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あの人だあれ

「明日、ちょっと外出てきていいですか?」 「なんで?」 「高校のときの先輩がこっち来る用事があるらしくて、俺が貸してるもの返したいらしくて」 「郵便でいいじゃんそんなん」 「いや、連絡もらって思いだしたんですけど俺もCD借りっぱなしにしてたの忘れてて、送料もったいないしどうせなら」 「どんな人なの?」 当然伊勢ちゃんと同じ時間を過ごす気でいた休前日、思いもよらぬ唐突な提案。つい語気が強くなってしまっても、伊勢ちゃんはろくに気にしていないようだ。 「高校のときの部活の先輩でー、すげー優しい人で、色々奢ってもらったり相談乗ってもらったり、お世話になった先輩なんです」 オンナノカンってやつはよく知らないけれど、やっぱり彼氏の不穏をいち早く感じ取るのは、その手の第六感なのだろう。 「それ、俺もついてっていい?」 「え?」 「俺もその先輩会いたい」 「え……なんでですか?」 「なんとなく」 「まあ……いいですけどー」 いやな予感と言うのは大体当たる。きっと俺もこういう関係になる前、伊勢ちゃんに会いたいと思ったら同じような方法をとっていただろうから、分かってしまうのだ。 「あ、来た」 翌日、指定された時間に駅前に向かった。混み合う休日の人ごみを見つめ、伊勢ちゃんがぽつりとつぶやいたのを聞き、素早くそちらを見る。頭一つ飛び出した長身の男性が、手を振りながら近づいてくる。 「隆義ー!」 ヒゲで筋肉質で背が高く、スポーツマン丸出し、その上同族の気配丸出しの男だった。予想を超えた予想通りに、どっと疲れてしまう。 「おー! お久しぶりです!」 「会いたかったぞー!!」 その男はそのまままっすぐ伊勢ちゃんのもとまで突き進んでくると、ふとましい腕で伊勢ちゃんを抱きすくめる。あまりに迷いのない動きで反応し切れなかった。 「ちょ、苦しい!」 「あっれお前また背ぇ縮んだんじゃね?」 「縮んでないっすよまじ失礼!」 その上男は肩を抱いたまま伊勢ちゃんの頭を撫ではじめる。え、なにこれ?こんなんが普通なの?高校時代はこういうコミュニケーションが当たり前だったの?どんな高校だよふざけんなよ。そんな思いを丸出しにして見つめていたら、男は俺に気付いてようやく伊勢ちゃんを放した。 「あれ、えーっとこちらは?」 「あ。俺の大学の先輩の高岡さんです」 「……どうも」 「どーもー、隆義がお世話になってます!」 「いえこちらこそ」 けん制のつもりで頭を下げたが、男は見向きもせずにまた伊勢ちゃんに向き直る。 「やーでもお前のかわいー顔見るとテンション上がるなーやっぱ」 「は? なに言ってんすか」 「伊勢ちゃん」 このままではすべて都合よくかわされてしまうだろうと、少し言葉を強くして割り込んでいく。伊勢ちゃんは少し怯えたような反応で、俺を振り返った。 「は、はい」 「早く用事済ませちゃいなよ」 「あ、そうだすいませんこれ借りっぱだったやつ」 伊勢ちゃんがかついでいたリュックからCDを取り出そうとしたとき、男はその手をつかんだ。 「いや、せっかくだから店入ってちょっと喋ろうよ」 「え? 先輩時間あるんですか?」 「うん。むしろこのまま帰るなんて寂しいんですけどー」 男の言葉にもムカつくしむやみに握りこんでいる手にもムカつくし。「そこのコーヒーショップ入ろう」という男の提案に、「あーはい」と普通に返事している伊勢ちゃんにもムカつくし、けれどとにかく俺は、二人の後についてずるずると重い足を引きずり歩き始めた。 「隆義なに頼んだの」 「えー? アップルジュース」 「まじかあ~隆義ってコーヒー飲めないの?」 「飲めなくないですけど、今の気分じゃないだけです」 「も~相変わらずかわいーなー隆義はー」 席についてからも男の調子は相変わらずだ。馴れ馴れしく伊勢ちゃんに絡み、伊勢ちゃんは慣れているのか軽くあしらったりする。慣れてる、って、なんだ。それはそれでムカつく。非常にムカつく。 「高校んときからかわいーかわいーっつって人気者だったもんなあお前は」 「いやそんなことないでしょ、作り話やめてください」 「あれお前知らないの? 俺と同級の神谷とか坂島とかお前のことかわいいって言ってたよ」 「うわ! その名前懐かしい!」 「だろ? あいつら今ふたりとも公務員だぞ」 「え!? 嘘だ!」 伊勢ちゃんの高校時代を知りすぎたら、嫉妬の種も余計に増えてしまうだろうからなるべく聞きたくない。俺はコーヒーカップに沈めたティースプーンをぐるぐるぐるぐるぐるぐる回して、それに集中しているふりをして、余計な情報をシャットダウンする。そんなときに限って、男はタイミング悪く俺の調子に気付いたらしい。 「あーえっと、何さんだっけ」 「……高岡です」 「高岡さんね、ごめんね、ローカルネタばっかでつまんないでしょ!」 「いえ……」 「高岡さんはさあ、隆義の彼氏なの?」 そして放り込んできたのは、直球ボールだった。 「そうなの? 隆義」 「え……? あ……」 伊勢ちゃんはどうにかごまかしたいようだが、うまく言葉が出てこない。結果としてその沈黙が、消極的に認めるかたちになってしまう。 「あー、じゃあ高岡さんの片思いか」 「違いますよ」 思わず反射の速さで返した言葉に、先輩はうれしそうににやりと口もとを歪めた。 「ちょっとトイレ行ってこよー」 どこまでも相手のペースに引っ張られる。いらいらしてしまうとつい、矛先を伊勢ちゃんにも向けてしまう。 「……なんでちゃんと返事しねぇんだよ」 「な、なにがですか」 「彼氏? って聞かれて、なんでそうですって言わないの」 「いやいきなり言えないでしょ!」 「言えよ、あの感じなら隠す必要ねぇだろ」 「いやでもそんないきなり言えないですから!」 「なんで? 言いたくないの?」 「いや、言いたいとか言いたくないとかそういう問題じゃないじゃないですか」 「そういう問題でしょ、俺と付き合ってるなんて言いたくねぇっつーことでしょ」 「そうじゃなくて……!」 「ごめんねぇお待たせー」 ヒートアップしかけた俺たちを止めたのは、トイレから戻ってきた男だった。伊勢ちゃんは咳払いをして、言葉を飲み込む。あいかわらずにやついた顔の男は、今度は伊勢ちゃんでなく俺に向かって話し始める。 「隆義はねぇ」 「……はぁ」 「うちの部活のアイドルだったわけよ。うちみたいな弱小バスケ部には女マネみたいなもんもねぇしさ、女バスとは練習場所ちがうしー、女っ気がないからさ」 「……」 「高校生なんて女の子のこととセックスのことしか考えねぇじゃん? だからかわいい隆義が俺たちのアイドルだったんだよ」 どうせただの煽りだ、と分かっていたので返事をしなかった。しかし、反応を見せたのは真に受けてしまった伊勢ちゃんだった。 「え? いや知らないんですけどそんなの」 「うん。みんな隆義にはバレないようにしてたもん。やっぱ恥ずかしーからさあ。気まずくなるのもヤだし」 「え……?」 「最初は隆義と回し飲みできたラッキー、くらいだったんだけど後半みんなエスカレートしてって」 「はあ……」 「更衣室で隆義が来るまで待ったり、シャワー室覗いたり、ロッカーに置きっぱなしの隆義のジャージを――」 ほとんど無意識のうちに、拳をテーブルに叩き付けていた。骨がテーブルの素材にぶつかる音と、テーブルの上のグラスやカップが立てるガチャンという音と、飲みかけのコーヒーの水面が揺れるぱしゃんという音で、辺りが一瞬静まり返った。 「嘘だよー」 「……」 「やべー、高岡さんちょーこえー」 男のおどけた声が店内に響き渡る。それをきっかけに、周囲の人も途切れた会話を続ける。俺は伊勢ちゃんの腕を強引に引っ張った。 「帰ろう伊勢ちゃん」 「え? あ」 腕を強く握ったまま店を出ていく途中、男の声が俺たちの背中を追いかけてきた。 「隆義! CDありがとね! 今度は二人で会おうね」 思考が追いつく前にひたすら足だけを動かして、気が付いたら自宅方向とも違う路地に迷い込んでいた。とにかく駅近くから、あの男から伊勢ちゃんを離したいという一心で歩いていた結果だ。足を止め、伊勢ちゃんの腕をはなす。きっと痛みに耐えていたのだろう、伊勢ちゃんは掴んでいた箇所をさすりながら、不安げに俺を見上げた。 「あの人の連絡先消して」 「え?」 「今ここで消して」 「あ、はい……」 伊勢ちゃんはその場でスマートフォンを取り出し操作しはじめる。その健気さに涙が出そうになった。昔の先輩からセクハラされてあることないこと吹き込まれて、その上恋人にまでキレられて、それなのにめずらしく反抗の一つもしないで従う伊勢ちゃんがかわいそうでかわいくて、路地で人目もはばからず抱きしめてしまう。 「わ……、ど、どうしたんですか」 「……隆義」 「え」 「隆義……」 男の慣れた発音を上書きするように、何度も耳もとに言葉をこぼす。 「隆義、すき、すき」 「ちょ……」 「だいすき。あいしてるよ隆義」 「……知ってますよ」 「うん、ありがとね。でも隆義が思ってるより、もっとひどいよ」 「ひどい?」 「うん、ひどいくらい好き」 「うわー、怖ぁ。俺、ひどいことされるんすか?」 「しないよ」 「……してもいいですよ、高岡さんがしたいなら」 今日に限って、伊勢ちゃんはほんとうに健気で、かわいくて、だからずるい。俺はもう、汚れた思いを抱けなくなる。 伊勢ちゃんが、もう俺以外の誰にも触れられませんように。俺以外が目に映らず誰とも話さず死ぬまで俺の腕の中にいてくれますように。すぐに破綻すると分かり切った願いを、このときだけは本気で信じ込んで、たかよし、とその四文字をひたすら繰り返していた。

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