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第95話

飛行機の中でハルは恐ろしい夢を見た。 深夜だった。遠くからでも感じる熱気と異様な明るさにすぐに火事が起きているのだと分かった。燃えているのは一軒の家だ。 だが消防隊が到着している気配はなく、サイレンの音も聞こえない。火消しにかかる者の姿もない。周囲に野次馬はいるが、皆一様に燃え盛る建物を眺めているばかりだ。 ハルは何故かその家の中にスーズがいるような気がして、半狂乱になって駆けつけた。 どうして誰も助けに行かないのか、誰か水をかけてくれ、水は、水はどこにある。 そう叫んでいるのに全く声にならない。口の利けないハルを外国人達は無視し、蠅でも追い払うかのように扱う。煙の所為か、息が苦しかった。 その時、スーズによく似た黒い髪の制服姿の少女が自分の方を見つめていることに、ハルは気づいた。 「兄が父と一緒に母を殺して火を点けたの」 少女は至極冷静に答えた。彼女の体には血が通っていないみたいだった。この世のものとは思えなかった。 「お兄さんは?」 やっと絞り出した(かす)れた声が少女には届いた。 「もう逃げたわ。私も刺された」 彼女は制服のスカートの下、足の間から鮮血に塗れた包丁を抜き取った。よく見ると彼女の両足は影で黒く見えていたのではなく赤いもので染まっていたのである。 絶句しているハルに向かって少女は、 「でも、もう一人の兄が突然戻って来たの」 と呟いた。 スーズだ。きっとそうに違いない。ハルは少女が刃物を握り締めていること忘れて近づいた。 「彼はどこ?」 「火の中」 「なら早く助けに」 その瞬間、突然少女がハルに向かって包丁を振りかざした。予想もしていなかった行為に、ハルは咄嗟に身を退いたが、炎は想像していた以上に間近にあった。 いつの間にこんなに近づいてしまったのか。 背後を気にした直後、喉の横に鋭い衝撃を感じて再び前を見る。 少女に動脈を掻き切られた、と思った。夥しい鮮血に眩暈がする。周囲の誰も、この状況が見えていないようだった。絶えず降り注ぐ火の粉の中、命からがら逃げ出そうとしたものの、手足にうまく力が入らず、ほとんどその場からは離れられない。 そうこうしていると、今度は炎の中から出て来た何者かに後ろから抱きつかれた。そしてあっという間に、血の海から火の海へと引きずり込まれた。炎を纏った死神だ。熱くて恐ろしくて声が出ない。息もできない。その生き物はハルの背中に容赦なく張りつき、自由を奪い、ハルの喉から血を啜った。獲物が死ぬ前の、最期の生き血を貪ろうとしているのだ。 ああ、死神にも舌があるのか、とハルは半ば諦めた心持で思った。炎を纏っている割に、その舌の温度は(ぬる)い。啜っても啜っても、まだ(かつ)えているという風にその舌は首や耳のまわりをうねるように這った。死神の髪が項に触れる。その息遣いで感じる。死神は涙を流している。その涙が頬に触れ、ハルはたまらない恍惚感を覚えた。死神の顔はスーズに似ていたのだ。 高いところで足を踏み外したような感覚で意識が戻った。機内には気流の乱れを報せるアナウンスが流れ、天井近くでベルト着用サインが点滅していた。

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