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朝とスーツ
「高岡さん! 起きてください!」
「んー……もうちょっと……」
「だめですよ遅刻しますよ!」
「んー……二限から行くから……」
「違います、今日は学校じゃないでしょ!」
布団を剥ぎとるが高岡さんはいまだ寝ぼけている。俺は右足で高岡さんの腹のあたりを踏みつけた。
「あ……やめてください女王様……」
「アホみてぇなこと言ってる場合じゃないっすよ、まじで遅刻しますよ」
「んー……?」
「お世話になってる先輩なんでしょ!」
今日は、高岡さんのバイト先の先輩の結婚式だ。俺は知らない人なので当然呼ばれていないのだが、「身近な人の結婚式に出席する」という慣れないイベントに俺の方が浮足立ち、無駄に早起きしてしまった。しかし高岡さんはそんな俺とは対照に、いまだ呑気にシーツに横たわっている。
「あー……伊勢ちゃんそのままもうちょっと下の方触ってくれてもいいんだよ」
「そのままアンタの大事なモン踏み潰してもいいんですよ」
「…………起きます」
高岡さんはゆっくりと身体を起こすとそのままシャワーを浴びに行き、髪を半端に濡らしたままで戻ってきた。クローゼットからしばらくつかっていなかったスーツを引っ張り出し、白シャツに腕を通している。俺は部屋の窓を開けながら、その様子を振りかえった。
「今日めちゃくちゃ天気いいですよー、今日みたいな日に結婚式挙げられるのとか超よくないですか」
「ん……そーだな」
ぼんやりした相槌は高岡さんの興味の薄さをそのまま映し出している。高岡さんは結婚というものを特別視していないのだろう。考えてみれば当然で、俺は口をつぐんだ。シャツにスラックス姿の高岡さんは、それだけでいつもよりしゃきっとして見えた。
「俺高岡さんのスーツ姿はじめて見たかも……」
「だろうな。入学式ん時に着たっきりだもん」
ゆるいジーンズや派手な色のTシャツといった見慣れた格好から考えると、シャツ姿の高岡さんは冷静そうで知的に見える。つい、まじまじとその姿を眺めてしまった。
「ネクタイどれがいいんだろ」
「あー、白とかが礼儀っぽいですよね。でもなんでもいいんじゃないですか? 黒とかじゃなければ」
「えー……ほとんど黒いのしか持ってない」
並んでクローゼットを覗きこむと、確かに黒などの地味な色のものしかない。一番明るく見えるのが、黒の成分が少ないグレーのネクタイだった。
「ほんとだ。黒よくないと思いますよ、葬式じゃねぇんだから」
「あぁそうか」
「え? なんですか?」
「俺、入学式と葬式のときしかスーツ着たことないから、こんなネクタイしか持ってないんだ」
どきっとした。いまだに、高岡さんが死をめぐる話をする瞬間に慣れない。
お父さんが亡くなったときのことを、高岡さんは「メシも睡眠もとれないくらい訳わかんなくなってた」と語った。深く掘り下げることもできず、断片的にしかしらない当時の記憶は、何も知らない俺からしてもつらく痛いものだ。
だから俺は、知らないふりをする。
「俺のネクタイ貸してあげます。はいこれ」
「なにこれ」
「猫柄。かわいいでしょ?」
「かわいい。かわいいけど……これあれだろ、芸人が漫才する時とかにつけてるやつ」
「ちゃんとしたブランドもんですよしつれーな!」
高岡さんはネクタイを締めながら「ほんとかよ」と呟いてくすくす笑っている。高岡さんはもう、闇に浸かった目で、心細い発音で葬式について思い出さない。俺は知らないふりをしながら、高岡さんの憂鬱の種をひとつひとつ隠していく。もう、不必要なタイミングで余計なことを思い出さずにすむように。
「なんか曲がってません?」
「え? ほんと?」
「つーかそもそも結び方おかしいですよ。なんですかこれ」
「え、俺いっつもこうやってたんだけど」
「違いますよ、ちょっとかしてください」
俺はへんなかたちに丸まったネクタイを外し、もういちど結んでいく。正しい結び方は頭に入っているはずなのに、うまくいかずに手元でわだかまっている。思えば、他人にネクタイを結んであげるなんて初めての経験だ。
「あーこっち側から結んだことないからすげーむずいなにこれ」
「えーもうなんでもいいよ結べれば」
「だめですよ細かいとこでもちゃんとやっとかないと」
「そんな細かいとこまで誰も見てねぇって」
そんな話をしている間に手元はあと一息というところまできている。きれいに見えるように細かな調整をしながら、完成に近づけていく。
「スーツ姿かっこいいんだからネクタイ曲がってたらもったないですよ。ちゃんとしてくださいよ。はいできた」
「……ありがと」
高岡さんは胸元を見下ろしながらしばらくものおもいに耽るようにぼんやりしていた。仕上がりがそんなに気になるのだろうか。
しばらくしてようやく平常心を取り戻した高岡さんは、荷物を確認し持ち上げると、ようやく玄関へ向かって行った。
「あー今日みたいな日はスーツあっちいだろーなー」
「まあそうでしょうね」
「まぁでも、これから就活とかしたらもっと厳しいだろうから今のうちに慣れとかないとな」
「えっ就活とかちゃんとやるんですか? 意外」
「やるだろそりゃ」
「高岡さんってプラプラしてそうなイメージでした」
玄関は相変わらず散らかっている。高岡さんは靴箱からほとんど使っていない革靴を取り出して履いている。いつもより姿勢のいい背中を眺めながら、就活し、そしていずれ就職する高岡さんを思い描いてみる。
「まあ一人だったらそうしてたかもしんないけど。俺も先輩みたいに、これから家族を食わしてかなきゃいけないからなあ」
「……え?」
「俺にもネクタイ選んでくれて、結んでくれて褒めてくれるかわいい嫁がいるからな」
靴を履き終わった高岡さんは清々しい顔で振り返った。スーツの清潔な黒、シャツの鮮やかな白、高岡さんは口角だけを器用に持ちあげた笑い方で、目元には愛が溢れている。
だめだ、スーツって怖い。スーツを着てるってだけで今日の高岡さんはなんだか無駄にかっこいい。圧倒され、楯突くことも忘れてしまった。高岡さんが部屋のドアを開けたとき、ようやく我に返った。
「な、なに言っ」
「じゃあ行ってくるわ。寂しくなったらいつでも電話していいからねハニー」
「ばっかじゃねぇのまじ気持ち悪い!」
俺の最後の台詞は、ドアが閉まるバタンという音にかきけされた。途端に部屋が静かになった。眩しい太陽が差し込む中で、ひとりになった。それなら俺は部屋をきれいにして、ごはんでも作ってあなたの帰りを待てばいいんですか。ばかか。
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