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第92話

ラヴィがハルの部屋を訪ねて来たのは翌日の夕方だった。 ハルはほとんど一日中寝台(ベッド)にいて、まだシャワーも浴びていなかった。 「レストランを予約したんだ。イタリアンは好き?食欲ある?」 本当は食事になど出たくなかったが、せっかくのラヴィの親切を無下に断るわけにはいかない。今日は朝、食堂で珈琲とクロワッサンを一つ食べたきりだった。食欲からではなく、何か食べておかなくてはという義務感からだった。ぐったりしたままラヴィを室内に招き入れ、シャワーを浴び、スーツケースの中を見せて服を選んでもらった。彼のバイクの後ろに跨って背中にしがみついた時、人の温かさに感情が揺さぶられて涙が出た。ヘルメットをしている上に手を放すことができないので涙を拭えない。どうか後ろを向かないでくれ、信号待ちで話しかけないでくれ、とハルはラヴィに対し祈っていた。 「こう云ったら何だけど、今日のあなたはセクシーだね」 食事をしながらラヴィは云った。 「失恋してぼろぼろなのに?」 「だからかな。出会った時はどっちかっていうと可愛い外国人て感じだったよ。俺より歳下に見えたしね。今は違う。ものすごく大人っぽいよ」 「嘘だろ。一気に歳をとった気分だよ」 「こんな素敵な人をふるなんて、君の好きな人は見る眼がないよ」 ラヴィに下心があったわけではないだろう。彼は職場のビール工場に新しくやって来たアルバイトの新人が気になっていると打ち明けてきた。 スーズが部屋から立ち去った後、しばらくハルはショックでただ茫然としていた。沈鬱よりも先にやってきたのは混乱だった。床にへたり込み、今自分がすべきことは何だろうと考えた。その中でラヴィにメールを送った。アノンを紹介してくれた礼を告げるためだ。 ラヴィから返信があったのは夕方五時を過ぎた頃だった。その後どうなったのかという返信に対し、ハルは正直に今回の再会がうまくいかなかったことを伝えた。もちろん、スーズの家で起きた細かな事情まで説明したわけではないので、ラヴィは単純にハルがふられたと思い、わざわざ励ましの電話をかけてきてくれた。 食事の席で、スーズを庇うような発言をハルはあえてしなかった。幸福の(いただき)から突き落とされたスーズに対する復讐心がほんの少し、胸の中に巣喰っていた。ラヴィが明るく振る舞ってくれることに感謝しながら、ハルは黙々とワインを呑んだ。 「ねえ、良かったら週末はうちに遊びに来ない?泊まってもいいよ」 「え?急だな。どうしよう」 移民の家庭にはよくあることらしいが、ラヴィはあまり経済的には裕福ではなく、両親と、母国から呼び寄せた父方の祖母、歳の近い兄の五人で暮らしていた。 「きっと賑やかなんだろうね」 「ああ、うちの家族は最高だよ。残念ながら祖父ちゃんは、一昨年持病が祟って死んじゃったけどね」 家族が最高。縁のない言葉にハルは反応した。自分は恐らく一生口にしない言葉だ。 食事が終わると以前断ったレイトショーを今夜は観に行った。英語の字幕だけで全てを理解することはハルには無理だったが、派手なアクション映画は久しぶりだったので気を紛らわすにはとても良かった。 その日はハルの部屋の前までラヴィはやって来た。帰り際に立ち寄ったバーで、それと知らずに吞んだアルコール度数の高いカクテルの所為で、若干ハルの足許が覚束なくなっていたのだ。 「大丈夫?君がどのくらい酒に強いのか分からなかったから、止めなかったんだよ。今日は無理せずに寝た方がいいよ」 「ありがとう、わざわざ」 ラヴィはハルからルームキーを受け取ると、扉を開けてくれた。 「はい、中に入って」 そう云ってキーとハルの荷物を渡して、じゃあね、と云った。 「入らないのか?」 「もう遅いからやめとく。でもさ、夕方見たけど、ここダブルルームだよね?こんな広い部屋を連日とれるなんてリッチな旅してるね」 「全然リッチなんかじゃない。この国に来るのだって、友達から金を借りて来た。俺は大人としても情けない奴なんだよ。たまたま昨日今日とシングルの空きがないって云われて仕方なくこの部屋をとってる。でもホテルを移動するのも億劫で」 「そうか・・・週末泊まることは考えておいてよ。また明日連絡する」 「ねえ、少しだけ寄って行かない?本当にだめ?」 人恋しさのあまり、ハルが荷物を投げ出して意味ありげに指先を絡ませると、ラヴィは非常に紳士的に身を引いた。彼はぱっと身を離すのではなく、ハルの手をそっと包み込むようにしてから優しく押し戻した。 「僕達、()い友達だよ。そうだろ?」 穏やかな、云い聞かせるような口調だった。 「週末は宿泊キャンセルしなよ。狭いけど、うちに泊まればいい。出発日の朝は、空港まで送ってあげるから」 ハルは急激に自分の行いが恥ずかしくなって俯いた。 「どうして俺にそんなに優しくする?」 「うーん、最初は軽い気持ちだったよ。ちょっと可愛い外国人がいるな、ぐらいだったんだ。でもね、その後あなたに誘いを断られて俺はかなり痺れちゃったわけ。あの時のあなたは、すごくきれいだった。俺はハルにずっと恋していたい。こんな風に思える相手もいるんだなって人生で初めて知ったよ」 自分は破廉恥な人間だ。ハルはこの国で得た友人を幻滅させるような発言をしてしまったと思い、後悔に呑まれた。自分の口唇が戦慄(わなな)くのを感じた。 「ああ、泣かないで、ハル」 「抱きしめてもいい?」 「今夜はだめだよ。そんなことしたら君が後悔する。分かってるくせに」 ラヴィはほつれた長いカーディガンの袖でハルの頬を拭った。彼がグランジファッションを好んでいるのか、服を買う余裕がないのかは分からなかったが、くたびれて肌に馴染んだダメージジーンズやシャツは間違いなく彼に似合っていた。汚らしい印象は微塵もなく、むしろそのこだわりのなさを感じさせる装いに好感が持てた。 「明日の朝、九時過ぎに顔を見に来るよ。仕事の前にちょっとだけ。その時にロビーでハグしよう」 ハルは後から流れてきた涙を掌で拭った。 「週末、君の家に行くよ。君の家族に会いたい」 「ほんと?良かった」 「うん、でも君のバイクに俺のスーツケースは乗らないと思うけど」 「家の車を借りて来るから大丈夫」 見返りを求めない言葉にハルは胸を打たれた。改めてこの心根の優しい男と出会えたことに感謝した。この国を出てしまえば多分、もう会うことはないだろう。それがつらかった。 「じゃあね」 とラヴィは明るく告げて、後ろ向きに歩きながらふざけて投げキッスをたくさん寄越してきた。ハルがくすっと笑いを漏らすと安心した様子で、部屋に入って、と身振りで示した。 扉を閉めてからハルは大きく、深く息を吐いた。 帰ろう。 帰ってスーズの望み通り、優しい歳上の相手と、今度こそちゃんとした恋愛をしよう。歳下でも、ラヴィのような男ならいいかも知れない。きっと新しい恋愛ができる。 いや、嘘だ。無理だ。 スーズが部屋を出て行ったあの瞬間、ハルの体の何かが零れ落ちて割れて粉々になって消えてしまった。誰かを真剣に愛そうとする気持ちをまるごと失くしてしまった感覚だった。 ラヴィがいなければこの旅のほとんどは暗鬱としたものになっていたに違いない。 彼は約束通り、朝、仕事前にハルの顔を見に来てロビーでハグをしてくれた。よく眠れたかと訊ね、珈琲をしっかり飲んだら、周辺の土産物屋を冷やかして歩くといい、と軽口を云うとハルの肩を軽く叩いて、すぐにまた出て行った。 その日一日をハルは何とか一人でやり過ごした。海外の町というのは散歩するだけでなかなか面白いものだった。今度は詐欺や物乞いに捕まらないよう、ハルは意識して少し速めに歩くようにした。この国の人々が速足なのは、スリ防止や妙な詐欺に引っかかったりしないための最も手軽な防犯対策なのだと気づいた。観光客向けの陶器店を眺め、古着屋を眺め、仮綴じ本が置いてある書店に寄って、きれいだが使い道のなさそうな硝子ペンやシーリングスタンプが並んだ文具店にも入った。意識して珍しいものや景色を探していなければ、すぐに猛烈な虚無感が襲ってきそうだった。陽が落ちてくると、ラヴィが見せてくれた夕日の名所へ歩いて行った。そこへラヴィから電話がかかってきて、これから友人達とクラブに行くが君も行かないか、と誘われたが、ハルは自分は踊れないのでやめておくと断った。 後からハルが思ったのは、ラヴィは一人になった自分が思い詰めて異国でおかしな行動に走らないよう心配してくれていたのではないかということだった。 帰り道、ハルはケバブを売る屋台を見つけ、それを夕飯にした。 夜、寝台に潜り込もうとした際、敷布(シーツ)の中央あたりに少し黄ばんだ染みがあることに気づいた。同じ部屋に連泊していてずっと清掃を断る札を扉にかけていたので、一昨日から敷布は取り替えられていない。 ハルは少し考えてから、そっとその染みの部分に触れた。自分の精液とスーズのそれが混じり合ったものだろう。顔を近づけてみたが匂いはなかった。 多分、スーズの夢を見るだろうと思った。だが夢の中にさえ、彼は出てきてくれなかった。

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