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第93話

週末は楽しかった。 土曜の朝、ハルはラヴィの運転する車で午前十時過ぎにホテルを出た。ラヴィの住むアパートメントに到着した時には、ちょうどテーブルに昼食が並べられているタイミングだった。 まるで食事時を狙ってやって来たようでハルは気が引けたが、ただいま、と帰宅を告げるラヴィに続いて、おずおずと挨拶をした。ラヴィの母親は息子そっくりの笑顔で迎えてくれた。 「いらっしゃい。あなたがハルね」 すぐにラヴィの母親は息子に向かって彼等の言葉で何か云っていた。 「あんたはどこからいつもこういう可愛い子を連れて来るの?だって」 母親の言葉を英訳したラヴィは嬉しそうだった。ハルは何と云っていいか分からず、照れて俯いていると、先に荷物とコートをしまって来なさいと云われた。 「じゃあ俺と兄貴の部屋に行こうか」 ハルは母親と、部屋の奥の肘掛け椅子にゆったりと坐っているラヴィの祖母に軽くお辞儀をして、一旦その場を離れた。 奥の部屋に向かう途中で、今度はラヴィの兄に出会った。彼等は二、三言交わした後で、二人同時にハルの方へ眼を向けた。 「兄のレックスだよ」 「こんにちは」 「こんにちは、ハル。会えて嬉しいよ。今日は調子はどう?元気?」 「え?ああ、はい。元気・・・です」 「良かった。失恋は人生にはつきものだからね。あまり落ち込みすぎないで。お互い頑張ろうね」 そして絶句しているハルに去り際、 「くつろいで行って」 と告げてキッチンへ去って行った。ハルはまじまじとラヴィを見つめた。 「・・・失恋て、え?何で彼、知ってるの?」 「兄貴も先週彼女にふられたばっかりなんだよ。それで、『今日泊まりに来る友達も失恋したばかりで落ち込んでる』って云ったら、それじゃあ仲間ができるなって話しててさ」 ハルはしばし呆気にとられていたが、ラヴィに悪気は全くないようなので、彼を責める気にはならなかった。内心、失恋とかふられたとかそういったレベルの話ではないのだと思っていたが、それはこの若い子には想像もつかないことだろうし、ハルの方も彼に全てを打ち明けるわけにはいかない。仕方がないことだと思い直した。 スーツケースとコートを兄弟の部屋に置かせてもらうと、ダイニングに戻ってビニールのクロスがかかった狭いテーブルで食事をした。 ラヴィの家はお世辞にも広くきれいとは云いがたかったが、今のハルは磨き上げられた無機質なホテルの部屋にいるより、生活臭と微かな湿気がこもるこの空間でどこの国のものとも知れない民族音楽に耳を傾けている方が、正気を保てる気がした。 レモンの入ったコーラに魚の唐揚げ、そしてナシゴレンのような料理はとても美味しかった。他人といると否が応にも気持ちを上向きにしなくてはならないが、一番効果的なのは美味しいものを食べることだとハルは思う。 「母国(くに)にいた時は屋台を出してた時期もあるのよ。こっちに来てから小さな食堂を開いたけど、もうやめてしまったの」 「きっと人気のお店だったんでしょうね。これ、すごく美味しいです」 食事が終わるとハルはラヴィと知り合った経緯を簡単に彼の母親と祖母に話した。 「息子さんはとても親切ですね」 「そう、うちの子は二人ともとっても優しいのよ。だから友達も多いし、女の子からも人気があるの。あとね、この子の作るシシグは絶品よ」 ハルは屈託がなくあけっぴろげなラヴィの母親と、口数は少ないが穏やかな祖母に気に入られ、親戚の子のように世話をやいてもらえた。 午後はラヴィのバイクで観光地を見て回り、ジェラートを食べて、ぶらぶらと移動遊園地を眺めて歩いた。 「美味しいのは分かってるけど、普段はああいうジェラートの店は行かないんだよね。値段が高いから」 「付き合わせてごめん、どうしても食べてみたくてさ」 「いいんだ、久しぶりに食べた。やっぱり美味しい。ちょっと寒いけどね」 ラヴィは笑って大袈裟に身を震わせてみせた。 色のきれいなジェラートに惹かれてか、道の端に蹲っていた男の子がじっとハル達を見つめながら近づいて来た。ラヴィはすぐに気づき、男の子に向かってわざと顔をしかめ、追い払う仕草をした。 「そんなことしたら可哀相だよ」 「観光客だと思われてるんだよ。バイクを停めたところに戻ろう」 ラヴィの優しさを知っているだけに、その行為はハルにとってショックだった。どんな理由があろうとも小さな子供を邪険に扱うという考えはハルにはなかった。 「子供が路上で暮らすなんてこと、あなたの国ではないんだろうね」 ラヴィは訊くというより、いくらかの確信を持ってそう訊ねてきた。ハルは鞄の中にあったチョコレートの箱に手を伸ばしていた。先程の男の子が戻って来ればあげるつもりでいた。後ろを振り返ってみたが、もう男の子は近づいては来なかった。 「ああいう子供をこの国は助けないの?」 「そうだね、たまに有志の団体から食事とか防寒具の配給はあるみたいだけど」 ラヴィはジェラートを食べきって、カップスリーブをくしゃっと丸めた。 「先刻(さっき)みたいな子は大体、他の市で受け入れた移民家族が勝手に移動して来ちゃってそのまま路上生活、っていうケースが多いんだよね。 こういう観光地に近い町は、物乞いだけで割と稼げるから。移民の管理がずさんなんだよ。ホームレスの支援施設はあるけど、家族用の施設は数が足りないから問題になってる。特に移民とか外国人に対しては結構厳しい。この国は条件が揃ってても在留許可が下りるのに時間がかかるんだよ。友達の職場でも、正式に雇われた外国人スタッフの在留許可が下りるのに予想以上の時間がかかっちゃって、部屋が借りれず一家で職場の工場で寝泊まりしてたなんて人もいるらしいよ」 「子供は栄養も摂らなきゃいけないし、学校にも行かないといけないのに」 「それは俺もそう思うよ。僕達家族はかなり運がいい方だった。父さんの会社の仲間がいい人達だったから、困った時はいつも助けてもらえたんだ。父さんの同僚の息子が僕達の英語の家庭教師になってくれたり、在留のことで何かあれば必ず移民局に付き添って行ってもらえたりした」 「でもみんながそうじゃない」 「ああ、人生ってやつは不公平だよ」 その瞬間だけラヴィの瞳が静謐な色を湛えた。 「僕だって彼等を救えたらって思うよ。誰かに助けてもらった経験があるからこそね。でも今日、バゲットを一本彼等に買い与えたところで何の解決にもならない。それに何かをあげたとしても追い払ったとしても、彼等はすぐにそんなことは忘れてしまうよ。あなたと違って、この国に住んでいる僕としては彼等のためにそこまで自己犠牲を払うつもりはない。きりがないもの。そういうことができる人間だったらボランティア活動でもしてる」 バイクの停止場へ着くと、ラヴィはヘルメットをハルに渡した。 「ボランティア活動は自己犠牲なの?」 「僕にとってはね。だって僕は決して裕福な人間じゃないから。そんな時間があったら給料をもらって働くよ。ああいうのは富裕層がやるべきことだよ。あるいはものすごく信心深くて、崇高な精神を持ってる人間か。そのどちらでもないなら、自分を必要とされたがってる寂しい奴がやるんじゃないかな」 ハルは反論したい気持ちもあったが、うまく英語にならなかった。そして自分はこの問題の当事者でもなければ、知識もないのだということを痛いほど思い知らされた。 夜はラヴィの兄のレックスが作ったグリーンチキンカレーをご馳走してもらった。彼の得意料理だという。 お世辞なしにこれはお金をとれるぐらい美味しいと云うと、レックスは喜んでおかわりを注いでくれた。 彼は二十五歳で、ラヴィより英語が巧かった。この二人の兄弟はあまり似ておらず、ラヴィは母親に似ていたが、レックスは父親に似ていた。 「あんまりあいつを褒めすぎないで、調子に乗るから」 隣に坐っていたラヴィはハルを肘で(つつ)き、そう囁いた。 「えーいいじゃん。だって本当に美味しいんだもの」 「いいや、明日はもっと美味しいものを食べさせてあげる」 夕食後、ジェンガやバックギャモンをして遊んでいると夜八時前にラヴィの父親が帰って来た。既にどこかで酒を引っかけて来たらしく、少し酔っ払っていた。彼は酒豪で、ハルに酒をこれでもかというほど勧めてきた。 「遠慮しないでたくさん吞んで。失恋なんて長い人生にはつきものだよ、そういう時のつらい気持ちはよく分かるけどね。さあ、呑んで忘れよう」 どうやらこの家の家族全員が自分の失恋のことを知っているようだ。居たたまれないとはこのことだった。 ラヴィの父親が棚から出して来る酒のラベルは見たことがないものばかりで、ハルにはどれもアルコール度数が高すぎた。そのためラヴィにライムジュースやコーラを混ぜてもらい、ちびちび吞んでいた。 「親父は人見知りが激しくてさ、酒に頼らないと初対面の相手とはうまく話せないんだよ。許してやって」 だが途中でハルは酔い潰れてしまったらしく、次に眼を醒ました時にはラヴィとレックスによって、寝台に放り込まれたところだった。兄弟の内緒話をするような声が細々と聞こえてきたが、ハルの耳の中で、それは徐々にスーズの声に変わっていった。 翌朝、ハルが眼を醒ますと既にラヴィの父とレックスは出勤した後だった。二人とも観光客に携わる仕事をしているので日曜でも仕事があるのだという。その代わり、休日の給料はとてもいいらしい。祖母は朝が早いとのことで、とっくに食事を済ませて朝の散歩に出ていた。 「今日の夕飯は僕がシシグを作ってあげるからね」 ラヴィがそう云ってくれたので、二人は前の日と同じく町を見て回った後で、材料を買うために歩いてスーパーへ向かった。 その帰り道、キオスクに並べられている新聞や雑誌を眼にしたハルは、ふと足を止めた。 「ちょっと見て行ってもいい?」 「うん、新聞?英字新聞なら端っこの方だよ」 「うん・・・あのさ、最近のニュースで、高校生が母親を刺殺したって事件知ってる?」 ハルは新聞を手に取りながら、ラヴィに訊ねた。 「えぇ?いや、知らないね」 「先月の終わりぐらいのニュースなんだけど」 「僕は見てないかなあ。うちは新聞を買ってないし。どうしたの?」 「いや、いいんだ」 家に帰り、ラヴィのギターの演奏を少し聴かせてもらった後で、夕飯の準備に取りかかった。ハルはラヴィに手伝いを申し出た。寝泊まりさせてもらっているのだから、そのくらいはしなければならない。 だが、ハルは普段料理など滅多にしないため、玉ねぎとパプリカのみじん切りに恐ろしく時間がかかり、結局見かねたラヴィが野菜は自分が切ると申し出てくれた。手持無沙汰になったハルは付け合わせに用意されたレモンを見つけた。千切りやみじん切りは苦手だが、くし切りにするぐらいはできる。ハルはラヴィの後ろのテーブルにもう一枚まな板を用意してレモンを切ろうとした。半分に切り、更にまた半分にしようとした次の瞬間、汁が飛んで眼球を直撃した。 一人、無言で泣いていると、洗濯物を畳み終えてやって来たラヴィの母親にうっかり涙で濡れた顔を見られてしまった。 「ハル?何で泣いてるの?ラヴィっ、あんた何かしたの?」 「えっ?」 その後もにんにくやしょうがをすりおろそうとして、自分の指まですりおろしかけるし、卵を割れば殻が入るしで、手伝うどころか余計な手間と心配をかけるだけだった。 聞いていた通り、ラヴィの作ったシシグは本当に美味しかった。 「涙が出るほど美味(うま)いね。週に一度は食べたいぐらいだよ」 「良かった、レシピをあげようか?」 「いや、多分作れないし・・・」 「そう?じゃあまたうちに来た時は作ってあげるからね」 無邪気に笑顔でそう云われると困る。果たしてここで、また来る、などと軽々しく約束を交わしていいものなのか。ここはラヴィの国でもあるが、スーズの国でもある。 ハルはさりげなく食卓を囲んでいる全員を見回してから、隣にいるラヴィをちらっと見た。 こういう子を好きになっておけば胸が苦しくなるような思いはしなくて済むのだろう。温かい家族に恵まれ、それ故にちょっと鈍いところがあるけれど、その分親しい人間に対してはすごくすごく優しい。そして憎めない。愛すべき歳下の外国人の恋人。スーズのような、一人不幸を抱き締めて暗い海の底に沈もうとするような男をどうして自分は選んでしまったのだろう。 楽だから、とか、傍にいてくれるから、とかではない。愛さざるを得ない。たとえ離れたとしても、嫌いだと云われても、一方的であっても、恋をせざるを得ない。そんな相手が自分にとってはどうしてか、どこか寂しい眼をしたあの男だったのだ。 

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