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第1話
語学教室の廊下で、夜のような瞳の男を見た。
その時ハルは、英語講師のアールに発音について散々にだめ出しをされた後で、気持ちが荒んでいた。
二時間分のレッスンが終わって部屋を出たところで、その男を見かけた。
普段のハルに通りすがりの誰かに喧嘩を売るような習慣はない。たとえ、相手が廊下を塞ぐように立っていたとしても。その時は自分で思っていた以上にいらいらしていたに違いない。
黒い薄手のステンカラーコートを着た学生のような装 のその男が、一目で自分より若いことが分かったし、緩くカールした長めの黒い髪が目許を隠しがちにしていたが、彼が端正な顔立ちをしているのも、明らかに自分より背が高いのも、瞬時にハルは気に入らないと感じた。
初めて見る顔だ。
水曜日の夜のことだった。
その男と肩がぶつかっても、ハルは振り返らなかった。
背中に視線を感じたが、どこ吹く風という面持ちで受付を通り過ぎる。
九月最初の水曜日、唐突に秋がやって来た。その日の最高気温は十八度。ハルの住む町では平年より肌寒い一日だったと云えた。
まだ新しい月に入って三日しか経っていないというのに、突然掌を返したようなその季節の変わりように、道を行く誰しもが心なしか不満気な、釈然としない表情を浮かべているように見える。夏の余韻はどこへやら。みんなクローゼットの奥から引っ張り出してきたであろうジャケットを着込み、ストールを巻いている。
ハルも夜の気温を見越して、夏の間にクリーニングへ出しておいたテーラードジャケットの下に、ニットベストを着込んでいた。寒さには弱い。
ハルの通う語学教室は、小さな駅ビルの五階にある。毎週水曜日、仕事を終えた後でハルは必ずここへ通っている。午後七時から九時までのレッスンを受けた後、二階のセルフサービスのカフェで一息吐く。
これがハルのウィークリールーティーン。
の、前半がここまでだ。
ハルはブレンド珈琲を注文し、ウィンドウに面したカウンター席に腰を下ろした。
時刻は午後九時十二分。
この駅ビルの閉館時間は十時。
遅くともそれまでに待ち人はやって来る。
珈琲は地獄のように黒くなくてはならない、という異国の諺を教えてくれたのはその彼だ。
温かいブレンドが喉に沁み渡ると、次第にハルの気分が落ち着いてきた。
珈琲はブラック、煙草は紙巻きに限る、というのが待ち人であるその男とハルの共通点だった。ただ、ハルの場合はブラックの珈琲を選ぶのはミルクが体質的に合わず、すぐ腹痛を起こしてしまうからだし、煙草についても最近は健康面を気にして、同僚が吸っている低温加熱式煙草に乗り換えるのもありなんじゃないかと思い始めている。だがわざわざそんなことを彼の前では口にしない。
珈琲を啜りながら窓の外を眺めていると、行き交う人々の中に、先程肩をぶつけた黒いコートの若い男を見つけた。彼が店の前を通ったその時、闇を湛えた水面のような瞳が、再びハルを捉えた気がした。
だがそれはほんの一瞬の出来事だった。思い違いだったのかも知れない。ただ何となくその周辺に顔を向けただけだとしても不思議はない。
若者は何の表情もないまま前を向くと、ビルを出て改札の方へと立ち去った。
その後姿をぼんやり見届けていると、眼の前の硝子が音を立てた。透明な壁の向こうにいたのは、先程まで語学教室で講師をしていた外国人の男だ。ハルは彼を待っていた。
講師の男は硝子越しにハルと一瞬だけ眼を合わせると、何事もなかったようにその場を離れて行く。
彼の跡を追うため、ハルは早々に身支度を整えて、半分ほど残った珈琲もそのままに返却口へ運び、店を出る。辺りを見廻したが既にあの講師の姿はない。きっと今頃、駅前広場の脇に設置された細い階段を足早に降りている頃だ。
大丈夫だ。そのくらいのことは分かっている。彼は決して待ってはくれない。駅を離れ、あの男が住むフラットが見えて来る辺りで、ようやくハルは彼に追いつくことができる。
週の中日にこうして必ず逢瀬を重ねる。
約束を交わしたわけではない。
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