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第97話

葉書には住所もメッセージもサインも、何も書かれていなかった。 しかるべきところへ届かないのなら、そのまま国境の境目に落ちて海の藻屑と消えても仕方ない。 そんな意思が感じられた。 ハルはアパートメントに遊びにやって来たルイにそれを見せた。 二人で鍋をつつきながら、一見すると誰からのものか分からない郵便物をルイは眺めてから呟いた。 「何で、自分の住所もメッセージも書かなかったんだろうな」 「うーん、留守録に吹き込んだ俺の新しい住所を『了解した』って意味だと思う。こうやって葉書が出せるってことは、元気でやってるってことだろうから。良かった」 「お前、まだこの子のことが好きなのか?」 「うん」 「莫迦げてるよ」 ぼそっとルイは云った。 「こんな葉書もらわない方が良かったな。この子もお前からの連絡なんか無視すべきなのに。中途半端な覚悟で別れを切り出したのかも知れない。だとしたらそういうの、俺はどうかと思う」 「俺は葉書をもらって嬉しかったけど」 「その子に、他の奴と幸せになれって云われたんだろ?俺もそうすべきだと思うよ。もちろん、急にってのは無理だろうから、今まで俺も口出しはしなかったけど」 ルイは葉書をハルに返し、鍋を口に運んだ。 「お前は海を越えてまで追いかけて行ったのに、一方的に追い返されたんだぞ。散々時間を費やして探し出したのに、その子は見送りすらしなかったんだろ?」 そう問い質すルイの態度には少し(けん)があった。単純に、良かったな、と云ってもらえると思っていたのに、こんなことを云われるとは意外だった。 「お前を傷つけたくせに、中途半端だよ」 「スーズは俺を嫌いになったわけじゃない。事情は話しただろ?あいつは、俺に迷惑をかけちゃいけないと思って」 「お前のことが本気で好きなら、関係を断ち切る必要なんかなかったのに」 「・・・」 「実家で起きた事件はその子の責任じゃないだろ」 ルイは箸を置き、ビールに口をつけた。 「話を聞いてると、いつもその子は起きてもいないことでお前から逃げてる。 好きだけどいずれ離れなきゃいけないのが怖い、遠距離恋愛なんか続かない、昔みたいに捨てられるのが怖い、その感情をようやっと乗り越えたと思ったら、次は犯罪者の家族だからだめだ、きょうだいを犠牲にした自分に幸せになる権利なんかない、って。そいつは一体いつお前と向き合ってくれるんだ?」 一瞬、ルイの顔が学生時代に戻ったようにハルには見えた。こういう顔で親友に話をされたのは初めてではなかった。 「俺だってその子の人生には同情はするよ。けど、まるで人から愛されるためには強くなって身ぎれいになって、それこそ完璧にならなきゃだめだって思い込んでるみたいじゃないか?好きだから別れるなんて、俺からしたらふざけてる。自分の好きな相手のことも信じられないなんて、怖がりすぎだ。それじゃ絶対幸せになれないし、お前を幸せにもできない。愛し合うことなんか永遠にできない。お前のことが好きならちゃんと付き合えばいいんだ。好きなら好きだってここに書けばいい。俺が迎えに行くまで待ってろって。電話に出る勇気すらないくせに、こんな意味深な葉書送ってきて」 「ルイ」 「俺だってお前に幸せになって欲しいんだよ。だからそいつがお前に無闇に期待を持たせようとする行動が許せない。お前が諦めきれないのは仕方ないとしても、別れを切り出した方は何があっても反応を示すべきじゃないと思う」 その日、この話は一旦ここで終わりになった。 ルイはそう云ったがハルにとってはスーズが元気でいてくれて、自分に反応してくれたということが嬉しかった。スーズとの接点を失わずに済んで心の底から安心した。別れを切り出されたことも恨んでなどいない。 ただ、ルイの言葉に反論することはハルにはできなかった。 ルイは決して弱い人間が嫌いなわけではない。 けれど、好意でも悪意でも、自分の正面にやって来たものには立ち向かう人間だ。 だから告白して来た女の誠意には応えるし、売られた喧嘩は買う。 女には優しいが別れると決めたら微塵も期待を残さない。 一度懐に入れた人間はとことん信用する。 そんなルイの眼から見れば、スーズの行動は逃げているだけに映るのかも知れない。 あれこれ理由をつけて、眼の前にある真摯な愛から逃げ出すなんて、ルイからすれば信じられないことなのだろう。 ルイは昔からいつも自分をちゃんと持っていて、きちんとした土台の上に立っていた。 ハルはこの男のこういう真っ直ぐなところに惹かれていた。 けれどこれはルイの生まれ持っての美質であり、強さだった。 自分やスーズのような人間には、それは容易いことではない。 高校時代、ハルはルイに『もっと友達を信用しろ』とよく云われた。 ハルは自分を他人を信用する力に欠けている人間だと思う。 理由は分かっている。自分の場合、家族という最も信頼すべき人間からの愛情は、何かを成し遂げなければ与えられなかった。家では日々、緊張を強いられてきた。 今日、愛されたとしても、明日になれば分からない。 常にそういう不安の中で子供時代を過ごしてきた。 だから誰かが無条件に愛情をもって両手を広げ、自分を待っているなんて、スーズや自分のような人間からすれば信じられないことなのだ。 人一倍孤独に弱く、愛されたいのに、いざ打算のない愛を目前にすると、自分はそれに相応しくないと立ち竦んでしまう気持ち。それはハルにも分かる。 けれど、ハルとは較べ物にならないほどスーズは怖がりだった。 完璧な存在になどなれるわけがないと分かっているくせに、そして完璧になれば愛されるということでもないのに、そうならなければいけないという意識が常にスーズには付き纏っていた。その強迫観念の強さはハルには太刀打ちできないほどだった。 ルイの優しさは十代のハルの心を救ってくれた。 家族はだめでも、この男は信用できると思えた。 けれど自分はスーズに対し、ルイがしてくれたようにはできなかった。 あのホテルでセックスをした日、ほとんど服を剝ぐように奪われて、互いの最も熱い部分を密着させて(こす)り合わせた時、気づいた。こんなことをしなければならないほどこの男は孤独に呑まれて息もできずにいたのだ。 そしてスーズのこの孤独を、何よりも愛しているとハルは思った。 自分はあの男の最も脆い部分を、最も愛している。 スーズの不完全さこそ、ハルの愛の中心だった。 ハルが思いつく限り、自分の愛はいつも、相手の不完全さに向けられていた。アールに対してもそうだったし、ユニを許したのも彼に弱さがあったからだった。 汚れたままでも、途中で放り出して逃げて来ても、何一つ片付いてなくても構わない。 お前がどんな状態でも、どんなお前でも、愛している。ずっと待っている。 俺はずっとお前に恋をしている。 そしてお前もまだこの俺に恋をしてくれているのなら嬉しい。 まだお前に想われていると期待するだけで、どれだけの力が湧いてくるか分からない。 お前と恋をし合っていると思えば、こんな砂漠のような世界であっても生きていける。 食事を終えて片づけをしている最中に、ルイはハルの隣にやって来た。 「先刻(さっき)はごめん、俺がどうこう云うことじゃなかったよな。お前はその子が好きなのに」 「いいよ、俺を心配して云ってくれてるんだよな」 「いや、悪かった。もうあれこれ云うのはやめる。だから何でも相談しろよ。一人で抱え込むな。俺に話してないこととか、ないよな?」 「・・・うん、ないよ」 「そうか、ならいい。あと、約束して欲しい」 「何?」 「頼むからどこかに行く時は必ず俺に報せてくれよ。お前、放っておくとその子をどこまでも追いかけて行って、極端な話、二度と帰って来ないような気がするんだよ」 ハルは一つ、嘘を吐いた。 穏やかに進んでいく日々の中でも、女の生理に伴う不調のように、ハルの精神的なひずみは夢に現れることがあった。 気がつくと朝で、ハルはスーズの腕の中で眼が醒める。 ここがどこなのか、これが夢なのか現実なのかさえ疑うことも忘れて、喜びに打ち震えながら、外から射し込む明るい光に眼を細め、隣で横たわる男の稜線をなぞる。 スーズの黒い瞳に捉えられ、やっと天に祈りが通じたと思う。 口唇が触れ合い、ハルは神を崇めつつも溢れ出る感情を自制しようとするのだが、結局泣きながら、(むせ)びながら眼の前のいとしい体にしがみつく。 現実ではたった二度しか叶わなかったスーズとの性交を、夢の中では狂ったように何度も繰り返し、数えきれないほど射精する。その切れ切れの中で、もうどこにも行かないで欲しいとスーズの耳元へ訴えかける。 それなのにふと意識が飛んで、次に瞼を開いた時、もうどこにもスーズはいない。 明るい寝台に一人取り残され、ハルは眩しいほどの光に晒されながら絶望の底へ突き落とされる。 そんな夢の話だけは、どうしてもルイには話せない。 更にそこから二年近く経ったある日のことだった。 ハルは最寄駅前にある花屋に来ていた。ルイの娘の誕生日に花を贈ろうと思い、事前に予約をしに来たのだ。娘はまだ保育園に通っていて花を喜ぶ年齢ではないが、以前ルイが妻は花が好きだと云っていたのを思い出したのだ。 現在、ルイの妻は二人目を妊娠中でじき安定期に入る。なるべく匂いのない、優しい色の花を店員に注文した。娘に宛てて送るが、きっと母親の気晴らしにもなることだろう。娘の方にはちゃんと本命のおもちゃを用意している。 身重の妻をなるべく休ませるため、休日、ルイは娘と二人でよく外出するようになった。それに近所に住むハルはよく同行していた。一緒に公園へ行ったり、買い物をしたりしているうちに心を許してもらえたらしく、今ではちょっとしたわがままを宥めたり、狭いアパートメントの洗面所で泥やアイスクリームの染み抜きをしてあげたりするようになっていた。 花屋で予約を済ませた後、ハルは本屋に寄って英語の本を何冊か立ち読みした。そのうちの一冊を購入し、駅界隈を出ると、自宅最寄りのスーパーでビールと惣菜を買って帰宅した。 ルイが娘を連れてハルのところを訪ねて来るのは決まって日曜日なので、土曜日の今日、英語の勉強しようと思っていた。 ここにきて、ハルは語学教室での勉強を本格的に再開していた。 ハルは転職の際に、語学教室を退会するつもりでいた。 レッスンそのものには満足していたし、英語についてはまだまだ研鑽を積まなければならないと思っていたが、一年分のコース料金を一括で支払わなければならないこの語学教室の料金システムは、転職して薄給となったハルには厳しいものがあった。休会は登録維持のためだけに月々の休会費用がかかりすぎる。 そのためハルは入会から一年後に退会の申請をした。 しかしその際、受付スタッフから説明されたのが、オンラインコースについてだった。 オンラインコースに切り替えれば、場所を選ばないというだけでなく、レッスンを受けた回数分だけ毎月料金を支払うという形になるので、今までの通いのコースより、月々がとてもリーズナブルになるという説明だった。教材費だけはどうしてもかかるが、万が一、まるまるひと月レッスンを受けられなければその月の支払いはゼロでいい。もしまだ英語を勉強したいと思っているのなら、莫迦正直に休会費を支払ったり、退会するより、オンラインコースに切り替えてしまう方が折角支払った入会金を無駄にしなくて済む、ということだった。 親切なスタッフの云う通りにしておいて良かったとハルは思っていた。 慣れてしまえばオンラインのレッスンは悪くなかったし、便利だった。 その日、ハルはいつものように回線を繋げた。 オンラインは講師一人に対し、三人の生徒を定員としている。 レッスン開始、五分前に入室したところ画面にはハル一人だけだった。講師の入室はいつもぎりぎりだ。ハルは郵送で届いた新たなテキストを確認しながら、飲み物を片手にレッスンの開始を待っていた。 その時、画面の隅が明るくなって一人入室してきた。 ハルは意識が硬直した。最初は見間違いだと思った。 息を詰めて画面を凝視し続け、次に自分を疑った。 あるあまる愛が、潜在意識に積もり積もった恋情が、遂に自分の眼を狂わせてしまったのかと思った。 そこに映っているのは紛れもないスーズだった。

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