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第2話

木曜日の朝を、いつもその外国人講師の部屋で迎える。 午前六時十五分にハルの携帯電話のアラームは鳴り出す。その時間きっかりに、ハルは眼を醒まさなければならない。同衾している男を無闇に起こすと、彼の機嫌次第でハルは報復を受ける。 今朝は運悪く、寝台の天板とマットレスの間に携帯電話が入り込んでしまった。寝起きのぼんやりとした頭と視界では、その事態に気づくのが遅れた。はっとしてハルは充電ケーブルを引っ張り上げ、慌てて本体を掴もうとする。だが途中でコネクタから外れた本体はするりと落下した。フローリングの床に直に振動が響き、アラーム音がより一層大袈裟に聞こえ始める。ハルは急いで寝台を下り、サイドフレームの下を覗き込んで手を伸ばした。その時、 「うるさいな」 という部屋の主の声が降ってきて、ハルはびくりとした。やっとのことで携帯電話を拾い上げ、アラームを停止する。おずおずと寝台を見上げたところで、寝起きの不機嫌そうな煩わしいものを見下ろす青い二つの瞳と遭遇した。 「・・・ごめん、アール。起こした?」 アールはその問いには応答せず、再び枕に顔を埋めた。そのままもう一度寝てくれた方がハルはほっとする。 アールの職場は眼と鼻の先にあるため、いつも起床は八時半過ぎだという。そのため、彼はハルの習慣に合わせるつもりは毛頭ない。無論、ハルの方でも彼を付き合わせるつもりなどなかったが、こういうアクシデントはたまに発生する。アールは一度覚醒してしまうとすぐには寝つけない体質らしく、無駄に睡眠時間を削られることを非常に嫌っていた。 ハルはなるべく物音を立てないように立ち上がり、身支度を整え始めた。 ハルは平日、子供向けの英語教材を売る仕事をしている。 大学を卒業してから、もう六年ほど同じ会社で働いていたが、その間の業務内容は代わり映えしないものだった。 この不況が続く世の中、軽く二十万を超える教材を子供のために購入できるような家庭は限られている。公立の小学校でも英語教育が始まると聞いた時には市場が明るくなるかと思ったが、似たような狙いの会社が多すぎて、結局は営業に出向く社員個人のトークと運次第という手詰まり感があった。 ハルは幼稚舎から中学卒業まで、英語教育に重きを置いたエスカレーター式の私立校に通っていた。諸事情により高校は地元の公立校の普通科を受験し直したが、その後進学した私立大学では英文学科を専攻していた。大学全入時代と云われる現代に不足のないよう親が計らってくれたわけだが、その学科でなければ許されない雰囲気があった。幼い頃から英語に縁があったからといって、抜きん出た成績を残してきたわけでも、高い英会話能力が身についていたわけでもない。その上、進学のためには奨学金という名の学生ローンを満額借りなくてはならなかったのと、何よりハルはとっくに英語には見切りをつけていたこともあって、本音のところではこの条件で四年間大学に行きたいとは思えなかった。だが確かに、進学できるものならしておいた方が、後に就職の幅が広がるかも知れないとその時は思った。そして単純に、他に興味の持てる分野が見つからなかった。 結局その大学も最低限の単位を取得するだけで卒業し、学んできたことを活かすまでには至らなかった。そういう職場に就くためにはもう何段階か、実力を上げる必要があったのだ。 今の会社は英語教材を扱ってはいるが、社員自身に英語能力は求めていない。英語を遣わない職場に就いた時、両親は非常に落胆した。父は電話口で完全にお前の努力不足だと見離した声で云い、母は何のために学費を払ってきたのか分からない、親に対する感謝が足らない、と彼女の意にそぐわなかったことを責め立てた。二年目に転勤で実家を離れていなければ、きっと実の母親を殴り倒していたとハルは思う。親を見返してやりたいと思うが、実際のところ、現実はそう巧くはいかない。上司には都合良く扱われる割に待遇はちっとも良くはならないし、同期とは話す暇もない。後輩には粗さがしをされる毎日だ。認められない仕事をしている自分を今もどこかで情けないと思っているし、好きにもなれない。 半年ほど前、ポストに溜まった郵便物の中から語学教室の開校案内のチラシを見つけた。 その時、惰性で繰り返す毎日をほんの少し変えたいと思った。そしてほんの少しでいいから自分に自信を持ちたいと思った。英語をブラッシュアップして、自分のレベルを上げてみたら、消耗するだけの日々から抜け出せるかも知れない。転職を考えてもいい。何せこれまで、稼いだ金を使う暇もないくらいに忙しかったのだから。胎が決まると、行動が早いのがハルの性格だった。 ホームページから語学教室に見学を申し込むと、電話がかかってきて是非無料の体験レッスンを受けて欲しいと云われた。レベルチェックを兼ねて二度受けられることになっていて、曜日や時間はいつでもいいと云う。強引な勧誘になら営業という商売柄、自分の方が負けることはないと勇んで出向いた。その際に、ハルを担当したのがアールだった。 一通りの身支度を終えた後、腕時計が見当たらないことにハルは気づいた。 普段は洗面所の脇か、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしているのだが、今朝はそのどちらにも見当たらない。 寝台の傍まで戻って床に落ちたままの服や自分の通勤鞄の中を探った。再度、寝台の下を覗き込んでもみる。だが見つからない。 部屋の掛時計は午前六時四十五分を指している。七時にはここを出なくてはならない。若干の余裕はあるものの、失くし物の在り処の見当がつかないことがハルを焦らせた。 キッチンカウンターの辺りに置いたかも知れない。 そう思い立ち上がりかけたところを、寝台から伸びてきた手がいとも簡単にハルを寝台へと引き戻した。生温い敷布(シーツ)の温度をシャツ越しの背中に感じる。

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