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友一郎 ⑳(中)

「はい」  友一郎(ゆういちろう)の前に(ねい)の小さな黒い手が差し出された。濘は得意満面で友一郎の次のアクションを待っている。友一郎はごっこ遊びなどをするのは人生で初めてなので、何をしたらいいのかわからない。 「おかねください」  濘はずずいと友一郎の鼻先まで手をつき出した。 「あ、はい」  これでいいのかと迷いながら、友一郎は濘の掌の真ん中に指先をのせた。 「まいどあり!」  満足そうに口の両端を引き上げた濘だったが、突然ものすごい速さでテントに飛び込んできて、友一郎の背後に隠れた。  入り江の間口のところの海面に、人の頭が二つ。一人は(かづき)で、もう一人は見覚えがない。潜や濘と同じ、緑の黒髪に青灰色の肌をしている。  二人は浅瀬の波をかき分けながら、こちらへ歩いてきた。見覚えのないオス人魚が先に立ち、潜の手を引いている。潜はそれが嫌なようで、掴まれている手をもう片方でふりほどこうとしながら、足をつっぱってなんとか前に進まないように努めている。  友一郎はテントから這い出て立ち上がった。 「お前は中にいろ」  と濘に言ったが、濘は友一郎の脚にしがみついて離れない。  見知らぬ人魚は長身で、目の前に立つと友一郎よりも頭ひとつぶん以上背が高かった。水びたしでもヤマアラシの(とげ)のように逆立つ硬そうな髪。端整な顔には潜よりもやや暗い色合いの紋様がある。(まなじり)の鋭くつり上がった隈取りが恐ろしげだが、目つきは涼やかで、どこか淋しそうに見える。 「はじめまして」  あんがい丁寧な口調でその人魚は言った。 「私は(あまね)。この湾内を()べる海神(トリトン)の頭領だ。お前には私の(つがい)が世話になっているというので、挨拶にきた」  番とは? 友一郎は周の斜め後ろにる潜に目をやった。潜は片手を周に掴まれたままで、ぶんぶんと首を横に振った。だが、周のいう番とは、まさに潜のことなのだろう。  ふと、周の視線が下を向いた。濘が友一郎にしがみつく腕を強めた。 「おぉ」  周は澄ました表情から一転して、破顔微笑した。潜ほどあけっぴろげな笑い方はしないが、人魚らしい愛嬌のある笑顔だ。  周は潜をつかまえていた手を放し、友一郎の脚の後ろから濘をさっと捕らえてしまった。 「お、おい!」  両方の二の腕を大きな手に握られた濘は、軽々と空中に引き上げられる。周の頭上高くに投げられ、飛行機のように両手を広げて落下した。次の瞬間には濘は周の腕の中にいた。子供なんかろくに見たこともない友一郎でもはらはらしてしまうほどの、荒々しいあしらい方だ。  心配する友一郎をよそに、周は濘をまるで新しく手に入れたおもちゃを(たなごころ)の上で転がすように濘をいじくり回して、顔や身体を隅々まで観察すると、腕のなかにしっかりと抱きしめ、頬ずりをした。 「むこうの浜にいるメスどもの子だろう。名はなんという?」 「ネイ。泥濘(でいねい)の濘と書いてネイ」 「くだらない名だ。お前には似合わん。私がもっといい名をつけてやろう。そうしたらもう、お前は私の息子だ」  と周は言うと、濘の耳たぶや頬の肉を甘噛みした。濘が不安そうな顔で友一郎を見た。潜も、少し離れたところで眉間に深いしわを寄せて、じぶんの手の人差し指と中指と薬指を口にくわえていた。

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