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結局陽介とは和解できないまま、蘭は出発の日を迎えた。スウェーデンには、今日から一週間滞在予定である。行きの機内で、蘭は今朝の明希との会話を反芻していた。 『パパとは、まだ仲直りできないの?』  心配そうな彼女に、蘭は憤然と答えた。 『仕事に干渉されるのだけは、我慢ならないから。オメガだからって、過保護にされるのも』 『そういうものなのかなあ……』  明希は首をかしげつつも、蘭に弁当を渡してくれたのだった。  早速食べようと、蘭は弁当箱の蓋を取った。中身は、おにぎりだ。和食は当分食べられないという、配慮からだろう。 ――いい娘を持った。あの子だけには、土産を買って来てやろう。  男どもは知るか、と蘭は鼻を鳴らした。特に、陽介は。  ――うん、美味いじゃんか。  舌鼓を鳴らしていたその時、突如驚いたような声が聞こえた。 「市川君じゃないか」  見上げて、蘭は目を見張った。実によく知るアルファ男性が、そこに立っていたのだ。『日暮新聞』社会部時代の先輩・反町(そりまち)である。蘭よりは五歳上だから、今四十八歳か。銀縁フレームの眼鏡をかけ、インテリ然とした雰囲気は、当時と変わらない。 「元気にしてたかい? 日暮の皆は元気にしてる?」  一瞬きょとんとした後、蘭は思い出した。蘭が『日暮新聞』を辞める前に、反町は海外支局に転勤になったのだった。 「反町さん、ご無沙汰しています。実は、日暮は辞めたんです。今はフリーでやっていまして」 「あ、そうなの?」  反町は、にこりとした。 「もしかして、結婚退職かな? 相手は、稲本君だろ。当たり?」  蘭は、内心首をかしげた。蘭の夫が総理大臣・白柳陽介であることを、彼は知らないのだろうか。 「えーと。結婚したのは、その通りなんですけど。実は、僕の夫は……」  周囲にバレたら大騒ぎになるので、蘭は持っていた新聞の政治面を開いた。総理に関する記事を指し、「この人です」と囁くと、反町はさすがに目を剥いた。 「ええ、そうだったの!? そういえば、新総理のパートナーはオメガ男性って聞いたけど。まさか、市川君だったとはねえ……」  感心したように首を振った後、反町は気が付いたように説明し始めた。 「何も知らなくて、失礼。実は、僕も日暮を辞めたんだよ。海外暮らしが性に合ったものだから、各国を転々として、今はスウェーデンで暮らしてる。今日はたまたま帰国した帰りなんだけど、日本には、ほとんど帰ることが無いから。ニュースもチェックできていなくてね」  そういうことだったのか、と蘭は納得した。 「それに、次は日本へ戻って管理職にって言われたからさ。僕は、やっぱり記事を書き続けたいのよ。はんこを押すだけの仕事なんて、興味は無いね」  新聞社では、上に行けば行くほどデスクワーク中心になる。反町は、根っからの記者なのだろう。蘭は、何だか親近感を覚えた。 「というわけで、今はフリーでやらしてもらってる。市川君と同じ」  反町は、片目をつぶって見せた。 「君は、何かの取材に行くのかい?」 「はい。バース教育について取材しようと。スウェーデンは、進んでいると聞きましたので」 「ああ、確かにね」  反町は、うんうんと頷くと、こんなことを言い出した。 「よかったら、案内しようか? 積極的な学校の校長に、知り合いがいるんだけれど」 「本当ですか? 助かります」  蘭は、目を輝かせた。 「お安いご用。結婚のことも知らなかったし、遅ればせながらお祝いってことでさ」  反町は、あっさりと答える。蘭は、ほっとするのを感じていた。陽介には啖呵を切ったものの、初海外取材ということで、やはり少し緊張していたらしい。自分でもいくつか学校の目星は付けていたが、紹介者がいるというのは、ありがたいことだった。  ――それに、反町さんなら安心だし。  反町がすぐに転勤になったせいで、あまり接点は無かったが、彼は社内では珍しく、オメガ差別をしないアルファだったのだ。そんなアルファは、稲本を除けば彼くらいだった。  「じゃ、詳しくは現地に着いてからね」  反町は微笑むと、自席へ戻って行ったのだった。

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