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 頑張ってるって言われて急に目の奥がジンってなった。涙が出そうになる前の感覚。 「楽譜読めなくても、聴き取れた音は書けてるし、書いているとこはちゃんとあってたよ」 「うん」 「音を正しく聴けるのって、誰でも出来ることじゃないよ」  周りからは楽譜は読めて当たり前だって言われる。両親は音楽が分からないから、結斗の習い事には無関心だ。  それは最初から薄々分かっていた。自分の家は音楽をやる家じゃない。それに反発するように一人で音楽をする子になろうとした。  純と一緒に遊びたかったから。  純は音楽を出来て当たり前だって言わない。同じ目線で話をしてくれるから、いつだって一緒にいて居心地がいい。  純が一緒に音楽を楽しんでくれるのが嬉しかった。  どれくらい苦労して目の前の課題と向き合っているのか純は分かってくれた。純がいつもやっているように正確に譜読みするように。  ふいに涙がこぼれそうになって慌てて服の袖で目を擦った。 「どうしたの」 「目にゴミ入った」 「だったら、こすったらダメだよ」  手首を掴まれる。 「うるさいなぁ」 「目、赤いよ」 「すぐ治る!」 「そう? 結斗、とりあえず早く宿題やって遊ぼう」 「え」  純は結斗の手を弾いてピアノの前に座る。左によって隣に結斗を座らせる。 「俺、弾くから、右手が結斗の宿題の音。楽譜開いたままにしてね」 「うん」  ――魔法だと思った。  結斗が知りたかった音が鳴りだす。  ピアノなのに、この前、発表会で歌いに行った教会のオルガンのような音みたい。キラキラしている。  一人で音楽をしているときはどんどん暗く淀んでいく心が、純が隣でピアノを弾くと不思議と澄んでいく。  ずっと、ざわざわとして落ち着かなかったのに、知りたい音だけが正しく聴こえた。 「出来た!」  ピアノの伴奏で歌いながら、楽譜の上に鉛筆を走らせて、純に見せると正解といって笑ってくれた。 「俺は結斗の声、好きだよ」  突然褒められて慣れていない結斗は一瞬で顔が赤くなった。合唱団の入団テストのときに「元気でよろしい」と言われたときよりもはるかに舞い上がっていた。  それを知られたくなくて子供のくせに「ケンソン」をした。 「歌が上手いやつなら、団にもっといっぱいいるよ」 「もっと自信持ったらいいのに、結斗は将来は歌手かなぁ」  そんな、ありえないバカみたいなことをいって純は綺麗に微笑んだ。その笑顔を見て結斗は心がふわふわと浮かれてしまう。  自分が歌手なら、きっと純は将来ピアニストになるのだと思った。  それがどんな大変な仕事か知りもしないのに、漠然と純の未来を想像していた。  その日は、お互いの宿題が終わったら、音楽に関係ない話をして笑いあっていた。  一年くらい前はゲームの話ばかりする結斗に純は、いつも首を傾げていた。いつの間にか結斗の好きなことも知るようになっていた。  最初は一緒にいるとき音楽くらいしか話すことがなかった。けれど本棚に新しい本をさしていくように、お互いの好きなことをたくさん知るようになった。  ある意味音楽バカだった純が人並みに子供らしい娯楽を知るようになった。  それが、結斗と一緒にいることで得られた効果なのか、正常な子供の成長なのかは分からない。けれど自分と一緒にいるときに純の笑顔が増えることが結斗は嬉しかった。  夕方になって、結斗が家に帰るとき由美子さんが玄関まで見送ってくれた。そのとき何故か「今日は、ありがとうね」と言っていた。  お礼を言われた理由は分からなかった。  結斗が家に行くまでに、由美子さんと純の間で何があったのかは知らない。  ただ、険しい顔でピアノに向き合わなければいけなかった純が、結斗が会いにいったことで元気になったのなら良かったと思う。  純はあの部屋に一人で寂しかったのだろうか。  相手もなく一人で奏でる音楽は寂しくて、どんなに好きでも、時々誰かに隣で聴いて欲しくなるから。  その日は、何となく純の家から自分の家に続く長い坂道をスキップして帰った。

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