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第13話
――エピローグ――
あの生徒に出会ったのは、偶然からだった。俺は1年生の副担任を勤めていて、普段は2年生の教室に行くことはないからだ。その日は午後から大雨が降っていて、たまたま職員室にいた俺に教頭が目を付けて、居残っている生徒がいたら、早く帰宅するように声を掛けて回って欲しい、と頼まれたのだ。
ほとんどの教室は空っぽだった。すでに大半の生徒は帰宅するか、部活に出ていて、こんなひどい雨の日にわざわざ教室に居残る生徒なんていないだろうと思っていた。
だが、誰もいない、と思ってドアを開けた教室に、一人の生徒がいた。
――馨……?
俯いて本を読み耽るその横顔が、あいつに似ている気がした。
「……何してるんだ?」
俺は馨に話しかけているつもりになっていた。
――なんで? どうして、ここに馨がいるんだ? ここで何してるんだ?
本を読んでいた彼は、驚いた顔をして俺をじっと見つめている。まさか教師が突然入ってくるとは思っていなかったのだろう。こちらを向いた顔をよく見ると、全然馨になんて似ていなかった。俺は我に返って、本来の仕事を思い出した。
「まだ帰らないのか? これから雨、もっとひどくなるから、生徒たちをなるべく早く帰宅させるようにって言われてるんだけど……」
そう言って、周囲を見回す。もしかしたら、他の生徒も残っているのかと思ったのだ。だが、教室内に居残っているのは彼一人だけだった。
「……お前、一人なのか?」
「……はい。俺だけ、ですけど」
それが、彼との最初の会話だった。
彼は毎日放課後教室に居残って本を読んでいた。なぜ、図書室へ行かないのだろう? とも思ったが、何か彼なりの理由があったのに違いない。父親の書棚から一冊ずつ持ち出しているという本は、中学生にしては大人びた作品ばかりで、俺はいつしか彼と本について話をするのを楽しみにするようになっていた。
そんなある日、俺は体に不調を感じて病院へ行った。
「……残念ですが、ステージ4です」
何回かの精密検査の後、医師から伝えられた残酷な言葉。膵臓癌だった。少し前から体重が落ちてきていて、おかしいと自分でも気付いていた。だが、日々の仕事の忙しさにかまけて、病院に行くのを躊躇っていたのだ。まさか、自分がこんな病気に罹っていたなんて、思いもしていなかった。
俺はすぐにでも入院するように、と言われた医師の言葉を聞かず、夏休みまでは学校に行こうと決意していた。……彼に、会いたかったから。
彼に会える最後の日、俺は彼にこう伝えた。
『きみはね、俺の初恋の人に似ているんだ』
もちろん、それは馨のことだ。彼の姿形はあいつとは似ても似つかない。だが、本を読んでいる彼の横顔がどこか馨を思い起こさせた。放課後の教室で彼に会うたび、馨を思い出して俺は泣き叫びそうになった。あいつに会いたくて。
俺の時間は、あの冬の日の校門で馨と別れたあの瞬間から止まったままだった。
俺はもうすぐ、あいつのところへ行く。
だけど、その前に俺と馨のことを誰かに伝えておきたかった。俺が消え去ってしまう前に、誰か一人でも俺たちのことを記憶に留めておいて欲しかった。だから、彼にその言葉を伝えたんだ。
もちろん彼は馨を知らない。俺の言葉だけでは、初恋の人が一体誰なのかも分からなかっただろう。でも、それでも構わなかった。彼に馨の存在の欠片を伝えられただけで充分だったんだ。
『待ってるね。……僕、香山のこと待ってるから。ずっと待ってるよ』
馨が最後に俺に残した言葉。
あいつは俺を待ち続けていた。
俺はここへ来てようやく、静かで穏やかな気持ちを、自分の中に抱けるようになっていた。馨と別れてからのこれまでの人生は、自分にとっておまけみたいなものだった。いつも心の中には小さな嵐が吹き荒れていた。なんとか気を逸らしてやり過ごしても、嵐は消え去ることはなかった。いつこの苦しみが過ぎ去ってくれるのかも分からず、すべてに絶望した時もあった。だから、医師から自分の病状を伝えられた時、ショックを受けるというよりも、やっとか、という思いの方が勝った。そう、ようやく待ち望んでいたその時を迎えることが出来るんだ。
やっと、やっとだ。やっと馨に会える。
これからは、おまえとずっと一緒だよ。
少し長めの艶やかな黒髪と黒目がちの瞳、真っ白な頬はほんのりと染まっていて、そして儚く愛らしい笑顔をこちらに向けている。
――愛してる、馨。
俺はそう呟いて、ゆっくりと瞼を閉じた。
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