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第94話
食事の後、ハルは食器を洗うと申し出たが、勝手が違うだろうからとラヴィの母親に止められた。仕方なく、ラヴィを別室に呼んでこっそり宿泊費だと云って金を渡そうとすると、真剣な顔をして、こういうことはしないで、と叱られた。
明日帰る前に、何か少しでもお返しをしたいとハルが云うと、
「じゃあ、おばあちゃんの肩を揉んでやってよ」
と意外な返礼を求められた。
ずっとハルに優しげな表情を向けてくるラヴィの祖母だったが、流石に体に触るのは失礼なのではないかとハルは途惑った。だが、孫から話を聞いたラヴィの祖母はにこにこして、じゃあお願いしようかね、と云った。
ラヴィの祖母は英語があまり上手ではない上、決してお喋りではなかったがその分、表情は豊かな女性だった。足が悪く、壁に取り付けられた手すりや家具に掴まらなければ家の中の移動はできなかったし、外出の際は杖が欠かせないようだ。それでも着こなしや髪のまとめ方はきちんとしている。どこか哀愁を湛えた背中を持つ、自分の三倍近く生きている眼の前の女性の後ろ姿をハルは敬意をもって見つめ、力加減に注意しながら肩を指圧し始めた。
「あなたは丁寧な人ねえ。最初に会った時から、私はあなたのことが気に入っていたのよ」
「そう云ってもらえて嬉しいです」
「明日には帰ってしまうのよね。寂しくなるわ」
更に彼女は何か云おうとしたが英語が出て来ないのか、云い淀む気配が伝わってきた。
シャワーを浴びに行く準備をしていたレックスがラヴィをつついて、ハル達の翻訳に入るよう身振りで指示をしていた。どちらかと云えば、ラヴィよりレックスの方が状況を察する能力に長けていた。
「あなたが女の子だったらお嫁さんに来て欲しいぐらいなんだけどねえ、だって」
ラヴィが英訳した言葉を聞き、ハルは引きつった笑いを浮かべることしかできなかった。
そこへラヴィの母親がやって来た。
「そうねえ、ハルはおばあちゃんが席を立ったりすると、いつも気にしてくれてるものね。控えめだけど、ちゃんと私達家族と仲良くなろうとしてくれるし」
「でも俺は料理が下手なので、きっと皆さんに叱られたと思いますよ」
孫が訳したハルの言葉を聞くと、おばあちゃんは何を云っているの、という風に何か漏らした。
「何ができるかは重要じゃないのよ。料理が上手じゃないからって私はあなたをできの悪い子だとは思わない」
「いえ、本当に俺が役に立てることなんて」
「何ができるかより、どんな人かってことの方が重要よ。特に、親しい間柄ではね」
祖母の言葉にラヴィは笑って、僕もそう思う、と云った。
「そうそう、あなたは努力家で礼儀正しくて充分素敵な子よ。自信を持って」
とラヴィの母親も同意した。
ハルは突然泣きたくなった。
どうしてこういうことを云ってくれるのが、実の親ではなくて異国に住む他人の家族なのだろう。
この人達に見せているのは自分の全てではない。彼等は明日旅立つ自分を励ますために温かい言葉をかけてくれているのだ、とハルは必死で理性的になろうとした。
それから少しして、帰宅したラヴィの父親がハルのためにお土産の酒を買って帰って来た。明日は空港まで車を運転してくれるという。
「本当に嫁に来たらいいのに」
レックスは窓辺でぼんやりとそう云った。
「俺に性転換手術を受けろって?」
ハルは荷造りをしながら訊ねた。彼の父親がくれた酒をスーツケースに押し込むのに苦労していたところだ。ラヴィはハルと入れ替わりでシャワーを浴びに行っていた。
「母さん達は俺やラヴィの友達をいつも歓迎してもてなしてくれるよ。でも、本当に気に入ってるって分かるのはほんの一人か、二人だけ」
「そうなの?」
「あなたのことは本当に気に入ってる。父さんですらね」
「ありがたいね」
ハルはやっとのことでスーツケースを閉じて、レックスの隣に坐り、煙草をもらって火を点けた。
「弟が寝なかった友達も二人だけだよ。そのうちの一人はあなただ」
「よく知ってるね」
「普通より兄弟仲はいいからね。子供の頃は運命共同体みたいなものだったから」
レックスはじっとハルを見つめていた。
「じゃあ俺は君の弟の良い友達でいなきゃ。永遠にね」
「ああ、きっとそれがいいよね。恋愛に較べて友情の息は長いから」
「そういえばレックス、君の失恋話をまだ聞いてなかったな」
レックスはくすりと笑った。
「一年付き合った彼女と一週間前に別れたんだよ。愛し合ってた。でもね、彼女の家族が『移民の二世なんかと付き合うのはやめろ』ってさ」
「親からの反対?」
「いや、息子からの。彼女はバツイチで三十八歳なんだ。息子は中学生。彼は悪い子じゃないんだ。母親に苦労して欲しくないから反対してるんだよ。母親はモテるのに、わざわざ俺みたいなのと再婚なんかして欲しくないんだってさ」
てっきりレックスの元恋人は同い年ぐらいの女の子かと思っていただけに、この打ち明け話にハルは驚きを隠せなかった。
「・・・君がすごく若いから気に入らないんじゃない?」
「それもあるかなあ。でもとにかく彼は俺のしてること全部が気に入らないわけだから。『横柄な観光客相手にへらへらする仕事なんかしてかっこ悪い』って云われたし」
「傷つくね」
「傷ついたよ。でも彼なりにママを守ろうと必死なんだよ。父親がひどい男だったらしいからさ。思春期の複雑さも相俟って、ちょっと痛々しさを感じる子なんだよね」
レックスにもらった煙草はかなり重めの煙草だった。メンソールも入っていない。煙を吐き出した後でハルは云った。
「僕は子供が好きだけど、子供がいる相手を好きになったことはないんだ」
「じゃあ、これに関しては俺の方が先輩だ。憶えておいた方がいいよ。どんなに愛し合っていても、絶対子供には勝てない。自分は二番だって思わないと」
「それで別れたの?」
「仕方ないよ。彼女を困らせたくないもの。親には逆らえても、子供の意見は無視できないものなんだよ」
「そうか。それは・・・君も彼女も苦しかっただろうね」
「まあね。でも大丈夫。息子が成人したら、また俺から連絡して交際を申し込むつもりだよ」
「えっ、だって彼女とは別れたんでしょ?」
「うん。もし彼女が今後、息子も認めるような良 い相手と再婚することになったら仕方ないけどね。俺は彼女に幸せになって欲しいからさ」
「けどそういうつもりなら別れたりしないで、こっそり付き合い続けてればいいんじゃないの?」
「息子が交際に反対してる以上、会い続けても彼女に罪悪感が増すだけだろ。会ったらきっとセックスしたくなっちゃうし。それに『待ってる』なんて云ったら、彼女を縛ることになる。だから友好的に別れたよ。『僕は君をずっと愛してる。本当に何かあった時は連絡してくれ』って。別れた直後は流石に落ち込んだけどね。もし彼女が他の誰かを好きになったら、潔く諦めるつもりだよ」
「・・・まあ、君だってまだ若いんだし。恋愛なら他の子でも」
「僕には彼女だけだよ。もう決めてるんだ」
「だって息子が今、中学生ってことは、あと何年?」
「十八で成人だから、あと五年かな」
「五年?たとえその子が十八になったとしても、君を認める保証なんかどこにもないのに」
「成人したら、彼は俺と対等だろ?遠慮せず意見を云わせてもらうさ。ママにも自分の人生を歩ませてやれって。彼女がまだ俺を好きでいてくれれば、の話だけど」
「・・・本当に待つ気なの?」
「だってそれだけの価値がある女性だもの」
レックスは窓の外へ向かて煙を吐き出し、煙草を灰皿の上で揉み消した。
ああ、本当に彼は今も恋をしているのだ、とその眼を見て思った。
きっと、いや間違いなく、その女性もまだレックスに恋をしているに違いない。
自分もそんな風にスーズを待てるだろうか。
眼の前の若者が見据えているのは五年だが、自分は十年待たなくてはいけないかも知れない。
スーズは自身をケアし、妹との関係を修復し、大学もきちんと卒業しなくてはならない。彼の弟が罪を償い、社会復帰を果たすまでどのくらいかかるだろうか。そういったことを全て済ませたら、スーズは自分に電話をかけてきてくれるだろうか。
自分と再会するまでの間は、スーズに誰も愛さないで欲しい、誰ともセックスしないで欲しい。そういう絶望的な願いがハルの胸の中で熾火のように熱を放って揺らいでいる。
自分は優しくしてくれる手近な人間に縋りつこうとしたくせに、身勝手な話だ。
あの男は分かっていたに違いない。自分がこういう弱さを抱えた人間だと知っていたからこそ、あの時、別れの言葉を自分に与えてくれたのだ。罪悪感を抱かないように。自由でいられるように。
「君が報われるよう、俺は祈ってる」
ハルはレックスに云った。
「ありがとう。あなたの失恋話は?」
「ラヴィが戻って来たら、聞かせてあげる」
その日は何時に眠ったのか憶えていない。二人の兄弟はジンコークを片手にハルの話を真剣に聞いてくれた。一度か二度、彼等の携帯電話が鳴ったが二人とも手に取ろうとしなかった。彼等は黙って耳を傾け、話の重みを体で感じているかのように動かなかった。
スーズの身に起きたことは、どう考えても彼等のような家庭環境で育った人間には縁遠いことだった。ラヴィとレックスの常識では、敵というのは外にいるものであって、何があっても家の中だけは安全で、最も信用できる味方は家族なのだった。家族が家族を破滅させる物語など、ほとんど現実味がなかったに違いない。
スーズと心通わせ合うようになった経緯を語る時、ハルは自分の生育環境についても触れなくてはならなかった。似た環境で育ったということが二人の心を近づけた大きな要素だったからだ。
『どんな親でも、親は親だから』という言葉がラヴィの口から零れるかも知れない。ハルはそんなこともいくらか予想していた。ラヴィが自分の母親を好きなのは見ていて分かったからだ。
「・・・じゃあハルは、自分の母親にもう会わないのか?」
レックスの質問に、ハルは肩をすくめた。
「今は考えられないかな」
ラヴィはハルの話が終わったと分かると、矢庭に無言で寝台の上にいたハルを抱き締めた。トルコ石鹸の粘土のような優しい香りがハルの鼻先に届いた。言葉にできない色々なことがそのハグには込められていた。レックスは酒を口に運んだ後で云った。
「なあ、そのスーズって子の母親もハルのお母さんもそうだけどさ、どうしてそんな先のことばっかり心配してたんだろうな。不思議だよ。あなた達はまだほんの子供だったっていうのに。そりゃ親だからさ、まともな大人になって欲しい、幸せになって欲しいって気持ちはあって当然だけど。でもスーズはとても優秀な高校を出て、大学生になったわけだし、ハルだってちゃんと学校を卒業して仕事をしてる。それなのにどうしてそのことを認めようとしないんだ?」
「そうだね。それにたとえ、子供が優秀に育っても母親が幸せになるかどうかは別問題なのにね」
「ああ。何だか、世の中とか別の人間に向けなきゃいけない不満を、子供への不満に置き換えてるみたいだよな」
「子供が自分の救世主か何かだと思ってるのかな?莫迦莫迦しすぎるよ」
「不毛だよな。結局自分を幸せにできるのは自分だけなのに」
翌日は寒かった。昼の十一時を過ぎても気温は五度ぐらいしかなく、ラヴィに起こされてのそのそと起き上がったものの、寝台から出るのがつらかった。
ハルは家の玄関でラヴィの母と祖母に、笑顔で別れを告げて、車に乗り込んだ。
空港へは一時間ほどで着いた。空港の入口はバスやタクシーで混雑していた。ラヴィの父親は、適当なところまで車を流して停めているから、と息子達とハルを降ろし、
「元気で頑張るんだよ」
とハルに向かって最後に云った。
ラヴィはどこで買ったのか、可愛いパッケージのメープルクッキーと観光地の売店で売っていそうな紺藍の石がついたブレスレットをお土産に用意してくれていた。
「これ、再会の石っていうんだってさ。ハルが、またそのスーズって子と会えるように」
「ありがとう。本当に色々」
ハルはラヴィに感謝の気持ちを込めて抱きついた。その後でレックスともハグをした。
メッセージアプリのIDと電話を教え合い、「また会おう」と十回以上云って、ハルはラヴィ達と空港で別れた。
最後、なかなかラヴィとレックスに背を向けることができず、そのうちに不覚にもハルの眼から涙が零れてしまった。ラヴィは何とか笑顔を見せようと頑張っていた。兄弟は同じ色の瞳に涙を溜め、いつまでもハルに手を振っていた。
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