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友一郎 ②

 今日も今日とて湾内の海面は湖のように凪いでいるが、だからといって舟をこぎながら読書でもするというわけにはいかない。自動車の運転のようなものだと、友一郎(ゆういちろう)は考えた。  パドリングにはだいぶ慣れてきた。ちょっと前まで、彼はパドルを動かすことで頭がいっぱいだった。だが、考えごとをする暇もないというのは、それはそれで幸せな時間だった。必要に駆られてする労働ではなく、やってもやらなくてもいいことに夢中になるなら、なおさらだ。  安全のためではなく、余裕ができたために辺りを見回す。右手には深い緑におおわれた半島があり、前方には隣の島が見える。今までの人生でいちばん、自分の生まれ育った海を見ている。友一郎はそう思った。  太陽が南中よりも少し西に傾いている。祖父はもう家路につくころだろうか。明日はラジオでも持って来ようかと友一郎は思いついた。いい思いつきに、自然と口の両端があがる。  左手にまわりこんで自分の島の砂浜を目指そうとした時、数十メートル離れた海面に、ひょっこりと頭がつきでてきた。この間の人魚だ。「おーい」と友一郎にむかって大きく手をふっている。先日、まるで船幽霊のような現れかたをして友一郎のカヤックを転覆させたのを人魚は反省し、漕ぎ手を驚かせないよう努めているようだった。  友一郎が片手をあげると、人魚は平泳ぎでいそいそと近づいてきた。友一郎はパドルを逆回転させて舟を止めた。 「どこに行くの?」 「島に帰るんだ」  友一郎はこたえると、パドリングを再開した。(へさき)を砂浜にむけ、ゆっくりと漕いでいく。そのあいだ、人魚はカヤックの横を間隔を保ってついてきた。友一郎がふと人魚の方を見れば、人魚は友一郎の目をじっと見、にこっと笑った。少し漕ぐと視線を感じ、顔を見合せれば、友一郎はひとつも表情を変えないというのに、人魚はまるで昔からの友達に笑いかけるように笑った。  どうやら人魚は人懐っこい(たち)らしい。だが、友一郎はオープンな笑顔を人魚から向けられるたびに、居心地の悪さを感じた。人魚の笑顔は、友達になれるかどうか探っているときの笑顔だ。こんな笑顔を向けられるのはいつ以来だろう、と彼は考えた。もしかすると、高校に入学したての頃以来かもしれない。そうだ、大翔(ひろと)と初めて会ったとき、彼もいまの人魚と同じように友一郎に笑いかけたのだ。  あの頃は、ためらいながらも大翔の笑顔にほほ笑み返すことができた。だが今はなぜだか、どういう顔をしたらいいのかわからない。だから友一郎は、真っ直ぐ前を向いて舟を漕いだ。  カヤックを砂浜に上げ、ちょっと休憩しようと友一郎が砂に腰をおろしたとき、人魚はまだ帰らずに、波打ち際の湿った砂に腹這いになって友一郎を見上げていた。 「名前はなんていうの?」  よく聴こえなかったわけではなく、不意に聞かれてたせいで、友一郎はペットボトルの口を唇につけようとした格好のまま「え?」と聞き返した。 「なーまーえ」 「あ、ああ。友一郎だ」 「ゆういちろう。どういう字を書く?」  友一郎は仕方なくペットボトルをカヤックのコックピットに入れ、落ちていた棒を拾って人魚に近づいた。そして海水を含んで黒っぽくなった砂に自分の名前を漢字で書いた。  人魚は上半身を起こして砂に書かれた文字をしげしげと見つめ、ふーんとうなった。顔よりはだいぶ白っぽい胸から、貼りついていた砂の塊がポロポロと落ちた。そして、 「オレはカヅキ」  と名乗り、人差し指で砂に「潜」と正しい書き順で書いた。

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