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第1話

「隣に引っ越してきた佐々木(ささき)です」  こちらに向けられる綺麗な笑顔を、直人(なおと)はぽかんと見上げた。  頭が真っ白になって、それからパニックに陥りかける。 (え!? 佐々木!? 佐々木だよね!? なんで佐々木がここに!?)  慌てふためく脳内とは裏腹に、驚きすぎて直人の顔はピクリとも動かなかった。 (え、ちょっと待って、今なんて言った!? 隣に引っ越してきた!? 嘘!? 佐々木が隣の部屋に!?)  動揺してなんの反応も返せずにいる直人を見て、佐々木は困ったように首を傾げる。 「えっと……」  直人は我に返り、慌てて頭を下げた。 「あ、あっ、わざわざ、ありがとうございます! 木村(きむら)です、これからよろしくお願いします!」  真っ赤になって早口に捲し立てれば、佐々木は穏やかに微笑んだ。 「こちらこそ、よろしくお願いします。これ、よかったら貰ってください」 「ありがとうございます!」  お菓子を受け取り、また深く頭を下げる。  佐々木はにっこり微笑んで、その場から離れていった。  玄関のドアが閉まり、直人は大きく息を吐いた。  ばくばくと、痛いくらいに心臓が高鳴っている。  受け取ったお菓子をじっと見つめた。  もしかしてこれは夢なのではないかと思う。  だって、片想いの相手が隣に引っ越してくるなんて。  佐々木(まこと)は直人と同じ大学に通っている。出会ったのは半年前。階段から足を踏み外して転げ落ちそうになった直人を、彼が受け止めてくれたのだ。 「大丈夫?」と優しく声をかけられて。  蒼白になって何度も謝る直人に、「気にしなくていいよ」と微笑んでくれた。  そして直人は恋に落ちたのだ。  単純だと自分でも思うけれど、でも、落ちてしまったのだ。  打ち明ける勇気などなくて、直人はただ彼を思うだけだった。  大学では殆ど顔を合わせることもなく、見かけても話しかけることもできず、遠くから見つめるだけ。  佐々木はとても人気がある。成績もよくて顔もよくてスタイルもよくて、大勢から好かれている。彼の周りにはいつも人がいて、直人はそれを羨むだけだ。  佐々木は直人のことなど覚えていないだろう。さっきも、直人の顔を見てもなにも言わなかった。同じ大学に通っていることも気づいていないはずだ。直人が一方的に彼を知っていて、好きなだけなのだ。  出会いから、半年。まさか同じアパートで暮らすことになるなんて。  どうして急に引っ越してきたのだろう。古くてセキュリティもしっかりしていない壁も薄い安アパートに。  佐々木は高級マンションで暮らしていると、以前噂で聞いたことがある。なにか事情があり、引っ越さなくてはならなくなったのだろうか。  気にはなるが、引っ込み思案な直人は直接本人に詮索などできない。親しくなりたいなんて、そんな烏滸がましい考えは頭になかった。アパートでたまに顔を合わせて挨拶を交わせれば、直人はそれだけで充分だ。  しかし、先程のやり取りを思い出して落ち込む。 (佐々木の顔見て固まっちゃったからな……。変なやつって思われたかも……)  直人が美少女だったら見つめられても悪い気はしなかっただろうが、生憎直人は絵に描いたような平凡男子だ。 (キモいって思われて、挨拶もしてくれなかったらどうしよう……)  それは悲しすぎる。  せめて嫌われないよう、絶対に自分の気持ちがバレないようにしなくては。  好きな人が壁を挟んだ隣にいるなんて緊張するが、僅かでも彼との交流の機会が増えるのは純粋に嬉しかった。直人にとって交流とは挨拶を交わすだけだが。 (顔を合わせたとき、動揺しないで挨拶できるようにならなくちゃ……!)  同じアパートで暮らしていれば、不意に顔を合わせることもあるだろう。そのとき、平常心でいられるようにならなくてはならない。  そんな決意を胸に、直人は部屋に戻った。  佐々木が引っ越してきてから、何事もなく日々は過ぎていった。  相変わらず学校で顔を合わせることはないが、アパートでは数回挨拶を交わした。緊張して声が裏返ってしまったこともあったが、佐々木は不審がることもなく、普通に隣人として接してくれた。  佐々木に笑顔で挨拶をされれば、それだけで心が浮き立つ。  実は同じ大学に通ってるんだ、なんてそんなことすら直人は言えない。挨拶を交わすだけでいっぱいいっぱいだった。  そんなある日の休日。チャイムが鳴って、直人は玄関へ向かう。  ドアスコープを覗けば、そこにいたのは佐々木だった。 (え!? なんで佐々木が!?)  喜ぶよりもまず不安が過る。 (もしかして俺の気持ちがバレた!? 気持ち悪いから二度と声かけるな近づくなとか、そういうこと言われるの!? それともテレビとか洗濯機の音とかがうるさいとか、そういう苦情かも……)  思い浮かぶのはそんな卑屈な考えばかりだった。  恐ろしかったが、無視するわけにはいかない。  直人は恐る恐るドアを開けた。 「は、はい……」 「こんばんは、木村さん」 「あ、こ、こんばんは……」  にこやかに話しかけられ、直人は戸惑う。自分の想像は外れていたのだろうか。  おどおどする直人に、佐々木はなにかを差し出した。 「これ、煮物なんだけど。作りすぎちゃったから、よかったら食べてくれる?」 「え!?」  直人は佐々木の手にあるタッパーを凝視し、硬直する。 (え、え!? 煮物!? 手作り!? 佐々木の手料理!? それが今、俺の目の前にある!?)  信じられない展開に、直人の脳内はパニックだ。   (え、これって夢!? だってこんな……佐々木の手料理が、俺の手の届く場所に……しかも佐々木本人が……俺に……食べてくれる? って……直接渡してくれて……)  幸せすぎる状況に、直人は反応できない。  赤面して一心にタッパーを凝視する不審な直人を見て、佐々木は顔を曇らせた。 「急にごめん……。いきなり手料理とか、気持ち悪いよね……」  直人は首がもげるほど激しく首を横に振った。 「そんなこと! ない、ですっ」  気持ち悪いなどと思うわけがない。寧ろ喉から手が出るほど欲しい。お金を払ってでも食べたい。 「あの、う、嬉しい、です! 俺、料理、苦手で……だ、だから、すごく助かります!」  必死になりすぎて、自分でもなにを言っているのかわからない。  けれども言いたいことは伝わったようで、佐々木はほっとしたように顔を綻ばせた。 「受け取ってもらえる?」 「もちろん! です……っ」 「よかった」  嬉しそうな彼の笑顔に、直人の心臓は飛び跳ねる。 「あ、ありがとう、ございます!」 「気にしないで。一人じゃ食べきれないから、受け取ってもらえるとほんとに助かるんだ」  にこりと微笑む佐々木から、震える手でタッパーを受け取った。 「それじゃあ」と手を振って佐々木は隣の部屋に戻っていった。  直人はぐっとタッパーを握って室内を移動する。  中はまだ温かい。出来立てなのだろう。  すぐに食べてしまうのはもったいない。けれど出来立てを食べたい。  直人はご飯をレンジで温め、早速いただくことにした。  タッパーを開ければ、ふわりと食欲をそそる匂いが鼻を掠めた。 (佐々木の、手作り、なんだよね……)  それだけで大金を払うほどの価値があるが、それを差し引いてもとても美味しそうだ。 (佐々木が、作った料理……佐々木が……佐々木の手で……)  こんなに興奮しながら食事をするのははじめてだ。  好きな人の手料理とは、こんなにも嬉しいものなのかと直人は感動した。 (ただの隣人の俺に、わざわざありがとう、佐々木……。なんて優しいんだろう。しっかり味わって食べるから!)  たとえ毒が盛られていたとしても、直人は喜んで食べただろう。 「いただきます」  手を合わせてから、パクリと口に含んだ。  煮物の優しい味が、口の中に広がる。しっかりと味が染みて、その味の濃さも直人の好みでとても美味しかった。 (美味しい……! 佐々木の手作りだと思うと更に美味しい! すごいな、佐々木。料理も上手いんだな)  一口一口噛み締め、じっくりと味わう。 (モテるのも当然だよな。カッコよくて優しくて、佐々木みたいな男と結婚できたら最高じゃん。どんな人と結婚するのかな……。俺が女だったら、告白くらいはできたかな。いや、無理か)  今だって、自分から話しかけることすらできないのだ。挨拶はいつも佐々木がしてくれるのに応えるだけだ。 (俺がもうちょっと明るい性格だったら、自分から声とかかけて、同じ大学なんだって言って、あのとき助けてくれてありがとうって改めて伝えて、そしたら、もしかしたら友達くらいにはなれたかもしれないのに……)  同じ大学に通っていて、同じアパートに住んでいて、しかも隣人なのだ。きっかけなんていくらでもあるのに、内向的な直人はそれらを全く活かせない。本人が現状に満足してしまっているから尚更だ。  友達になるなんて、やはり恐れ多い。遠くから見つめて、たまに挨拶を交わすだけで充分だ。  こうして、彼の手料理も食べられたのだから。  佐々木のことを思い、幸せな気持ちに包まれながら直人は残らず平らげた。  後日、直人は洗ったタッパーと共に実家から送られてきた野菜を持って佐々木の部屋を訪ねた。  正直かなり勇気がいったが、タッパーを返さなくてはならないし、お裾分けのお礼もきちんとしたかったので、なけなしの勇気を振り絞ってチャイムを押した。  佐々木はすぐに出てきてくれて、渡した野菜を喜んで受け取ってくれた。 「もしまた作りすぎたら、持っていってもいいかな?」 「え!?」 「やっぱり迷惑?」 「そんな! 全然! 嬉しいです!」 「ほんと? よかった。じゃあまた今度、持っていくね」  笑顔と共に告げられた言葉に、心臓が止まるかと思うほど歓喜した。  けれどそれを必死に押し殺し、「じゃあ……」と言ってその場を離れた。 (う、う、う、嬉しい……佐々木が、あんな風に言ってくれるなんて……! どうしよう、嬉しすぎて全身が震える……!)  ガクガクする足をなんとか動かし、部屋に戻る。  ただの社交辞令だったとしても嬉しかった。もう二度と、お裾分けなんてされることはないのかもしれない。そうだとしても、この幸せな気持ちは変わらない。  その日直人の顔は緩みっぱなしで、ずっと佐々木のことを考えながら過ごした。  同じ大学に通っているが、通学時間が佐々木と被ったことは今までなかった。だからこそ、まだ佐々木は直人が同じ大学に通っていると気づいていない。  直人は大学に向かうため、家を出る。佐々木が今家にいるのか、それとももう出ているのか、直人にはわからない。彼の部屋の前を通り過ぎ、アパートを後にして駅へ向かった。  いつも利用している電車に乗り込む。車内は混んでいた。ぎゅうぎゅう詰めの状態で、こんなことならもう少し遅らせればよかったと早めに出てきたことを後悔した。  前も横も後ろも人に囲まれた状態で、直人はふと違和感を覚えた。  ぴったりと臀部に触れる、恐らく掌の感触。 (いや、まさか、だよな……)  そんなはずがない。自分は女ではない。顔が整っているわけでもない。そんな男の尻を触りたがる男がいるはずがない。  直人は僅かに重心を前にずらし、後ろの人物から体を離そうとした。  しかし直人が身動いでも、掌は張り付いたように少しも離れない。 (う、嘘、うそ、なんで……!?)  直人を女性と勘違いしているのだろうか。それとも直人が大人しそうだからか。誰の尻でもいいから触りたいのか。それとも痴漢というスリルを味わいたいのか。  なんにせよ、冗談ではない。  嫌悪感が沸き上がる。しかし直人は声も上げられない。  ただじっと身を竦めるだけの直人に痴漢は気を大きくしたのか、大胆に手を動かしはじめた。 「ひっ……」  空気が漏れたような掠れた悲鳴は、誰にも気づかれることはなかった。  いやらしい手付きで尻の肉を揉み込まれる。 (うそうそうそ、やだやだ、嫌だ、気持ち悪い、触らないで……!!)  直人は誰かに助けを求めることもできず、されるがまま体を震わせるだけだ。  恐怖と嫌悪感にじわりと涙が浮かぶ。  そのときぐいっと横から腕を引っ張られた。  驚いて顔を上げると、そこには佐々木がいた。  彼は混雑する狭い車内の中を、直人の腕を引いて強引に移動する。  迷惑そうな顔を向けられたが、文句を言われることはなかった。  気づけば直人はすっかり痴漢から離れ、佐々木に震える体を支えられていた。  状況が飲み込めず、直人はぽかんとしていた。  直人が呆けている間に電車は駅に着き、佐々木に促されるまま降りた。  そこで漸く、直人は声を上げた。 「あ、あ、あの……っ」  声をかけるものの言葉が見つからずモゴモゴする直人に、佐々木は苦笑する。 「突然ごめんね、びっくりしたよね」 「えっ、あ、いや……」 「あの、間違ってたらごめん。もしかして、痴漢されてた?」  周りに聞こえないように耳元で尋ねられ、直人は驚き目を見開く。 「ど、ど、どうして……」 「車内でたまたま木村さんを見かけて、声をかけようか迷ってたんだ。そしたら、なんか様子がおかしかったから。泣きそうな顔してて、もしかしたらって思って。それで無理やり引っ張っちゃって。ごめんね」 「そ、そんな……」  再び涙が込み上げてくる。  気づいてくれた喜びと、助けられた安心感がじんわりと胸に広がる。 「あ、ありがとう、俺、俺、びっくりして、怖くて……っ」 「うん」  震える肩を、佐々木が優しく叩く。 「助けてくれて、ありがとう……っ」 「そっか。助けられたのなら、よかった」  佐々木の穏やかな微笑みに、恐怖は薄らいでいった。  それから二人で大学へ向かった。そこで漸く、佐々木は直人が自分と同じ大学に通っていることを知ったのだ。 「知らなかった、僕たち、大学同じだったんだね」 「そ、そうだね」 「すごい偶然。引っ越し先のお隣さんが、同じ大学に通ってたなんて」  にこっと爽やかに微笑まれ、直人の胸がきゅんっと締め付けられる。 「なんか嬉しいね。運命感じちゃう」  冗談めかして言われた言葉に、直人は本気でときめいてしまう。  浮き立つ心を戒め、冷静を装った。 「そ、そ、そうだね……っ」 「これからは『木村』って呼び捨てにしてもいい? 同い年なのに『さん』付けじゃ他人行儀だし」 「も、も、もちろん!」 「僕のことも『佐々木』って気軽に呼んでくれていいからね」 「う、うん!」  既に心の中では「佐々木」呼びしていたが、本人に向かってそう呼んだことはない。  呼び捨てで呼び合うなんて、友達みたいだ。  嬉しくて緩みそうになる口元を必死に引き締める。  それから連絡先を交換することになり、直人は舞い上がりそうになる自分を押さえつけるのが大変だった。  校内で佐々木と別れたあと、トイレに籠って心を落ち着けなければならないほど、嬉しくて転げ回りたい気分だった。  その日の夜、再び佐々木がお裾分けを持ってやって来た。  直人は感動して、何度も礼を言った。本当にまた佐々木の手料理が食べられるなんて思っていなかった。 「ところで、木村は明日何時に家出るの?」 「え? え、えーっと、明日も一限からだから、今日と同じ時間に出るけど……」 「そっか。じゃあ明日は一緒に行こう」 「ええ!?」 「嫌?」  ぶんぶんぶんっと吹っ飛ぶくらいの勢いで首を横に振る。 「嫌なんて、まさか!! 全然、全く、嫌じゃないよ!!」 「ならよかった。これからは、一緒に行こう?」 「え、で、でも……」 「もちろん、時間が合うときだけでいいから。これからは前日に、次の日何時に出るか教えてもらえる?」 「そ、それは、えっと、うん、その、佐々木、が、いいなら、一緒で……」  死ぬほど嬉しいけれど、それをおおっぴらに態度に出すわけにもいかず、直人はしどろもどろに了承する。 (うわ、俺の態度すごいおかしいよ……。どうしよう、佐々木、不愉快になってないかな……。喜び過ぎたらそれもそれで気持ち悪いと思われちゃうし。でも普通の受け答えができないっていうか普通ってどんなのだよわかんないよ)  混乱する直人に、佐々木はにっこり微笑んだ。 「じゃあ、ドアの前で待ち合わせね。また明日」  そう言って、佐々木は自分の部屋へ戻っていった。 (うう……俺絶対挙動不審だったよな……。でも佐々木は、そんな俺にいつも通りの態度で接してくれる……)  いつもおどおどしている直人に、嫌な顔など見せない。 (でもまさか、一緒に行こうなんて、佐々木から誘われるとは思ってなかった……。佐々木と一緒に登校なんて、そんなの嬉しすぎる……。心臓痛い……)  最近喜び過ぎて心臓がおかしくなりそうだ。  ぽわぽわした気持ちで、佐々木から貰ったお裾分けを食べた。  翌日から、時間が合えば佐々木と一緒に登校することになった。  直人にとっては夢のようなひとときだった。一人での通学時間はなんの面白みもなく、寧ろ辛く感じることもあった。だが佐々木と一緒ならば、彼の傍にいられるだけでも幸せなのに、彼に微笑みかけられ、何気ない会話を交わせるその時間はなにものにも代え難い大切な時間だった。直人は緊張して、まともに会話もできていないのだが。一人だとだるくて長く感じる通学も、佐々木となら楽しくてあっという間に過ぎてしまう。  電車が満員のときは、直人は必ずドアを背に立つように佐々木に誘導された。言葉には出さず、自然とそうなるように位置を調整されるのだ。  もしかしたら彼は、直人がまた痴漢されるのを心配して一緒に登校すると言ってくれたのかもしれない。  そんな自惚れた考えを抱いてしまうほど、満員電車の中で佐々木は直人を守るような行動を取るのだ。  今も満員電車の中、直人の正面に立ち、ぴったりと寄り添っている。  電車がカーブに差し掛かり、乗客の体が一斉に傾く。  佐々木は直人に体重をかけないよう、直人が背にしているドアにぐっと両手をついた。  佐々木の腕に囲われているような状況に、直人の顔が紅潮する。佐々木に気づかれてしまうのではないかと心配になるほど、心臓がばくばくと高鳴っていた。 (ううううわ~、佐々木と、こんな、密着しちゃってる、どうしよう、体熱い、胸が痛い、佐々木の匂い、いい匂いが、ダメダメ、そんな匂いを嗅ぐなんて、そんな変態じみたこと、佐々木は善意で、こうして体を張って俺を守ってくれてるのに、匂いを嗅いで興奮してるなんてバレたら変態だと思われる、嫌われる)  直人は必死に息を止めた。 (ああでも、この体勢ってなんか、恋人同士みたいだ。佐々木は彼女と満員電車に乗ったら、やっぱりこうして守ってあげるんだろうな。うう、今だけでも、彼女気分を味わってもいいかな。でも、俺がこんなこと考えてるなんて知ったら、気持ち悪いと思われるんだろうな……)  だから、絶対に彼に気持ちを知られてはいけないのだ。  匂いを嗅ぐのも駄目。うっとり見惚れるのも駄目。  しかし気を抜くと、すぐに視線は佐々木に引き寄せられる。  目の前に佐々木が立っていて、視線を向ければすぐそこに佐々木の顔があって、男らしくて綺麗な首筋が目に入って、開いた襟元から鎖骨が覗いている。  思わず目を奪われ、しかし慌てて顔を伏せた。  体が火照る。下半身が疼く。  ずっと佐々木が好きだった。  でも、こんな気持ちになったのははじめてだった。  彼に触れたい、触れてほしいと、そんな風に望んだことなど今までなかったのに。  直人ははじめてのことに戸惑い、悶々とした気持ちを抱えながら電車に揺られていた。

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