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第1話

靴を履き替えて玄関から出ると、ちょうど女子生徒二人組が校門を通り抜ける所だった。気づいた彼女たちが手を振るので、直也(なおや)も片手を振り返す。 「おはよー、カイちゃん」 「おう、おはよう」 「カイちゃんおはよぉ〜、今日もチャラいね〜」 「だぁれがチャラ男だ。おはよう」 すれ違いざまに言葉を交わし、定位置である正門の手前に立つ。カイちゃんこと甲斐(かい)直也は、毎朝15分間校門の前に立ち、登校してくる生徒たちに朝の挨拶をしている。流し見程度の軽い服装検査も兼ねつつ、調子の悪そうな生徒や素行が気にかかる生徒には声を掛けるようにしている。 「おはよーございまーす」 「おはよう白川。あ、Tシャツ見えてるぞ。ボタンもう1個留めときな」 「おわマジだ、ありがとカイちゃん」 「はいよ、気ぃつけてな」 直也は生徒指導課の担当だが、この毎朝の挨拶は決して義務付けられているわけではない。毎週水曜は校門の前に立たなければならないが、それ以外の日はあくまで直也個人の趣味として行っている。服装に甘いのはご愛嬌だ。パッと見てバレなきゃいい、のスタンスである。指導課でありながらその適当さが生徒にウケているのも把握していた。 「おっ、木村おはよう! 今日は起きられたんだな〜、偉いぞ!」 「おはよ〜……カイちゃん、朝からでっかい声出すのやめてよ〜……」 「おっと、悪い悪い。その調子で一時間目も頑張って起きてるんだぞー」 「はーい、頑張りまぁす……」 ふらふらと頼りない背中を見送り、満足げに頷く。今の生徒は遅刻が常態化して問題になっていたが、直也が声をかけるようになってからは段々と回数が減ってきている。良いことだ。やりがいを噛み締めながら前を向くと、マスク姿の生徒が横をすり抜けようとしていた。 「おはよう」 「……はよざいます」 ふわ、とほのかに甘い匂いが風に乗って運ばれてくる。柔軟剤ではなさそうだ。香水は注意するべきかと迷っていると、風に吹かれた黒髪が揺れて、チカリと鈍い光が瞬いた。一瞬だけ見えた物に、思わず肩を掴んで引き留める。 「ちょっ……といいかな、ごめん」 「…………」 「……(あずま)、だよな? 2年の」 「……はい」 真ん中分けの長い前髪の間から、真っ黒の大きな双眸が覗いている。顔の半分以上がマスクに覆われていて、かなり表情が読みづらい。血の気の薄い白い肌と黒髪のコントラストは、いっそ病的と言っていいほどだ。しかしそれ以上に気にかかったのは、髪の下に隠れている部分だった。 「……ピアスは、外そうな」 直也が見間違えたのでなければ、少なくとも右耳に3個以上はピアスをつけていた。しかも耳朶だけではなく、軟骨にまで穴を開けている。見ているだけで痛そうだ。 「……見えなきゃいいじゃないですか」 「んや、でもピアスはなー、チラッと見えるだけで目立つんだよなー……学校にいる間だけでいいからさ、な?」 「…………分かりました」 「ん、ありがとなー」 直也が手を合わせると、東はすんなりと頷いて耳元に手をやった。直也の見ている前でパチン、パチンと慣れた手つきでピアスを次々と外していく。右耳の4つを外して胸ポケットに入れると、今度は左耳を晒す。 (うわぁ……) 右耳もなかなか衝撃的だったが、左はもっとインパクトがあった。穴の数も多い。 「インダス開けてるんだ。痛くない?」 「……まあ、今は安定してるので」 「そっかー、俺は怖くて無理だったな」 「……先生も開けてたんですか、ピアス」 「まぁな。大学ん時だけ、ちょこっと」 「へえ……」 最後の1つを外した東が、両耳に髪をかけて直也に見せる。さっきまでついていた夥しい量のピアスは、もう一つも見当たらなかった。ピアスホールはどうしようもないが、遠目に見れば分からないだろう。 「よし、いいぞ。ごめんな、せっかく開けたのに」 「いえ……」 直也の唐突な謝罪に、東が不思議そうに目をぱちくりと瞬かせる。怒られこそすれ、謝られるとは思ってもいなかったのだろう。言動がちぐはぐだな、と直也自身も苦笑しつつ言葉を付け足す。 「ピアス開けるのなんて、本来自分の勝手だと思うんだよ、俺。誰にも迷惑かかってないしさ。それを校則で縛りつけちゃうのって、なんか、大人のエゴだな〜と思ってて。だから、ごめん」 服装検査だって本当はあまり好きではない。たかが制服の着こなしぐらい、生徒の好きなようにさせてやりたいと思っている。しかし実際はそうもいかない。直也以外の教師に見咎められれば、最悪反省文すら有り得る。そんな無意味なことが起こらないように、直也が軽い注意だけで済ませている、いわば妥協の結果がこの毎朝の行動だった。 「……先生がそんなこと言ってていいんですか」 「いいのいいの。俺みたいに適当な教師が一人くらいはいた方がいいんだよ」 ヘラヘラと笑い飛ばすと、東の目がすっと細められる。そうですか、と言った声は笑みを含んでいた。少しは心を開いてくれたようでホッとする。 昇降口に向かった後ろ姿を眺めながら、直也は彼の担任教師の顔を思い出していた。2年2組の担当は、直也とも親しい数学科の御園(みその)栄司(えいし)だったはずだ。難しい人でなくて良かった。 (要相談、だな) 日課をいつもより早目に切り上げ、職員室に向かう。中に入ると、御園は自分のデスクで次の授業の準備をしている所だった。今日は一時間目から授業があるらしい。 「おはようございます、御園先生」 「おお、おはよう甲斐先生」 「今日は1時間目からですか」 「そうだ。今年は数学科の人員が少なくてあちこち引っ張りだこでな。嫌になるな、全く……」 「お、お疲れ様です……」 「それで、どうかしたのか」 目の前で立ち止まった直也に、用があると察した御園が手を止めてこちらに向き直る。直也はついさっき会った生徒の名前を口にした。 「東誓人って先生のクラスの生徒でしたよね、確か」 「東か。ああ、そうだ。……何か気になるのか」 御園の表情が少し険しくなった。直也の口から生徒の名前が出ることの意味を理解していたからだ。話が早くて助かるが、他の教師もいるここでは話しづらい。 「あー、ちょっと長くなりそうなんで……2時間目は空いてます?」 「今日は火曜だな……ああ、空いている。生徒指導室でいいか」 「はい。お待ちしてます」 御園は用件が済むなり、荷物を抱えてスタスタと足早に直也の真横を通り過ぎていく。隣を通る時にふと、彼の後ろ襟辺りから微かに漂う甘い香り。珍しい、と声を掛けようとして、彼の詰まった襟首から僅かに覗くそれを見て、思わず口を閉ざした。暫し考えた後、思い直して廊下に出た彼を追い掛ける。 「み、御園先生……」 「何だ? まだ何か伝達事項があったか」 「伝達……いやまあ、ハイ」 これを伝えずに放置する方が、きっと御園にとっては良くないだろう。直也が言わないで他に誰が言うのだ。気が進まないが致し方ない。くっと自分の襟元を指で引っ張りながら、困った心境そのままに眉を下げた。 「……あの、襟、もうちょっと気をつけた方がいいと思います」 「襟?」 「今の高校生ってマセてますから……見えてると、多分突っ込まれちゃうと思うんで」 「見え……――ッ!!」 首に手をやって、床へ視線を落として数秒。心当たりがあったのか、今まさに思い当たったのか、とにかく直也が何を言っているのかは理解してくれたらしい。滅多に取り乱さない御園が、一瞬詰めた息を深く吐いて俯き、目元を掌で覆い隠した。顔色はさほど変化が見られないが、耳朶が真っ赤になっている。 「…………すまない、妙な物を見せた」 「いえ、俺は別にいいんですけど……大丈夫ですか?」 「……そんなに、分かりやすいか」 「ええと、まあ……一番前の座席の子とかは、板書してる時に見えちゃうかなぁと……」 「そうか……」 困り果てたように眉間を指で押さえる。全くアイツは、と刺々しい口調で誰かへの呪詛を口走った。そういえば彼は、金曜から昨日までバース休暇を取っていた。同時に甘い香りの正体にも合点がいく。 「あー、直しましょうか?」 「……すまないが、頼めるか。自分じゃよく見えん」 廊下の端に避けて、後ろを向いた彼の襟を慎重に正す。点々とつけられた濃い赤茶色の痕から、独占欲が透けて見えて少し慄いた。他のアルファのフェロモンも僅かに感じた。「盗ったら殺す」とはっきり主張している。 (「愛されてるんですね」とか言ったら怒られそうだしな……) 項から微かに漂う甘い香りは、未だに御園がフリーであることの証左に他ならない。この襟の下には恐らく丈夫なカラーが嵌められていて、この痕をつけた人物からその項を守っているのだろう。噂では年下の恋人がいるらしいが、まだ番う気はないのだろうか。 「はい、これで見えないですよ」 「すまない、助かった。生徒に見られたら流石にまずい」 「ははは、そうですね……」 「不幸中の幸いだな。見られたのが甲斐先生でまだ良かった」 肩を撫で下ろした御園が「それじゃ」と足早に去っていく。生真面目で堅いイメージを持っていたが、案外抜けている所もあるのだなと少し彼に対する印象が変わった。 「良いなぁ〜……」 ラブラブで正直羨ましい。教師になってからというもの、恋人という存在からは疎遠になっていた。しかも恋人が出来ないのには理由があって、理想が高いという程ではないのだが、直也には拘りじみたものがあった。 ――運命の番。御伽噺に近いそれを、直也はこの歳になってもまだ信じて待ち続けていた。

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