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潜 ⑲

 棒切れが砂をカリカリと掻く。「慈」という字を(あまね)は書いた。 「いまからお前の名前はイツキだ」  (ねい)は鼻の奥をピイピイと鳴らして喜んだ。 「“(いつく)しむ”と書いて、イツキと読ませるの?」  (かづき)が言うと、周の眉間にしわが寄ったので、潜はしまったと思い、飛んでくる平手打ちを恐れてぎゅっと目をつぶった。だが、 「なんだ、文句でもあるのか? お前だって“(かづ)く”と書いてカヅキと読ませるのだろうが」  と周は言っただけで、潜をぶたなかった。濘改め(いつき)がそばにいるときにかぎり、どうやら周は潜に暴力をふるうのは遠慮しているらしかった。  痛い思いをしなくてすむのはいいが、潜は複雑な気分だった。慈が男の人魚たちにすっかり馴染んでしまうなんて。とくに周には、ほんものの父親に甘えるように、あとをついてまわるなんて。  早朝の海水浴場で行われる健康観察に、慈は行かなくなってしまった。母親に会いたくないのかもしれない。潜は健康観察を受けることを周に許されたので、今までどおり通っている。友一郎(ゆういちろう)にも会っていいと周はいう。それは嬉しいけれど、潜は周の「(つがい)」だから、好きなようにするのを「許されている」というのは、潜は嫌だった。そもそも、潜は周の番になんかなりたくないのだ。  深夜。満天の星空の下、男の人魚たちは半島の沖まで出て、凪いだ海面にひとかたまりになって休んでいる。群れの中心にはたくさんの番が集まり、その周囲を見張り役が泳いで警戒している。  潜はびくりと目を覚まし、周の胸板に伏せていた顔を上げた。番同士は、交代で片方が仰向けに海面に浮いてベッドの役目をし、もう片方がそれにつかまって眠る。周は大きな板のように安定していて、潜と慈にしがみつかれてもぐらぐらしないが、不思議と潜にとっては寝心地の悪い寝床だった。周と寝ると、嫌な夢ばかり見てしまう。心の中のトンネルが、つらい記憶ばかりぽろぽろと吐き出すのだ。  空を見上げれば、眠りについた時と星の位置があまり変わっていないようだった。慈は周の片腕に抱えられて眠っている。心地よさそうに口をむにゃむにゃ動かしていた。  起きていることを周や他の人魚たちに悟られないよう、潜はそっと周の胸板にほっぺたを下ろした。周のゆっくりとした鼓動が聴こえてくる。昼間は不馴れな集団行動で疲れたのに、眠気はやってこない。 『これだったら、一人で泳ぎながら片目を交互につぶって眠った方がよく眠れるよ』  潜は片目だけをつぶった。両目を閉じるとまた悪い夢を見そうだった。周じゃなくて友一郎が人魚だったらよかったのに、と潜は想像した。もしも友一郎が人魚だったら、潜は友一郎と番になって、毎日手を繋いで泳ぐし、夜は抱き合って眠るのだ。 『そうだ、明日は友一郎、朝は伊達(だて)くんの手伝いに来ないって言ってた』  明日は友一郎は朝からフェリーに乗って、半島の街に出かけるらしい。 『また、死んだお友達に逢いに行くのかな』  友一郎の心の中には、いつもその人がいるらしい。その人がどんな人だったのか、友一郎は潜に何も話してはくれない。潜が聞いても友一郎はただ少し頬笑むだけだ。やっぱり友一郎は人間だから、人間が相手の方がいいのだろうか。 『オレには、友一郎しかいないのに』  ふいに、大きな手のひらが、潜の髪をかき回した。 「眠れぬのか?」  周が首を上げて潜を見つめた。潜はむすっと頬を膨らませて周をにらみ返した。周に掴まっていた手をはなして、一人で水の中に沈んでしまおうか。と、思ったところ、周の片腕が潜の背中をぎゅっと締め付けた。 「まだ見張りの交代までに時間がある。少し二人きりになろう」  周はそうささやくと、すぐ横に浮いていた側近の二人に慈を預け、潜を腕の中に抱きしめて水中にもぐった。周の泳ぎは速く、あっという間に群れの外へ出てしまった。海面に顔を上げたときには、人魚たちの群れどころか半島の先までもが遠く離れたところにあった。

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