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第99話

その日、二人はハルの自宅近くのスーパーに立ち寄り、食材を購入した。スーズは狭いキッチンでポトフを作ってくれた。一人暮らしをするようになってからたまに作り置きなどをしているのだと彼は云った。 スーズが自宅で料理をしているというだけで、ハルは身震いするほど嬉しかったが、邪魔にならないよう、器を出したり調味料の在処(ありか)を教えるにとどめた。 二人はローテーブルを挟んでタイルカーペットの床に坐り、食事をした。ビールを吞みつつ、ハルはスーズの料理を褒め称えた。 「美味しい、最高、生きてて良かった」 「大袈裟です。ああ、でも誰かと食事をするのはやっぱり楽しいものですね」 そう云って笑顔を見せるスーズに、この数年間、お前もずっと一人だったのかとハルは訊きたかったが、もしそうでなかったらと思うと怖かった。スーズは見かけによらず、自分よりずっと脆いところがあるから、一度くらい間違いを犯してもおかしくはない。でもそんなことは知りたくなかった。 いきなり事件のことについて触れるのは躊躇われたため、ハルはまずスーズの大学卒業後の生活について訊ねた。 スーズは大学を卒業したものの、大学院へは進まなかったのだと答えた。臨床心理士になるための受験資格は基本的に大学院を修了しなければ得られない。スーズが勉強熱心だったことを知っているハルはひどく驚いて、どうしてそんな選択をしたのかと訊ねた。 妹を大学へ進学させるためだと彼は答えた。 「それが私にできる唯一の罪滅ぼしでしたから」 云うまでもなく、凄惨な事件現場を目撃してしまったスーズの妹は精神に深い傷を負った。 事件の唯一の目撃者だったために警察からの聴取は避けられず、日を追うごとに彼女はやつれていった。 事件後すぐに入院はしていたのだが、食事も摂らず、医師や看護師とも会話せず、入浴や着替えも拒み、ほぼ死んだように過ごしていたという。 既に女性と同棲中だったスーズの父親は、そんな娘を引き取ることを嫌がり、警察の聴取に応えるほかは一切関わろうとしなかった。 スーズは大学卒業までの一年間だけ祖母の家に妹を任せ、卒業後は働いて妹の面倒を見ていくつもりでいた。 スーズの母親の葬儀は、遺体が戻ってきてからごくささやかに行われた。参加したのはスーズの他に父親と祖母、従姉だけだった。 この従姉が救世主だった。 歳が近く、ライターの仕事をしていた彼女は、隣町に一人でアパートメントを借りていた。親戚中が外国人であるスーズの母親に対して冷たく無関心な中、昔からこの従姉だけはそんな大人達を冷ややかに見つめ、三人のきょうだいによく関わろうとしてくれた。ただ、歳上の彼女が大学卒業を控えたあたりから数年間、スーズは年始に挨拶状を送るにとどめ、忙しい従姉の身の上を慮っていた。 この従姉がスーズの妹の面倒を見ると買って出てくれたのだ。 葬儀の後、スーズの案内で病院を訪れた彼女は、安定剤を打たれて眠っている妹の寝顔を見つめ、父親が娘を引き取りたがっていないことを聞いて泣き出した。 自分達家族のために泣いてくれたのは彼女だけだった。その姿を見て、自分も一緒に泣けるかも知れないとスーズは思ったが、結局泣くことはできなかった。ただ、従姉に心を込めて礼を云った。 『ごめんなさい。あなた達を傷つけるようなことを書くところだった』 そう云われ、言葉の真意を訊ねると従姉は最初、雑誌社にこの事件のことを記事にして提供するつもりだったという。ただ、スーズと妹に会ったことでその気はなくなったと云った。 『この事件のことなら、本当のことを書けると思ったのよ。だってね、私はこの世の中の真実を知りたくてこの仕事を始めたのに、みんな私に云うの。真実なんてどうでもいいんだって。今の私はただ媒体の色に合わせて読み手が欲しがってる言葉を繋ぎ合わせてるだけ。どろどろしたものでも、甘い幻想でも、とにかく人の興味を充たせればいいんだって。そういうのにすごくうんざりしてた。でも真実を知ることができたからって何でも書いていいわけじゃないんだってよく分かったわ』 従姉は約束を守る人で、退院の日に妹を迎えに来た。妹はスーズには全く反応しないので、取り付く島もないと思われたが、意外にも従姉にはあっさりとついて行った。そしてその日から、従姉と一緒に暮らし始めた。 妹の様子については電話やメッセージ、そして時折会うことで密に連絡を取ることにし、スーズは大学での勉強と自身のカウンセリングに集中できるようになった。 家も土地も全て売り払うことにしたものの、殺人事件が起きた曰く因縁つきの片田舎の土地は、ほとんど買い叩かれるようにして業者の元へ渡ったという。 スーズの妹は児童精神科に通い、何種類もの向精神薬を服用し、更にその副作用を抑えるための薬も飲まなければならず、ちょっとした刺激で前後不覚になることが度々あった。 スーズは何度か、妹と直接話せないかと従姉に連絡をとってみたものの、しばらくの間はやめて欲しいと従姉の方から断られてしまった。 従姉は心理学とかカウンセリングとかそういったことに関しては素人だったが、鋭い洞察力と他人のちょっとした気持ちの変化を汲み取れる敏感さを持っていた。 最初こそ大変だったようだが、妹と従姉の間には数か月かけて徐々に絆ができあがっていったようで、同時に回復の兆しも見えてきた。 幸い、ホームスクーリングの制度が整っている国でもあったので、スーズの妹は中学校卒業に必要な単位を全てそこで終了し、通信制の高校へ進学することができた。 現在でも彼女は強い不安を感じることがあると、二、三日は引きこもってしまったり、夜眠れなくなることがあったりと、まだまだ問題は抱えている。だが長い間日常的に服用していた薬は必要なくなり、今も大学に進学したい、できれば経済学を勉強していきたいと考えているという。何より、一緒に暮らしている従姉は大らかで親切であったことが、妹を快方へ向かわせた大きな要因だったとスーズは話した。 「従姉から、妹が大学進学の希望を持ち続けていると聞いて、父に頼み込んだんです。亡くなった母の遺産は負債ばかりで、とても二人分の学費は捻出できませんでしたから。父が、私か妹、どちらか一人の学費なら負担する、と云うので」 「本当にそれで良かったのか?お前だって勉強、たくさんしてたんだろ」 どうしようもないことだと分かっていながら、ハルはそう訊ねた。 「大学院は行こうと思えば、後からでも行けますよ。それに夢は叶えられていないけれど、幸せにはなれた。あなたに会えたんですから。仕事なら他にもありますし、今はこれでいいと思ってるんです」 大学卒業後、スーズは実家からも大学からも離れた町で人材派遣の会社に就職しそこで二年近く働いていた。だがそこでもらえる給料と驚くほど安かったので、彼は深夜営業の飲食店で週に二、三回働く必要があった。 学生時代から毎月欠かさず弟との面会には申し込んでいた。だが会ってはもらえなかった。差し入れすら、本人が拒否しているという理由で受け取ってもらえなかった。何としてでも弟に会って話をしたいとスーズは思い続けていたが、ある時親しくしていた心理セラピストに、 『弟さんがあなたに会いたくないと思っているのなら、そうしてあげたらいかがですか?』 と云われた。 この言葉にスーズは驚いた。反感さえ覚えたという。 『弟さんはあなたを憎んでいるかも知れないし、もしかしたらまだあなたに会う心の準備ができていないだけかも知れない。ただ、どちらにしても今無理に会うことがお互いのためになるのかな?あなたが近づこうとすればするほど頑なになってしまうことも考えられる。しばらく距離を取るっていう方法もあるんだよ。弟さんが起こした問題は弟さんに考えさせましょう。だって彼の人生なんだもの。それよりも、あなたはあなたの人生を歩むべきですよ。家族のこととは切り離して、あなたがこの先どうやって生きていきたいか、何をしたいか、一度考えてみては?』

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