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第100話
「どう生きたいかと考えた時、あなたのことしか思い浮かばなかった」
ああ、この男は常に冷静さを纏っているふりをして、いつもこの心を情愛の火で灼 く。
「母のことはずっと嫌いでしたし、本当に欲しいものを与えられたこともありませんでした。でも、言葉ができたからこの国へ行こうと思えた。そこであなたに出会えて、自分の国へ戻っても、必ずまたここへ帰りたいと思っていました。母にたった一つだけ感謝するとしたら、この国との縁をもらったこと。戻ってからは、自分の身に起きたことで死にたくなるようなこともありましたけど、海を越えればあなたがいる。だから日々を生きられたんだと思います」
そう、
ハルは今勤めている会社や仕事の話やルイの家族のこと、その後でラヴィのことを話した。
ラヴィは相変わらず元気にしている。ビール工場で知り合った後輩と付き合い、別れ、二年前に旅行会社に転職した。兄のレックスはまだ観光客向けの陶器店で働き、以前の恋人を今も想っている。彼等の両親も祖母も元気だ。
そんな話をしながら、以前空港でラヴィからもらった紺藍の石をスーズに見せようとした。
石は割れていた。
ぱっと見た瞬間は分からなかったが、よく見ると角が欠けて形が変わっていた。
「どうしたんですか?」
「割れてる」
携帯電話につけていたので、どこかにぶつけて割れた可能性はある。でも、この数年間そういったことは多々あったはずだ。
その時、ラヴィが『これは再会の石だ』と云っていたのを思い出して、ハルは胸が震えた。深く息を吐き、思わず眼を瞑った。
「ラヴィとはお前に会いに行った時に知り合ったんだ。ルイもそうだけど、友達って大事だなって思ったよ。いつでも電話していい相手がいるってだけで・・・うん、寂しくない」
友愛。そういう言葉もあったのだと今更ながらに思う。
「友達というのはいいものですよね。家族と違って自分で選んで一緒にいるわけですから」
「お前のことも、そうだよ。単なる友達じゃないけど」
その言葉に応えるように、スーズは葉書をハルに返しながらはにかんだ表情を見せた。
「俺、もう母親とは連絡をとってないんだ。今の電話番号も教えてない」
「そうなんですか」
「でも役所に行かれたら住所はばれる。閲覧制限をかけることはできるけど、役所にも警察にも理由を話さないといけないんだ。今は世の中にも多少の理解はあるだろうけど・・・もし相応の理由じゃないって判断されたらすごく恥ずかしいと思って。『大したことじゃない』って云われたら・・・だから、行けてない」
スーズは黙って話を聞いていた。
「俺のこと、意気地がないって思う?それとも薄情だって?」
「いいえ、私は何があってもあなたの味方です。あなたがうまく生きられる方法があるなら、それがどんなものであってもいいと思う」
ハルはその言葉咬みしめてから、立ち上がった。デスクの抽斗 を開け、例の飾りを取り出した。スーズがずっと預かっていてくれと云っていた、彼の親友が作ってくれたピンバッジだ。
薄紙に包まれたそれにスーズは触れた。
「とっておいてくれたんですか」
「だって、お前のものだろ。少しはお互い大人になったと思うよ。だから約束した通り、返してもいいかなって」
照れ隠しもあって、ハルは電子煙草に火を点けながらもう一度坐り直した。
「ものすごく不思議な気分です。あれだけ不幸だと思っていたのに、今となってはそれが今日この日まで繋がっていたんですね」
ハルは煙を通してスーズを見つめた。あまり間を置かずにハルは切り出した。
「あのさ、一緒に暮らさない?」
あまりに唐突な提案にスーズは眼を瞠った。
ハルの方も、こんなことを云うつもりは今の今まで微塵もなかった。けれどこの温かい時間を手放したくないと思うあまりの性急な言動だった。
「もちろん、今すぐじゃなくていい・・・から」
スーズは突然のことに途惑いは見せていたものの、短い沈黙の後で彼は口唇 に笑みを浮かべた。
「嬉しいです。あなたからそんなことを云ってもらえるなんて」
ハルは、でも、と続くのが分かっていた。スーズはその通りに発言した。
「ここは見たところ、単身用のアパートメントですよね?」
「更新の時期がきたら、もっと広いところに引っ越せばいいよ」
「せっかくご友人の家から近いところに部屋を借りているのに」
「ルイは俺達のことなら全部知ってるし、応援してくれる」
スーズはまた少し微笑んだが真剣な表情は崩さなかった。
「初めに云っておきますが、私は特別収入が高いわけではありません。・・・それに、今度こそあなたは本当に逃げ場がなくなりますよ。私はきっとあなたを手放せなくなる。私は自分がどういう人間なのか分かっています。決して誇れる人生でも人格でもない。一緒に生活なんかしたら、きっとあなたに迷惑を」
「ストップ」
様子を窺うようなスーズの眼に対し、ハルは煙草を弄んでから小さく溜息を吐いて微笑んだ。
「ねえお兄さん、そろそろ俺をちゃんと幸せにしてよ。起きてもいないことの心配だったら聞く気はない。お前が俺を好きでいてくれるなら俺はずっと幸せなの。収入なんかどうでもいいよ。俺の方が歳上なんだし。いきなり眼の前からいなくなられることの方が余っ程俺を不幸にするんだけど」
スーズの内側にある不安が徐々に消えていくのが分かった。先程よりずっと晴れやかな顔でスーズは云った。
「あなたはいつも私に明るい力を分け与えてくれますね」
「お前が暗すぎるんだよ。人のことに関しては前向きなこと云うくせに。俺は欲しいものは絶対欲しいの」
それを聞いてスーズは急に親しみを込めた表情でテーブルを回り込んできた。つい先刻 まであんなに遠慮がちにハルを見ていたくせに、もう親愛と性愛を込めた目つきで、足に触れてくる。
「私もあなたが欲しいです」
この男も自分も、この先どうやって生きていくかはゆっくり考えていけばいい。
いや、考えなくとも大切な人間と生きているうちに、どういう風に生きていきたいかは自然に見えてくるはずだ。
お互いに出会うまでの過去の自分達があんなにも寂しかったのは、愛を知らなかったからではないだろうか。
この黒い瞳の中に、一筋の髪の中に、そしてこの肌の下にひた隠された同じ匂いのする孤独に魅せられてから、ずっとハルの胸の奥に熱が宿ったようだった。
どんな雨に濡れても、決して消えない薔薇色の炎を抱き続けることが誰かを愛しているということなのだと思う。
自分はその炎で、この恋人のかじかんだ手足を温めよう。凍えた心を溶かし、その熱で愛の陽炎を見せてあげよう。
時に思いもしない恐怖が覆い被さってきても、この炎でその暗いベールを焼き尽くしてみせる。
ハルとスーズは寝台の中で、一緒に生活を始めるための計画をそれは詳細に話し合った。
ずっと体を起こして話をしていたスーズは途中、寒くなったのか毛布の中に潜り込んできた。そしてハルの髪や肩に触れた。
「でも、また弟や妹のことで帰ることもあると思いますが」
「大丈夫だよ。俺一人でも家賃を払えるところに引っ越そう。そしたら、ちょっとぐらい長い期間、帰ることになっても平気だろ。・・・ああ、そうだ。明日、ルイが娘を連れてうちに来ることになってるんだよ。お前も、あいつと会ってくれる?」
「ええ、喜んで」
スーズがそう答えて頭を抱き寄せてきたので、ハルは安らいでその胸に身を預けた。
たちまち胸がいっぱいになった。
相手の心音と呼吸音に耳を傾けながら、狂おしいほどの幸福感に充たされて、眼を閉じる。
甘い微睡みに揺蕩いながら、ハルはこのまま死んでもいいと思った。
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