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第90話

ハルは麻痺したようにその場に立ち尽くしていた。 「お前の弟が母親を刺した?」 「私が悪かったんです。私が家を出て二年半の間にあの家の中は変わってしまったんです」 スーズはそう云うと、息を詰まらせて椅子の上で体を折り曲げた。ハルは一瞬彼が泣き出してしまったのかと思った。ハルは膝をつきスーズの両手をしっかりと掴んだ。 「スーズ」 「本当は、あなたに聞かせたくない」 怯え、苦しんでいる。それだけはハルにも伝わってきた。部屋の薄暗さ深くなってスーズを呑み込んでしまう気がして、ハルは慌てて電気を点けた。相応しくないと知りながらテレビのスイッチまで入れた。人工的にであっても周囲が明るいということがどれだけ助けになるか、孤独に弱いハルは知っている。点けたチャンネルでは、現地の言葉で動物ドキュメンタリーがやっていた。充分に音量を絞ってからハルはスーズに話しかけた。 「大丈夫か?」 「すみません」 ハルはスーズの背中に触れ、温度を与えるように何度も(さす)った。 「つらいなら、無理には訊かない」 「話さずに済むならその方が良かった。でもあなたは私を追って来てくれた。その誠意には真実で応えるべきでしょう?海を越えて来てくれるほどの覚悟があなたにはある。でも、あなたに軽蔑されるのが怖いんです」 「軽蔑?」 「弟があんなことをしたのは私の所為なんです」 「・・・どういうこと?」 スーズは苦しそうに息を吐き、立ち上がってハルを抱き寄せた。切実に命の渇きを充たそうとする抱擁だった。 もしこの男に完全な正気を取り戻させることができるのなら、どんな血生臭い呪われた話でも聞こうとハルは思った。一緒に暗闇へ堕ちても構わない。この男への愛のために、自分の中の何かが少し狂ってもいい。 スーズはハルと共に寝台に腰かけると、ようやく話し始めた。 一番最初にスーズに電話をかけてきたのは父親の兄、つまりスーズにとっての伯父だったという。ドミトリーの職員から電話を代わったスーズは、そこで母親が亡くなったことを伝えられた。突然のことに驚き、母親の死因を訊ねたが、伯父は決して理由を明かさず詳しいことは帰国してからでないと伝えられないと云い張った。すぐにでも帰って来いという伯父の言葉に対し、スーズは大学での最後のペーパーテストを終えてから戻ると伝えて電話を切った。 「いざ帰るとなって、真っ先に思い浮かんだのはあなたのことでした。それで賭けをしたんです。半日、会社の前で待ってみて、そこで会えなければもうあなたのことは忘れようと思っていた。あの時ほど強く神に祈ったことはありませんでした。あなたに会えた時は本当に嬉しかった。月並みな云い方ですが運命だと思いました」 スーズは自分が送った手紙に心動かされたと云っていたが、本当は帰国日が迫ったために自分に会いに来ることを決心したのだろう。だがハルはそれについては気にしなかった。 「何で帰る日が決まってるって、教えてくれなかった?」 「いきなり帰国するなんて云ったら、誰だって何かあったと思うでしょう。母の死については、ぎりぎりまであなたに云うつもりはなかった。あの人が死んだ所為で私達の最後の時間を陰気なものにしたくなかったんです。それに、私もなるべくフラットな精神状態でいたかった。後がないと思うと、お互い冷静な判断をしづらくなるから」 母親のことについて話す時だけは、いきなり感情のない声になった。 スーズは母親が死んでも尚、彼女を許してなどいないようだった。ペーパーテストを優先した行動からもそれは感じ取れた。母親に死に際し、親戚が困らないよう帰国はする。だが自分のすべきことを放り出す気はない。たとえそれが死であっても、自身の判断や人生に母親の存在を影響させてはなるものかという意地を感じた。 だがそれなら、今の彼の動揺は何なのか。 会社にやって来た日も、結婚式があった夜も、スーズに今ほどの動揺はなかった。今、眼の前にいるこの男はどこからどう見てもぼろぼろだった。痛苦と自責の念に打ちひしがれて、それが人格にまで影響を及ぼしている。こんな傷を抱えたまま、あの日、自分を腕に抱いたとはとても思えない。スーズのこの破綻は、一体いつどこからきたものなのか。 「あなたと過ごした翌日の朝でした。あなたより先に眼が醒めて、何となく手許にあった携帯電話をチェックしたんです。何年かぶりに従兄からメールがきていました。『弟が拘置所に移されたけれど、身内の誰も面会できない』という文章でした。それを読んだ時、私は最初、何の話か分かりませんでした。何のことかと従兄にメールで訊ねたら、すぐに返信がきて『何も聞いていないのか?』と。彼がメールで何が起きたのかを全てを教えてくれました。・・・伯父は私が帰国してから私に真実を話すつもりでいたようです。弟が母親を刺したなんて、あまりのショックに私が帰って来ないと云い出す可能性があるだろうと懸念していたようで」 スーズは懸命に自我を保とうと手に力を込めてきた。ハルにできることは同じだけの力でその手を握り返すことだけだった。 何ということだろう。スーズの身にそんなことが起きている傍らで、自分は何一つ気づかず、死んだように深く眠っていたというのか。 「・・・俺に何か云ってくれれば」 「こんなことをどうあなたに云えばいいのか分からなかった。ショックで頭が働かなかったのもありますが、あなたの無垢で無防備な寝顔を見ていると、自分がひどく汚い人間に思えてきたんです。弟があんな罪を犯したのは、私があの家から逃げた所為です。私がいなくなってからの二年半、弟は私の身代わりにされていた」 「身代わり?」 「私が家を出て行ってから、母の束縛が弟に移ったんです。従兄の話では、母は弟と妹に『兄さんは死んだと思いなさい』と云っていたそうです」 ハルは何も云えなかった。スーズが口唇(くちびる)を震わせたので、感情がかなり昂っていることが分かった。 「私は家を出た後、人生で一度だけ母と怒鳴り合いをしたことがあります。二、三か月に一度の割合で、父の家には養育費などの件で母から電話がかかってくることがあったんです。その電話に私がうっかり出てしまったことがあって。家を出てから三か月くらい経った頃でした。あの電話は今でも忘れられない。母とはっきり対立したのはあの時が初めてでした。まだ大学に入学もしていないのに、卒業後は地元の公務員試験を受けることを考えておけと云われて。電話口で怒鳴り合いになりました。母に怒鳴ったのはあの時が初めてだった。地元で就職する気なんかない。私は二度と戻る気はない、あなたの面倒を看る気はない、と母に云いきりました。三か月間、あの人の支配から離れていたおかげで正常な感覚でいられたんです。それ以来私は母に会わずにここまで生きてこられました。多分、母親が心の中で私を捨てて、弟に乗り換えた瞬間があるとしたらあの時です」 スーズはハルの視線を避けていた。 「・・・帰って来てから、弟には会えたのか?」 「いいえ、彼と面会できているのは弁護士だけです。会おうとはしましたが、彼は出て来てくれない。接見を拒否しているんです。弁護士の話では『話すことは何もない』と云っているようで。帰国してから親戚の家で妹とも顔を合わせましたが、彼女も私とは口を利こうとはしてくれなかった。まるで知らない人間がやって来たような態度でした。・・・私は母を憎んでいましたが、弟と妹は別です。彼等のことだけはずっと気になっていた」 それこそがスーズの悔恨の源だったのだとハルは確信した。 これはハルにとっては全く意外だった。というのも、スーズの弟と妹が苦しむのは正直云ってハルにはどうでもいいことで、スーズも当然そう考えているものと思っていた。彼等はスーズが母親の餌食になっている間、兄を隠れ蓑にして自由を貪っていたのだ。きょうだい間の扱いの差をハルは既にスーズの口から聞いている。彼が母親を憎むのと同時にきょうだいを恨んでいたとしても不思議ではないと思う。だからスーズが弟達のことを気にしていた、という言葉には正直虚を衝かれた。 スーズは消え入りそうな溜息を吐いた。 「分かりません。気になんかしていなかったのかも」 重い呟きだった。 「弟から母親についてのメッセージをもらったこともあったんです。でも必死で助けを求めるような内容ではなくて、ちょっとした愚痴のようなものでした。恐らく、大学受験を控えていた私に遠慮してのことだったんだと思います。でも考えてみたら、留学前から連絡は来なくなっていた。妹からもです。もしかしたら母に私と連絡をとるのを禁じられていたのかも知れませんが、私の方も自分の生活にかまけて彼等のことを考えていなかった。私は母の不安と執着が尋常でないのを誰よりも知っています。それら全てが残された弟に向かうことぐらい、少し考えれば想像できたはずなのに」 ハルは何と云っていいか分からなかった。 「家を出てしばらくは、母が自分を連れ戻しに来るんじゃないかと気が気じゃなかった。父が了承さえすれば、未成年で学生の私はいつでも母の元へ帰されてしまうから。それが私にとって一番恐ろしいことでした。私は自分の心配ばかりで、弟達がどうなっているか知ろうとしなかった」 「・・・俺はてっきり、きょうだいとはうまくいってないのかと」 「いいえ、私達は昔から仲が良かった。母の態度が公平でなかったことは確かですが、それは弟達の所為ではないですし、彼等だって母には逆らえなかった。二人は私をよく労ってくれたんです。私だけが用事を云いつけられることがあっても、彼等は母の眼を盗んで必ず手伝ってくれました。でも弟がその立場になった時に、私は家にいなかった。私は弟が疲れきっている時に、何もできなかったんです」 「それはどうしようもないだろ。お前はずっと母親のために尽くしてきたんだ。家を出たことは後悔しなくていい。一体誰がお前を責める?今回のことは母親と弟の問題だ」 「少なくとも弟と妹は、母に対する責任を放棄した私を一生許しはしないと思います」 「責任?お前に責任なんかあるか。誰にも責任なんかない。お前だって、きょうだいだってまだ学生なのに。第一、そのことが本当に弟の動機なのか?それ以外の悩みだってお前の弟にはあったはずだろ。たとえば、学校での人間関係とか」 自分がどれほど無駄なことを云っているのか、ハルは肌で感じていた。 ハルは口にはしなかったが、弟が母親を刺した理由はスーズが述べた通り、母親の過度な期待が原因で間違いないだろうと思った。長年、兄の影に隠れて安穏と生きてきた彼がいきなり母親の期待を一身に背負うことなどできるわけがない。彼には重すぎたのだ。 「他には考えられません」 「たとえ、そうだとしてもこの件はお前の所為じゃない。よく考えろ。お前がずっと一人で母親の生贄になっていれば良かったって云うのか?その方がみんな幸せになれたのか?お前、俺に云ったよな。正義の味方じゃないんだから、自分を大事にしなきゃいけない、って。もしお前が家を出たことを責める奴がいたら、俺はそいつを許さない」 こうなったのは、断じてスーズの所為ではない。彼の母親の所為なのだ。責任感のない男の本性を見抜けず、愚かにも結婚して唯々諾々と海を渡り、子供達を犠牲にした莫迦な女の所為なのだ。僅かな学費を出すだけで、子供に何の関心も示さない男の、何が父親だ。何が子育てを助けてくれる、だ。親戚の誰も、こうなるまで誰もこの家族を助けはしなかったじゃないか。 スーズは自身が知りうる限りの情報をハルに話し続けた。 警察が現場検証のためにスーズの実家を立ち入り禁止にしており、家族といえど中へは入れなかった。二年以上母親と連絡をとっておらず、事件が起きた際には海外にいたスーズに、警察はそれほど時間をかけて質問をしなかった。 唯一、救いのような部分があるとすれば、弟が母親を刺したのは正当防衛だったということだ。 事件のきっかけは成績のことだった。 母親はスーズの弟に兄と同じ水準の学力になることを求めていた。弟のための家庭教師は週に六日来ていた。脳の働きが良くなるようにと栄養士まで雇い、大量に参考書を買い与え、母親は既に教員を退職していたのにも関わらず、息子の教育のために湯水のように金を遣っていた。どうやらスーズの母親は子供を自分の思い通りにするためなら底なしのエネルギーを発するらしい。息子に彼女がいることをつきとめて別れるように仕向けたり、家にいる間は勉強中携帯電話を管理すると云って、友人達からのメッセージを全て消去してしまっていた。学校側から寄せられた情報でも、スーズの弟は去年から急激に塞ぎ込む様子を見せていて、人が変わったようだと同級生達から云われていたらしい。 それに対し、妹の方は、母親からほぼ無視される形となっていた。家庭の経済状況から云っても、お前を大学に送る気はないとはっきり云われたそうだ。スーズの妹はIQが低いわけではなく、むしろ全体的な成績は兄より良かったのに女の子だからという理由だけで、高校を卒業したら家計を助けろと云い渡されたらしい。 スーズの妹についてはハルも少し可哀相だと思った。彼女は鬱憤が溜まった兄から時折、暴力を受けることがあったようで、妹の友人からは、顔が腫れた状態で登校したり、青痣があるのを何度も見ているという証言があった。一度、歯が折れている時もあったそうだ。諸悪の根源である母親は娘の訴えに耳を貸さず、発達障害からくる彼女の奇癖を(あげつら)って、『そういうところが勉強している兄さんを苛立たせるのよ』と取り合わなかったという。 母親は息子との口論の末に激昂し、傍にあったフライパンで何度も息子を殴りつけた。そして弟が反撃に出た。妹がその現場を見ている。 弁護士の話ではスーズの弟には精神鑑定で不安障害や鬱の症状が見られているそうだ。 スーズがいなくなったことで、この家族はドミノ倒しのようにだめになってしまった。

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