫でた。 「姿を変えて。俺は黒鳶について歩くから」  山吹の手が離れると黒鳶はまた全身を獣に変えた。月光の下で黒い艶やかな毛皮を白いまだらが鮮やかに彩る。 「黒鳶、すごくきれいだよ」  黒鳶は恥じらうように首を振り、森をめざして歩きはじめた。    *  臨時派遣の期間が終わる前に黒鳶は正式な異動願いを出し、山吹の村で暮らしはじめた。  新しい同僚たちはみな黒鳶が留まることを喜んでくれた。この地でも黒鳶が都市で働くあいだに身につけたノウハウは使えて、意外なことで重宝されたのである。  やがて黒鳶はこの地の名産である香料生産と取引にまつわる事柄にも詳しくなった。これらの知識や役所を通じて得たつながりは山吹の一族の事業にも役に立った。黒鳶は都会の住民が好みそうな包装や、かつての自分のような若者に香りを届ける方法を考えるようになった。  五年後、黒鳶は役所をやめた。いまではふたりで旅をして取引先をまわっている。最初に『大地の精油』に出会った香料屋へ品物をおさめに行くのも毎年のことだ。  出会った時から何年も経ったが、今もふたりは休日になると森で遊ぶ。獣の姿になって木々のあいだを走り回り、人の姿で泉を泳ぐのだ。

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