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第98話
「・・・スーズ」
ハルは混乱しつつもヘッドフォンをつけてマイクをオンにした。
「スーズ、スーズ、聞こえるか?」
その声が聞こえていたかどうかは分からない。だが彼は画面に映るハルに気づいていた。画面越しに眼が合った瞬間、ハルはもう息ができなかった。
驚きと躊躇いの間を挟んで、スーズもヘッドフォンを装着した。
「・・・お久しぶりです」
回線を通して聞こえるスーズの声は記憶の中の彼の声より低く感じられた。
「お前、どうしたの?何でここに・・・こっちに来てるのか?」
それだけ言葉にするのが精一杯だった。スーズの答えを訊く前にハルは危うく泣き出すところだった。訊きたいことは山ほどあるのに、あまりに気持ちが大きすぎて、それらが言葉になって外へ出ていく前に体の中で爆発してしまいそうだった。
そこへ担当の講師が姿を見せた。
もうレッスンなどどうでも良かったが、ここで回線を切るなど考えられない。
レッスンの合間も、スーズはじっとハルを見ていた。講師には悪いが、何かトラブルが起きて彼の回線だけ切れてくれないかとハルは願っていた。英語はぼろぼろだったし、集中力など微塵もなかった。
レッスンが終わり、回線が切られる直前、ハルはスーズに呼びかけた。
「スーズ、今から電話するから」
スーズは躊躇いがちに頷くと、ヘッドフォンを外し、ほんの少し耳のあたりの髪をかき上げた。この世で最も美しい仕草。
回線が切れた直後、ハルは携帯電話を手にした。
それは三月の初めのことだった。
電話でスーズから訊き出した話によると、彼は今、ハルの住所から電車で一時間のところに住んでいた。
最寄駅から自宅までは距離があると云うので、駅にあるチェーンのカフェで待ち合わせる約束をし、ハルは電話を切った。
ハルの住んでいるアパートメントも最寄駅まで徒歩十五分以上と決して近くはない。ハルは転居後、ルイと同じく自転車を購入し、雨の日はバスで駅まで向かっていた。この日は晴れていたので、本来ならば自転車に乗るべきところだ。
だが今日だけはそうしようと思えなかった。スーズとの電話を終えた直後、ハルはタクシーを呼んだ。
莫迦みたいな話ではあるが、駅までの道のりで死にたくなかった。
自転車に乗って行って途中、交通事故にでも遭ったりしたら、駅前の狭い歩道で何も考えずに横合いから爆走して来る他の自転車と衝突したら、万が一謝って飛び出して来た幼子を轢いてしまったら。
今日という日だけは死にたくない。
万に一つも問題を起こしたくはない。
何物にもスーズとの再会を邪魔されたくはない。
どうか電車が人身事故などで止まりませんように、と願いながら、ハルは目的地まで向かった。それは永遠とも思えるほど長い時間に感じられた。いつの間にか雨が降り始めていた。
スーズは先にカフェに来ていたが、店内ではなく入口のオーニングの下に立っていた。
冷たい春の雨に降られたのだろう。遠くから見てもスーズの髪は濡れていた。
その姿が見えるとハルは抱きしめたい衝動を堪えて、
「何で中に入らないんだ?」
と声をかけた。
眼が合うのと同時にスーズがほんの微かに息を吸い、視線を合わせたまま吐いた。
それがハルにはこの世で最も甘美な息遣いに感じられた。
その吐息と視線の揺らぎに、たちまち心臓が溶けていく。
たとえ忘れたくても忘れられない。
指一本触れずにハルをこんな気持ちにさせるのは、世界中探してもこの男以外にいない。
「卒業後、しばらく働いてから半年前ほど前にこちらへ来たんです」
窓際のテーブル席に坐り、互いに元気にしていたかどうか確かめ合った後、スーズはそう切り出した。
「半年前?何でもっと早く連絡してくれなかったんだよ」
「あなたを心配させたくなかったんです。ここに来た時の私は何も持っていなかった。本当に身一つで来て、仕事を得て生活していけるかどうかも分からなかった。そんな私に会えばあなたが気にするのは目に見えていましたから」
「当たり前だろ。何かできることがあったかも知れないのに」
「それはいけません」
「どうして?」
「私はあなたの生活の邪魔をするためにここへ来たわけじゃない。自分で決めて行動を起こした以上、ちゃんと自分の足で立って歩くべきでしょう?あなたが傍にいれば、私はあなたに頼りきりになってしまう」
ハルは口を噤んだ。云おうとした言葉を珈琲と共に嚥下した。確かにそうだ。間違っても自分達は互いの庇護者になってはいけない。けれどそれでもハルは釈然としなかった。あまりにこの男は潔癖すぎると思った。
「・・・誰にも頼らない癖がついてるのは立派だけど」
「もちろん、仕事が安定したら、あなたに連絡をとるつもりでした。今は貿易会社で英語を使った事務をやっているんです」
「お前、こっちに住むことにしたのか?」
「はい。そのつもりで来たんです。本当にあなたに電話をする気でいたんですよ。先週、半年間の試用期間が終わってやっと正社員になれたんです」
「そうなの?おめでとう。良かったな、本当に」
心底喜んでそう云いながらも、ハルはスーズが自分の国に残してきたであろう色々なことが気にかかった。あの事件の後、スーズ達家族はどうなったのか。彼の弟や妹は今どうしているのだろう。スーズは臨床心理士を目指していると云っていたのに、今は勉強をやめてしまったのだろうか。何よりスーズ自身はあの後きちんとカウンセリングを受けたのか。
訊きたいことがあまりにも多すぎる。
「仕事のこと、お祝いさせて欲しいんだけど。部屋に行ったらだめか?」
スーズは少し困惑した表情を見せた。
「いきなりすぎた?」
「・・・いえあの、もちろん、いずれはあなたを自宅にお招きするつもりではいたんですが、今はまだちょっと殺風景で、その・・・食事ができるテーブルがないんです・・・寝台 も」
「え?じゃあどうやって食事して、寝てるの?」
「一人なので・・・パソコン用のデスクで勉強も食事もしてしまいますし、床に折り畳み式のマットレスを敷いて寝ています」
スーズが本気で恐縮しているのでハルは笑ってしまった。
「だらしなくてすみません」
「いや、男なんてそんなもんだろ」
そして両手で珈琲カップを包み込み、少し考えた後で云った。
「そうだな。じゃあ、これからうちへ来ないか?明日は日曜だから、仕事は休みだろ?うちに泊まって行けばいいよ」
ハルはスーズと真っ直ぐに眼を合わせた。
「お前のこと、ずっと待ってた。あの日、ホテルで別れた時からずっと一人でいたんだ。誰とも付き合ってないし、もちろん誰とも寝てない」
「嘘でしょう?」
「まあ、証明できないけどな。でも本当だよ。お前と生きていくこと以外、考えられなかった」
スーズも食い入るようにハルを見つめていた。
自分だけを映す、この黒い瞳がハルはずっと欲しかった。見つめているだけで情愛の炎で体の芯が熱くなりそうだった。これほど烈 しく切実な恋情が自身の中に存在していたのだということに、ハルはこの時初めて気づいた。
ハルは微笑んだまま眼を伏せ、硝子の向こうに滴下する雨粒へ視線を向けた。
「お前は?何でこっちで暮らそうと思ったの?」
「私も、あなたと生きていこうと思ったから」
その言葉が優しい雨垂れのようにハルの胸に沁み込んだ。
「あなたに別の恋人がいても、傍にいるつもりでした。友人として、自立した大人として。この思いが報われなくてもいいと思っていた」
「俺も、お前から連絡がなくてもずっと待ってるつもりだったよ」
そう云ってテーブル越しに手を握ると、スーズは少し震え、照れたように笑った。久しぶりにこの男の笑顔を見た気がして、ハルは眼が眩むほどの悦びを覚えた。ここがカフェでなければ彼の口唇に触れることにも躊躇いはなかっただろう。でもそうはせず、つられて笑みを零した。同時にこの男の強情さも許してしまった。
何処にいても何をしていても、スーズはきっと自分を思ってくれているだろうとハルは信じていた。自分もこの男に変わらぬ恋をしていた。
自分は決して強い人間ではない。
けれどこの黒い瞳さえあれば、この体はきっと何にでもなれる。何処へだってゆける。何度でも立ち上がる。自分が知っている何百万語の言葉を、赤裸々な愛の告白へと繋げてみせる。
何もかもを犠牲にしても、この身のどこかを捥 がれても、諦めることなどできない。
この深く狂おしい感情を充たせるのはこの世でたった一人、眼の前にいる男以外に考えられない。
今やっと、傷ついた手と手を取り合い、互いの心臓の音に触れ、その瞼にキスを落とせる距離までやって来た。恋をし合う距離から、愛し合う距離までやって来た。
そうしてやっと孤独だった少年時代の自分に手を振ることができる。
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