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潜 ①
ご多分にもれず、友一郎 も潜 が自分の名前を書いてみせると、驚いて目を見開いた。だが、反応はたったそれだけで、「へぇ!」とも「すごいね!」とも彼は言わなかった。潜が首をかたむけて友一郎の顔を覗きこみ、にこっと笑ってみせれば、友一郎はびくりとあとずさった。よっぽど怖がりなのだろう。数日前、ふざけて驚かせてみたら、まさに死にそうになったほどなのだ。
「友一郎?」
「や、すまない」
何がすまないのだろう。悪いことをしてしまったのは潜のほうだ。
謝らなきゃいけないのはこっち、と思うのに、潜はつい笑った。「友達がいちばんの男」という意味の名前なのに、友一郎には友達なんか一人もいなさそうに見えるからだ。じっさい、沖で若い漁師たちが漁にいそしんでいる間、友一郎は島の陰に隠れるようにひっそりと、ひとりで舟を漕いでいた。
これは、自分が最初の友達になってやらなければ。と、潜は友一郎にむかって手を差し出した。
「ねえ、オレたち、友達になろうよ」
潜は出来うるかぎり最高の笑顔をして言った。友一郎はすこしの間、誰かに見られていないかどうか確認するように左右を見回し、右手をハーフパンツに二、三度こすりつけてから、おずおずと差し出した。だが、潜が握ろうとすると、その手はスッとひっこんだ。
「巡視船、が、見てるかも」
と友一郎は言いわけした。
「巡視船? 海保のこと?」
海保なら、潜が手をふればふりかえしてくれる。人魚に対して親切かどうかはわからないが、少なくとも干渉はしてこない。
「いや。海保のやつじゃなくて、いるんだ、半島の先のほうに」
そういえば、その辺りに大きな船がうろうろしているのを、潜も見た。事情はわからないけれど、ここでは人魚と人間が仲良くするのはご法度なのだろうか。でも、と潜は思った。港の漁師達は潜と普通に話してくれるし、今朝なんか、朝ごはんのお刺身を分けてくれたじゃないか。
さては、友一郎は個人的に、人魚とかかわるのが嫌なんだな。潜は強引に友一郎の手を握り、ぶんぶんと振った。
「よろしくね、友一郎」
偏見なんか、ちょっと付き合えばすぐにどこかへふっとんでいってしまうのだから。
友一郎はうつむいたまま、ボソッと「妙な感じだ」と言った。初めての人魚の手のひらへの感想なのか、人魚と友達になることへの感想なのか、わからない。
ともあれ、少なくとも友一郎は「友達が一人もいない男」ではなくなって、「友達が一人はいる男」になった。潜は満足感をおぼえて、友一郎の手をはなした。友一郎の手はしばらくの間、そのままの位置にとどまっていた。
この日はそれで別れた。不承不承といった感じだった友一郎だが、彼は毎日、朝早くに砂浜を掃除して、昼には舟を漕いでいて、潜が手をふれば手を上げてこたえてくれるし、船の横を泳ぎながら話しかけても鬱陶しがらずに耳を傾けてくれるのだった。
嫌われてはいない。好かれてもいないかもしれないけれど。だが、港の漁師達とちがって友一郎は気さくではないけれど、いつも潜のために場所を少し空けていてくれる。そんな感じだった。
潜は毎日湾内を散策してすごした。今年はいつもよりちょっと遠出してこの湾まで来てみたが、来てよかったなと彼は思った。
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