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友一郎 ①
すぐそばで波がよせてはかえす。魚の強烈な生臭さが鼻をつき、胸が悪くなった。友一郎 は半覚醒状態のまま上半身をひねり、砂に両手をついてせき込んだ。
「大丈夫か?」
大きな手が背中をさする。なんだか奇妙だなと友一郎は思った。ひとの手を大きいと感じることなど、いつ以来だろうか。
「ごめん、ごめん。あんなに驚かれるとは思わなかったんだ」
そう謝る声はどこかふざけた調子で、そして大きな手には不つり合いな高さだった。やや高音。なのに、深みのある声だ。
よつん這いになった膝頭を波が洗う。友一郎は彼を覗きこんでくる顔を見上げた。
大翔 、ではない。おぼれる直前、友一郎はたしかにその顔に亡き親友の面影を見たのだが、いま目の前にあるのは、奇抜なメイクをほどこしたような模様のある顔だ。
全体的にネズミ色でつやのある肌。濡れ髪を上げた額の青灰色は濃く、眉間の辺りで漏斗 型にすぼまっていき、鼻筋へとつづく。模様は鼻の頭にいくにつれてまた太くなり、鼻先のてっぺんはすっかり黒に近い青だった。より特徴的なのは目のまわりで、眼窩の縁のあたりまで鼻の頭とおなじ色で塗り込められている。まるでハロウィンのガイコツの扮装、あるいはパンダのコスプレみたいなファニーフェイスだ。
「どうしたの。人魚を見るのは初めて?」
「いや、子供のころに水族館でなら」
口走ってしまってから、気を悪くされるのではないかと友一郎は思った。だが人魚は、
「オレ、水族館は好きだよ。スタッフのみんな、やさしいし」
と言って、ニッと歯をみせて笑った。
友一郎は砂に腰をおろし、頭をふった。左耳の中に水が入ってしまっていて、頭をふるたびに、ざわざわと不快な音がした。
「そういえば、俺の船……」
それはただのひとり言だったが、
「悪い、すぐ取ってくるよ」
人魚は立ちあがった。あんがい上背がある。人魚は友一郎に背を向け、不器用に歩き出した。素っ裸だがウェットスーツを着こんだように平坦な体つき。青黒くて長い腕と脚。手も大きいが、足はもっと大きかった。ペタペタと音をたてながら、人魚は波打ち際から海にむかって歩いていく。長い後ろ髪のゆれる青い背中に、鼻筋を彩るのと同じ色で、いく筋かの模様が背骨にそって尻までのびているのが見えた。
やがて人魚は泳ぎだし、波のあいだに姿を消した。そのはるか向こうに隣の島がある。それよりもっと手前、入り江の端くらいにオレンジ色の船体が小さく見えた。友一郎のシーカヤックだ。
あんなに沖へと流されてしまった舟を取ってきてもらうのは、人魚に申し訳ないと友一郎は思った。
カヤックを転覆させる原因となったのは人魚のいたずらだったにしろ、溺れたのは友一郎自身のミスだった。海が凪いでいたからといって、彼はライフジャケットを脱いでしまっていたのだし、少し前から大きな魚影のようなものが水面下をうろうろしていたことにも注意を向けなかった。突然、ばぁ! と人魚が海面に顔を出したとき、驚いた拍子に舟を転覆させパニックを起こしてしまったために、コックピットからの脱出に手間どってしまったのだ。
オレンジ色の船体がじょじょに浜辺に近づいてくる。さすが人魚。思ったよりもずっと早い帰還だ。
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