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第91話

「事件のことをほとんど知らない私が役に立てることはありませんでした。妹のことは父が引き取ることになると思いますが、今はまだ親戚の家にいるそうです。学期は既に始まっていたので私は大学へ戻って来ました。休学届を出すことを父に相談しましたが、休学中も学費の一部は負担しなければならないのでそれは認めない、さっさと戻れと云われて。もちろん、ここには事件のことを知っている人間はいないので静かに過ごしていますが・・・でも、投げやりな気分になることも多くて、勉強だけじゃなく、何をしていても集中できない。捨ててきたあの家のことばかりが頭を巡るんです」 「自分を責めすぎだ。大体、お前の親父さんは今何してる?」 ハルは訊ねた。 「親戚の家に駆けつけた時、父はこともあろうに女性と旅行中だったんです。まあ、よくある話ですけど、すごいタイミングですよね」 本来、スーズが抱えている後悔の念は彼等の父親が持つべきものではないだろうか。ハルは心の底からスーズに同情した。この不幸な家族の中でたった一人、強靭な精神を持って生まれたために母親の犠牲となり、父親の代わりにさせられ、正に今、正気を失いかねないほどの罪悪感に苛まれている。 「『一人だけ逃げ(おお)せて、今の気分はどう?』」 「え?」 「妹が私に云った言葉です。口を利いてくれたのはその一言だけ」 もうハルは黙っていられなかった。 「・・・スーズ、一緒に病院へ行こう。心療内科なら探せばあるだろ?」 「帰って下さい」 ハルは一瞬、相手の言葉を聞き間違えたのかと思った。 「スーズ、気を悪くしたなら謝る。でも俺は本気で心配してるんだ」 「いいえ、あなたは正しい。今の自分の状態なら私にも分析できます。多分私は、鬱になりかかってる」 「だったら俺の気持ちも分かれよ。帰れって何だ?お前がこんな状態なのに帰れるか。俺はお前といる」 「いつまでいてくれるんですか?三日間?一週間?いつまでもいられるわけじゃない。国籍も永住権もない以上、あなたはいつか必ず帰らなきゃいけない。第一、あなたの滞在費はどうなってるんです?」 「今帰るわけにはいかない。今が一番お前にとってつらい時期だろ?見てれば分かる。お前を一人にして行けない」 「つらい時期だからこそ一人でいたいんです。あなたと一緒に過ごすことに慣れたら、もう絶対に一人には戻れない。あなたが帰った後の孤独の日々に、私は耐えられない」 スーズはそう云ってから部屋を見回した。 「こんな立派な部屋に泊まって。こんなことにお金を遣うなんて無駄です」 「無駄じゃない。ここで先刻(さっき)お前に抱いてもらえた。嬉しかった」 「あんな自分勝手なセックスの、一体何が」 「お前とするんだったら、間違いなくそれが最高のセックスだよ」 不意にスーズの眼に涙が盛り上がってきた。 「あなたはこんな私を探してここまで来てくれた。それだけで充分です」 気を抜けば歪んでしまう声を必死でスーズは保っていた。 もし自分が女なら、スーズはこの体を繋ぎとめておくために今ここでプロポーズしてくれただろうか、とハルは思った。学生結婚は苦労するかも知れないけれど、頑張ってこの国で暮らそう、と云ってくれただろうか。 もし逆で、スーズが女だったら自分は絶対にそうする、とハルは思った。今すぐ役所へ行って婚姻の書類を出し、スーズに祖国を捨てさせ、学業を諦めさせ、家族親戚との縁を悉く断ち切って自分の国へ連れ去る。コンドームなしで毎晩毎晩セックスをして半年以内に子供をつくる。そして二度とこの国へは帰さない。その分、絶対幸せにしてみせる。もうどこにも行きたくないと云わせてみせる。 ハルはスーズの母親を憎んだ。顔も知らない人間をこれほど憎んだのは初めてだった。結婚しなければ永住を認めないくせに、男女の間でなければ婚姻を認めようとしない自分達の国を憎んだ。そして何より、子供を作れない自分達の体をこれ以上ないぐらいもどかしく思った。 気が遠くなるような妄想に囚われかけたその時だった。 世にも美しい黒い瞳がすうっと近づいてきたと思うと、ハルの口唇(くちびる)に体温を残していった。 「自分の国に帰って下さい。帰って、今度こそ歳上の優しい相手を見つけて幸せになって下さい。私がふるいつきたくなるほど愛しているのはあなただけです。きっと、この先もずっと。私はまたあなたに会いたい。でもそれがいつになるか分からないのに、あなたに一人でいてくれなんて云えません」 その眼を見た瞬間に分かった。スーズは自分とここで別れるつもりでいる。 どうしてこの男はこれほど残酷な愛の言葉を囁けるのだろう。愛しているから離れてくれだなんて、胸が張り裂けそうになる。 何故だ何故だ。何故お前の弟がしたことで自分達の愛を殺さなければならないのだ。お前の母親の執念は死んでもなお、お前を放してはくれないのか。 たぐり寄せてもたぐり寄せても運命の糸がどこへ繋がっているのかハルには分からない。この男と一緒にいられる未来が今は見えてこない。互いの連絡先を教え合って、電話やメッセージで愛を囁き合う、そんな遠距離恋愛の構図がどう足掻いても自分達には描けない気がする。どんなに気が狂うほど求め合っても、きっとできない。ハルはこの予感に宿命的なものさえ感じた。 「今の私にはやるべきことがたくさんあるんです」 スーズの声には、今までで最も毅然とした響きがあった。 「妹だけでも助けたい」 「スーズ」 「あなたに会えて本当に嬉しかった。でもお願いです。一日も早く帰って下さい。この国がどんなところか少し分かっていると思います。あなたにとっては決して治安がいいとは云えないはずです」 スーズは立ち上がって、出て行く準備を始めた。 「待てよ。どこ行くんだよ。せっかく会えたのに」 「あなたといればいるほど離れがたくなる。こうして向かい合っているだけで、眼が吸い寄せられて肌を合わせたくなるんです。・・・最後にあんな自分勝手なことをしてすみません、どうか許して下さい」 スーズは財布の中から持っていた紙幣を数えもせずに寝台の上へ置いた。 「何これ」 「飛行機代もホテル代も私には払えません。でも空港までのタクシー代ぐらいにはなると思います」 「ふざけるな。だったらこの金で病院へ行け。カウンセリングを受けろ。それを約束しなきゃ、俺は明日も明後日もずっとこの国に居坐るぞ」 怒りと悲しみで睨みつけると、スーズは諦めた様子でハルが突き出した金を財布に戻した。 「・・・せめて最後に病院に付き添いたい。お前がちゃんと専門家の助けを借りてくれないと安心できないよ」 「心療内科はものすごく混雑してるんですよ。行ってすぐに診てもらえるわけじゃないんです。心配しないで。一人で行けますから。約束します」 「・・・お前にシャツを返そうと思ってた。持って行って欲しい。俺には着られないから」 スーズのシャツをハルはクリーニングに頼み、襟芯(カラーステイ)を入れてきれいに畳んでもらっていた。それを袋に入れてスーズに手渡した。 「丁寧に、ありがとうございます」 「電話番号だけでも教えてくれないか?前に持ってた携帯電話はレンタルだったんだろ?・・・俺だって引っ越したりとか、何かあるかも知れない。そしたらお前は俺を訪ねて来れなくなる。だから」 「・・・では番号だけ」 スーズは鞄の中から取り出した付箋に番号を書いてハルに渡した。母を交えて初めて食事をした時と一緒だった。 「なあ、本当にこれだけ?空港に見送りに来てはくれないのか?」 こんな恋の終わりがあるだろうか。好き合った者同士の別れというのは、相手への愛情が恨みや憎しみへと変貌して関係を断ち切るか、互いに納得して友好的に疎遠になるかだ。今のハルはスーズを愛しているし、納得もしていない。 それなのにスーズは出て行ってしまった。ハルには引き止める間もなかった。以前と同じように電話番号の書かれた付箋だけがハルの手の中に残った。

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