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第96話
それからほどなくして、ハルはルイの勤める会社で働き始めた。
最初の半年間は試用期間でほぼ雑用だった。多少英語ができてもWeb広告についての専門的な知識はほとんどないので、若い社員と一緒に指示された簡易事務を行い、後は掃除をしたり珈琲を入れたりといったことを、そつのないように取り組んでいた。
厳しかったのはこの会社の特徴、というより、ポリシーともいうべきものだった。それは、試用期間であろうが課に籍を置いている者は全員定例会議に参加し、必ず一度は意見を述べなければいけないという、何の知識もない社員にとっては地獄とも云えるミッションだった。
議題が何であれ、「あなたはどう思うか?」ということを必ず問われ、そこで何も云えないということが続けば本採用はされないとルイからも警告されていた。若い社員達は驚くほどドライで、一緒に作業をしていた社員が翌日いなくなっても誰一人として動揺などせず自分の作業を進めていた。
幸いだったのはルイがいつも様子を見に来てくれたことだった。事前に云っていたほど彼は人前では厳しくなく、フランクに接してくれていた。
だが終業後は別だった。
ルイはほとんど毎日ハルを呼び出し、パソコンの使い方から、取引先の会社についての情報、先輩社員一人一人の業務内容や付き合い方までみっちりと仕込んできた。ある意味完全な依怙贔屓だ。
こんなことをしていいのかというハルの問いに、お前にはいずれ海外のクライアントとのやりとりに全面的に携わって欲しいのだとルイは云った。
「そんなのお前が決められることじゃないだろ」
「いずれそうなる。俺はこの会社でもっと上に行く。その自信はある。その時必要なのは有能で信頼できる仲間だ。だからお前には何が何でも残ってもらわなきゃ」
ルイほどの仕事に対する熱意や向上心はまだハルにはなかったが、これだけ親友に必要とされているということは日々のモチベーションになった。
ルイのおかげでハルは徐々に会議でも気後れせず発言できるようになり、半年後、無事に本採用が決まった。
その一年後にはハルは英語を活かして海外のクライアントとの連絡を請け合ったり、広告で使う英語のコピーを提案したりするようになっていた。
母とはスーズと学園祭に行ったあの日から、ずっと連絡をとっていない。あの年の年末はスーズとの関係が良くなかった時期でもあったし、年明けにアールがいなくなったことがショックではっきり云って忘れていたが、年末に母とは電話でひどい云い争いをしていた。
いつものように仕事用の携帯電話にかけてきて引き続き見合いの話を進めようとする母に対し、
『誰とも結婚する気はない。あなたの気に入る、大人しくて従順な女と結婚して、毎週のように子供の顔を見せに行って、あなたに生活のアドバイスとやらをもらい、あなたに従いながら今後三十年も生きるなんてそんな人生真っ平だ』
と、おおよそそんなことを云ったと思う。初めて年末も帰らなかった。
妹から、母親の面倒を見ずにどうするつもりなのかという電話も入っていたが、返事はしなかった。
退職後、社用携帯が繋がらなくなったことで、このまま断絶が続けばいずれ母がやって来るかも知れないという懸念はあった。
母に黙ったまま引っ越しをしようとハルは何度も思ったが、今住んでいる部屋でスーズと抱き合ったのだと思うと、ここを離れることがどうしてもできなかった。
長いこと、ハルは母のことについては考えないようにしていた。
誰かのことについて考えるということは、脳の中でその人物と二人きりになるということである。ハルはたとえ一秒でも母と二人きりにはなれないと思った。
ハルの思い浮かべる母は、絶えず喋っていて、その言葉は全て自分に対する否定に塗れている。こんな風にしか母親を思い出せない自分は薄情なのだろうと思う。けれどどれだけ昔に思いを馳せても、もう、母を好きだった頃のことが思い出せない。
ところがルイと同じ会社に入社して少し経った頃、思わぬ報せでこの部屋での生活の終わりが決定した。諸事情で大家がで土地と建物を手放すことになり、半年後までに部屋を解約して欲しいと迫られたのだ。
自分の意思とは関係なしに物事が決まってしまえば、これは仕方がないことだとハルはふっきることができた。
ハルは戻って来た敷金と僅かな立退料を手にフラットを引き払い、ルイの家から徒歩十分のところにある敷金礼金の不要のアパートメントを借りた。給料は下がっていたので以前より家賃の安い物件を選ばなければならなかったが、少し古いのと駅から離れた住宅街に位置している分、広さは以前とあまり変わらない物件が借りられた。
引っ越しが終わったその日、ハルはスーズに電話をかけた。
ハルはスーズにもらった電話番号が書かれた付箋をずっと大事に持っていた。
電話番号は携帯電話に既に登録してあったが、これを見ているとスーズがペンを走らせた時の光景が瞼に浮かぶ。
ハルは気分を落ち着けるために深く息を吐いて、画面を操作し、電話をかけた。
スーズは出なかった。留守番電話サービスに繋がり、何か云い残しておくべきか否かハルは僅かな時間で思案した。
「引っ越したから住所を教えたい。またかける」
結局それだけ云ってハルは電話を切った。
だが、 三、四日経ってもスーズからの折り返しの連絡はなかった。
「もう連絡は来ないかも」
話を聞いたルイはぼそりと云った。いつものように終業後、ハルに仕事の個人指導をしてくれていたのだが、身が入らないハルを見かねて呑みに行こうと誘ってくれたのだった。
「俺だってこんなこと云いたくないけどさ、人って変わるものだろ?」
「そうだな」
ハルは口唇 に笑みを浮かべて相槌を打ったが、ルイの視線は冷めていた。
「うるさい、って顔してるな」
「してないよ」
「俺を誰だと思ってる?作り笑いで誤魔化せる相手じゃないぞ」
そう云って灰皿をハルの方へ押して寄越した。ルイは妻が禁煙派のため、もう何年も前に煙草はやめている。
「お前、あの子が初めての男ってわけじゃなかったんだろ?どうしてそこまでこだわる?」
「自分でもよく分からないんだよ。理由をつけようと思えばいくらでもつけられるけどさ。でも、俺達のことだってそうだろ?どうやってここまで仲良くなったかなんて、はっきり云って憶えてない。他にいくらでも友達はいたはずなのに、何でかお前とはずっと続いてる。お前と友達でいられる理由が分からないのと同じで、あいつに何で惹かれるのか俺には分からない」
帰国した直後、全てを打ち明けた時のルイの言葉がハルは忘れられない。
待ち合わせたカフェで軽食を食べている最中、ハルは自分のセクシュアリティと、スーズが自分にとって本当はどんな相手であったかを初めて打ち明けた。
ルイの手にしているバーガーからエビがずり落ちるのを気にしながら。
真実を隠したまま、ルイに金を借りてスーズに会いに行ったことにハルは帰りの飛行機の中で後ろめたさを感じていた。目的を果たすまでそういったところに思いが及ばなかった自分を莫迦だったとハルは思った。
珈琲を飲み、どうして今になって話す気になったのかと問うルイに対し、ハルは、
『お前とはこれから毎日会うだろ?長い付き合いになると思う。昔みたいに何でも話せる仲に戻りたい。話せないことが増えていくのは嫌だから』
と、そう答えた。そして最後に、ずっと黙っていて悪かったと呟いた。
ルイはハルがいくらか想像していた通り、全く気にかけない様子で黙々とバーガーを食べ、至極冷静に、別に謝ることじゃない、と云った。
『お前がどんな秘密を持ってようが、それを打ち明けようが隠し通そうが、そんなのお前の自由だ。俺はお前が何をしてようが友達でいるつもりだよ。そういうことだったら全く心配しなくていいから。信頼し合ってるなら何もかも見せ合うべきって云う奴もいるけど、そういうのって俺からしたら単に自分の独占欲を満たしたいだけにしか思えない。まあでも、話してくれてありがとう。知ってたけどな』
この親友がいたおかげで、ハルは時折姿を見せる孤独の魔の手から自身を守ることができた。
自分は家族運は最低だったが、友達には恵まれている。
スーズも自分も、生んでくれた母親を捨てた。だから一緒に地獄に落ちたかった。そしてきっと二人一緒なら血の池の中でも、幸福を感じることができる。
そんなことを云ったらこの親友は何を思うだろうか。
引っ越しから一週間経ち、ハルは結局、もう一度自分からスーズに電話をかけ、留守録に自分の現住所を吹き込んだ。
「・・・手紙でももらえたら嬉しいんだけど」
最後にそう云って電話を切り、ハルは寝台に潜り込んだ。
そして寝台の中で携帯電話を握り締めながら、いつもつけている紺藍の石に触れた。石はラヴィからもらったものだ。
強くならなければいけないと思った。
一枚目の葉書がポストの中に舞い込んだのは、それからひと月後のことだった。
葉書には何も書かれていなかった。
ただ、宛先欄に記載されていた文字は間違いなくスーズのものだった。
観光地の売店にありそうな、きれいな景色の絵葉書だった。
安堵からくる脱力感と激しい胸の痛みに襲われて、ハルはその場へ屈み込んだ。
スーズは元気で生きている。
それだけで充分だった。
自分はもう、誰からのシグナルにも応えたりしない。自分が交信するのはスーズだけだと、この時心に誓った。
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