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友一郎 ⑳(下)
「濘 を連れて行くのか」
「当然だ。なにか問題でも?」
問題は、ある。母親に無断で幼い子供を連れ去っていい訳がない。
「母親のもとに返さないのか?」
友一郎の問いに、周 は鼻先で濘をくすぐるのをやめて、友一郎を見据えた。先ほどとは別人のように酷薄な目。だが、言い返すでもなく、周は濘をそっと砂の上におろした。
「潜 、この子と遊んでやれ。私はこの男に少し話がある」
急に呼ばれて潜はびくっと飛びあがった。潜は友一郎のことを助けを求めるような目でちらっと見たが、「わかった」と答えると、濘の手を引いて入り江の外へ行った。
二人が去っていくのを見届けたあと、周は品定めをするように友一郎をじろじろと見てから口を開いた。
「メスどもは我ら海神 の血を引いた男児は育てない。メスどもはたいがい、産み落とした赤子が海神の息子だと知るや、岩に叩きつけて殺すものだ。そうしないのは、特別な事情がある場合のみに限るという」
「特別な事情?」
「そのメスが子の父親である海神と相思相愛である場合だ。私には信じがたい。メスに誰かを愛する心があるなど。血のつながらない他人を愛する……それは海神 のすることだ。雌人魚 にはできない。あいつらには人の心がない。だが、当のあの子供の父親が言ったのだ。この辺りのどこかに、かつて情交を結んだ女がいるはずだとな。そうでなければ、いくらメスどもがうじゃうじゃたむろしていようと、こんな縁起の悪い場所にわざわざ来ようとは思わなかった」
マーメイドには他人を愛せない。マーメイドには人の心がない……そうだろうか? 子供の頃に水族館で初めて見た人魚や、現在、海水浴場に住み着いている人魚たちのことを友一郎は思った。彼女たちは開放的な性格に見えるが、人の心がないようには見えない。むしろ、いま目の前にいるこの周こそ、人語を操るだけの、人ではない別の何かに見える。
「なにか言いたげだな」
周は黄金色の瞳で友一郎をにらんだ。
「いや、別に」
「私と潜のことで、聞きたいことがあるのでは?」
友一郎は口をつぐんだ。気にならない訳ではないが、聞いても無駄だと思った。周は潜を番 だと言った。先日の、廃漁港で出会ったオス人魚たちの話から、人魚はオス同士で番になることがあると友一郎は知ったが、もしかするとオス同士で番になるのが彼らにとっては当たり前なのかもしれないと、考えを更新させたところだ。
だが、潜は明らかに周を嫌っていた。番というのは周が一方的に言っているだけのことなのだろう。
「私と潜は番なのだ。まだ契りを結んでから幾日も経っていないがな」
ぎくしゃくした関係性の問題は時間が解決してくれる、と言わんばかりだ。なぜそんなにも自信満々なのか、友一郎には理解しがたい。
嫌がる相手を無理やり番にするなど。あの潜から笑顔を奪うなど……許せない。しかし、ここで感情まかせに詰れば、周は腹いせとして、友一郎から見えないところで潜になにか危害をくわえるかもしれない。うかつなことは言えない。だが、周は友一郎の反応を待っていた。
「あんたらトリトンにとって、番ってなんなんだ」
友一郎は慎重に声の抑揚をおさえて聞いた。周はフンと鼻をならした。
「男同士の至高の関係。どんな時でも愛しあい、助けあい、なぐさめあう。死が二人を別つまで、切れることはない。陸の人間 にはけっして築けない」
勝ち誇ったように、周は唇の両端をあげた。笑うと口角が丸まるのは潜と同じだった。周の手のひらが友一郎の額にかざされる。友一郎は身を固くした。周の大きな手は、本気を出せば友一郎の額を掴んでぐしゃりと握りつぶすことくらいできそうだったが、周はそうするかわりに、友一郎の頭を幼子にするように撫でた。真っ黒な手のひらは、潜の手のひらと同じように温かく、柔らかだった。
「潜に会うな、とは言わぬ。潜はお前のことをいたく気に入ってるようだからな。私は番の望むことなら可能な限り叶えてやりたいと思っている。お前があれといくら親しくしようとも、番同士の絆は、揺らぐことはない。だから一向にかまわない。どうせ、この湾に逗留するのもあと少しの間だけ。残りわずかな逢瀬を、せいぜい楽しめ」
猫なで声で言った、周の金目が逆光の影でぎらぎらと輝く。周のこめかみや肩の筋肉にめきめきと太い血管が浮く。圧倒的な力の差を見せつけてくる。周の全身からみなぎる重圧に、思わず友一郎はよろけそうになるが、微動だにすることさえ周の視線は許さない。
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