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The View From The Afternoon
たまにはデートらしいデートをしようと、洒落た店でランチをすることにしたところまではよかった。店が思ったより混んでおり、空腹に負けた伊勢ちゃんは行列を見ただけで「待ちたくない」と呟いたので、すぐに店を出て、近くにあったファーストフードのドライブスルーに車を滑り込ませた。
結局いつもこうだ。愛に溢れた崇高なデートを叶えるほどの手際の良さはまだない。
「なに食う?」
「あー……あーどーしよ! ビックマックにー……あーセットいきたいけど高いなー……安いバーガー二つにしよっかなー……いやでもセットいきたいなー……」
「じゃあセットでいいじゃん」
「いや金ないんで……」
「奢るよ」
「え? なんでですか」
「なんでって、彼氏だし」
伊勢ちゃんは何か言いたそうにしたが、そのままブレーキをはなしメニュー表を通り過ぎた。窓を開けてマイクに顔を近づける。
「すいません、ビックマックのセットひとつ。あ、飲み物どうする?」
「えーっと……紅茶」
「ミルク? レモン?」
「ふつうの」
「アイスティーのストレートで」
そして自分の分も注文し、受け取り口で金を払って商品を受け取り、そのままとなりの伊勢ちゃんに手渡した。店を出て、二車線道路に合流する。
「ちょっと飲み物持ってて」
「……高岡さん」
「んー?」
「そういうのやめてください」
「そういうのって?」
「意味もなく奢ったりとか」
ふと見ると、伊勢ちゃんの横顔はどこか不機嫌そうだった。じっとりとした目でフロントガラスを睨んでいる。伊勢ちゃんは腹が減るとささいなことでも拗ねてしまう。空腹に打ち勝てない様は子供みたいでかわいいけれど、本当に怒ってしまう前にフォローしなければ。車を走らせたまま、耳にちょうどおさまるような都合を探す。
「いや……ほら、行く予定の店けっきょく行けなかったし、それの埋め合わせみたいな」
「だったら俺が奢んないとおかしくないですか。俺がわがまま言ったんだし」
「え? あ、ごめん、奢られんの嫌だった?」
「嫌っていうか……気ぃ遣うんですよ」
「え、いいよ気にすんなよ。恋人だったらふつうのことだし」
「だからそういうの……それにそんなこと言ったらこれから先奢りっぱなしになりますよ高岡さん」
「いいよ」
「いいわけないじゃないですか破産しますよ、ただでさえ高岡さん金の遣い方おかしーんだから……」
「あーそうだもういっこ言いたいことあんの思い出した」
「え、なんですか?」
伊勢ちゃんが唇をすこし尖らせたままぐちぐち言いはじめたので、すかさず話を逸らした。ついでに、いつか言おうとタイミングを見計らっていた話題をほうりこんでみる。
「たまには名前で呼んでほしーなー……」
以前から言いたくて仕方なかった。頬を染めて「拓海さん」とささやく伊勢ちゃんの姿を想像したことさえあった。そんな自分の陰湿さが零れないよう、あえて甘えるように言う。すこし冗談っぽくなればいい。俺の孤独な妄想などなかったことになればいい。
「なんでですか」
「いや……いつまでも高岡さんってのもなんか、変じゃん」
「隠れて付き合ってんのに急に名前呼びになる方が変じゃないですか?」
「そうなんだけど、二人の時ならいいでしょ」
「えー……俺そういうのあんま好きじゃない」
けれど伊勢ちゃんはどこまでも冷静で、舞い上がった俺ばかりが恥ずかしくなってしまう。きっと伊勢ちゃんは、俺が「伊勢ちゃん」と呼んだって、耳元に唇を寄せ「隆義」とささやいたって、なにも思わないのだろう。あーそもそも伊勢ちゃんは俺にそこまで興味ないだろうしな。エンジンの加速とともに、被害妄想まで加速してしまう。
「……そうか」
「あ! すいません別に悪い意味じゃなくて」
分かりやすく落胆してしまった俺の前で、伊勢ちゃんが明るい声をあげた。見ると伊勢ちゃんはいつの間にか右手にはハンバーガー、左手にはアイスティーのカップを抱えていた。空腹が落ちついた伊勢ちゃんは、とたん丁寧に言葉を紡ぐことができるようになるのだ。
「……なに?」
「高岡さんのことは、付き合う前から先輩として好きだったし、尊敬してたし……こういう関係になったからって、慣れ合って昔の感覚忘れちゃうのいやなんですよ」
日中の二車線道路は空いても混んでもいない。なめらかに滑るように進んでいく。ブレーキ、アクセル、ブレーキと必要に応じてゆっくり踏みしめる。つよさを残した晩夏の太陽がアスファルトを照らす。伊勢ちゃんの、茶葉に濡れた言葉は誠実だった。
「付き合ったってただの先輩後輩だったころの距離感とか忘れたくないっていうか……恋人になっていっしょにいるのが当たり前になって、尊敬してた気持ち薄れてったりしたらやだなあって。『さん』ってつけるのって、やっぱりちょっと特別じゃないですか」
「……なるほどな」
「名前では呼びたくないってわけじゃないんですけど、付き合ったからって色んなことが一気に変わっちゃうのいやなんですよ。やっぱり普段は高岡さんって呼んでたいです」
俺の意見はここまでです、というように言い切って、伊勢ちゃんは食べかけのハンバーガーにかぶりついた。気づくと車内の空気が変わっている。換気口よりも芳香剤よりも、伊勢ちゃんの言葉は確かなちからを持っていた。
「なんか……ごめんな」
「えっなんの謝罪ですか」
「いや俺浮わついてんなーと思って」
「なに反省してんですか、冷静になったら負けですよこんなん」
ちらりと見たときの、けらけらと笑いながらハンバーガーにかみつく姿がかわいかった。胸のあたりがきゅうっとすぼまるみたいな気持ちだ。苦しくてたまらなくてかきむしりたくなって、でも二度と経験したくないような嫌なものではない。むしろ、何度でも何度でも伊勢ちゃんに心臓突き破られて殺されたい。
「俺今まで、セックスする相手は居ても心底好きだないっしょにいたいなって思える相手いなかったから、なんつーかこう……どうしたらいいか分かんないんだよ」
「……はぁ」
「恋人っぽいことしなきゃって焦ってるみたいなとこあんだろな。そんでごはん奢ったりとかね」
「あぁ……さっきのですか」
「うん。でもメシ奢ることとかより、伊勢ちゃんのそういう対応の方が愛されてるって感じする」
口にしたとたん自分で納得した。そうだ「愛されてる」。俺は伊勢ちゃんに、もしかしたら「愛されてる」かもしれない。安いハンバーガーを奢るなんていう不器用なやりかたなんかじゃ太刀打ちできないくらい、もっと確実に。そう思うと心臓が破れて痛くて、でもうれしくてたまらないのだ。
「別にしなきゃいけないからするもんじゃなくないですか? つーかその恋人っぽいことってなんなんですか」
「んー……まあそうなんだけどな。要はさ、かっこつけたいんだよ」
「え、高岡さんかっこつけたいんですか」
「うん。伊勢ちゃんに『この人かっこいいな抱かれたいな』って思われたい」
ごく自然に言葉が出てきた。あとで、あっ今のセーフなのか? と疑問に感じてまた伊勢ちゃんを見た。伊勢ちゃんは答えに困っているようだった。笑い話にしたいけれど、俺の様子が切実すぎて、どう処理すればいいのか分からないのだろう。俺はそっと弁解する。
「……正直ちょっと浮かれてんだよ俺。いやちょっとじゃないな、だいぶ」
「なににですか?」
「えっ聞くのそれ」
「えっ?」
「……伊勢ちゃんは俺のことなんか好きじゃないけど断りきれなくていやいや付き合ってくれてるんじゃないかっていつも思ってるからさ」
「え? なんの話ですかまじで、なんで急にそんなネガティブになっちゃうんですか」
「いや違うよ、聞いてよ」
「なんですか?」
「伊勢ちゃんとこういうふうに付き合えるとも思ってなかったんだよ。だからさ、ふいうちで『あっ俺けっこう愛されてる』って実感すると、つい浮かれちゃうよなって話」
行く先では赤信号が煌々とかがやいている。早めにアクセルを離し、ゆるく減速させていく。停止線の前できゅっとブレーキを踏み、静かに停車する。
返事がないのでとなりを見た。伊勢ちゃんは少しだけうつむき、しかしきびしい視線で強気に道の先を睨みながら、熱心にアイスティーを飲んでいた。
正確には、アイスティーを飲むことに集中したふりをして、照れていることも俺の言葉に応えられないこともごまかそうとしていた。口もとがゆるむ。
「……伊勢ちゃんストロー噛んじゃう派でしょ」
「悪いですか」
「悪かないけどさ、ストロー噛む人ってさみしがりやなんだって」
「だ、だからなんなんですか俺がストロー噛んでることで高岡さんに迷惑かけたんですか」
「やーかけてないですかけてないです、紅茶美味しい?」
「……美味しいですよ」
「そりゃよかった」
思わず手を伸ばして頭を撫でると、ふり払われ「前見ててください事故りますよ」と言われた。そうは言われても、となりが気になって仕方ない。一刻も早く帰りたくなってしまう。
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