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第89話

咳をして眼が醒めた。 後背位でセックスをした後、そのまま眠ってしまったらしい。 はっとして反対側を向くとスーズは起きていてこちらを見ていた。肩から毛布がずり落ちた。 「・・・起きてたんだ」 「あなたって眠っている間、微動だにしないんですよね。前もそうだった」 スーズは分かるか分からないかぐらいの笑みを口唇に浮かべてそう云った。彼は服をきちんと着て椅子に坐っていた。何事もなかったかのような表情で、何か読んでいたのか本を一冊手に持っている。ハルが何か羽織るものはないかと手近なところを見回していると、スーズが立ち上がってホテルのバスローブを手渡してきた。 「ありがとう」 ハルは微笑んだ。気怠さと甘い痛みが下半身に残っていた。 部屋の大きな窓から雲に覆われた空がくすんだ明るさで町を見下ろしている。今日はあまり天気がいいとは云えなかった。部屋の明かりを点けなければ再び眠くなってしまいそうだ。 改めてスーズの顔をしっかり見られてハルは嬉しかった。髪を切った他に、スーズに外見的な変化はこれといってなかった。艶のある髪と深く黒い瞳。黒蝶貝のような男だとハルは思う。 「どのぐらい寝てた?」 「二十分程度です」 ハルから視線を逸らしてスーズは答えた。 「そうか。・・・階下に下りて珈琲でも飲もうか」 「どうして来たんですか?」 しなやかな鞭で喉元を触れられた気がした。部屋が薄暗いのと顔を背けながら訊かれたため、ハルはスーズの眼の表情までは読めなかった。 「云っただろ。お前に会いたかったからだよ」 「お仕事をわざわざ休んで?」 「あの会社は辞めた」 「え?」 「勘違いするな。ここに来るためじゃないよ。元々辞める予定だった。四月からルイと同じ会社で働くことになってる」 ハルは荷物の中からミネラルウォーターを取り出して口に含んだ。 「それより、何で何も云わずにいなくなった?・・・あの後、シギに会った。お前の母親のことは聞いてる。あいつに会わなかったら、俺はお前の身に起きたことを何も知らないままだった」 「・・・そうですか、シギさんに」 「大変だったな。お悔やみを云うよ。けど、どうして急に」 スーズは答えなかった。どうしてか、急に話しかけづらい雰囲気を放っている。 「俺と会った日には、もう帰国することを決めてたんだろ?云ってくれれば良かった。あんな風にいなくなられたら、心配する」 「あなたに云ってどうなるんです?」 抑揚のない、よそよそしさを含んだ声になった。静電気で弾かれたような痛みをハルは心臓に感じた。 「母のことはありがとうございます。でも別に心配して頂く必要はありません。前に話したでしょう。私達親子は決していい関係じゃなかった」 「でも大事なことだろ。他人事じゃない。云って欲しかった。俺に心配かけたくないって思ったんだろうけど」 「ええ、あなたのためです。でも私のためでもある」 スーズは深く溜息を吐いた。 「私が悪かった。あなたに連絡先の一つでも置いて来れば逆に安心してもらえたのかも知れませんね。正直、追いかけて来られるとは思ってなかった」 その云い方でハルにも分かったのは、どうやらスーズが自分と距離を取りたがっているということだった。 自分のことを好きでいてくれたと思った人間が、急に冷めた態度をとってくる。そういう時に感じる痛みをハルは知っている。人生の中でこの時が初めてではなかった。だがたった今、熱を交わしたばかりの相手に、ましてやスーズにそんな態度をとられるとは思っていなかった。 「迷惑だったのか・・・ここに来たの」 ハルは寝台を見てからもう一度スーズに視線を戻した。 「・・・なら、先に云って欲しかった」 「すみません、あなたを見たらどうしても我慢できなかったんです。何度もあなたを夢に見たから」 「・・・何だよ、それ」 「別れを云わずに帰って来たことが苦しかった。あなたにまた会いたいと帰国してから何度も思っていました」 ハルはその言葉の余韻を噛みしめ、理解しようとした。だが掴みきれない。この男は自分に会いたがっていた? 「俺の方を見ろ」 ハルが手を掴むとスーズは視線を上げた。その眼には相変わらず誠実な光が宿っている。彼の中の葛藤を感じた。何と戦っているんだ、とハルは思う。 「俺を嫌いになったわけじゃない?」 「なれるわけありません。あなたみたいな人には多分もう出会えない。他の人には感じたことのないものをあなたには感じる」 「それなら、俺を好きでいてくれてるなら、どうして俺がここに来たことを喜んでくれない?」 ハルにはわけが分からなかった。スーズは苦し気に片手を額に当てた。 「好きでも、離れなければいけなかったんです。住所も電話番号も知らなければ連絡の取りようがない。そうやって別れるつもりだった。私はあなたに捨てられたくなかった。幸せなまま別れたかった。どうして、私なんかのためにこんなところまで」 「捨てようとしたのはどっちだよ?何だよ、別れるって。二人のことなのに、何でお前が事態をコントロールしようとするんだ」 「あれなら私から別れを決めたことになるからです。自分勝手だと思われても、あなたの方から捨てられるよりはましだった」 「ちょっと待て。もしかして、俺がお前の親友みたいにいなくなると思ってる?」 心外だとハルは思い、むきになった。スーズのトラウマは理解してやりたいが、臆病な青二才と同じにされていると思うと気分が悪かった。 「俺はそいつとは違う。何の相談もなしに急に結婚したりしない。相手に云いたいことは云う。訊きたいことは訊くし、別れたくなったらそう云う。俺に云わせれば色々事情はあったにせよ、お前に一言もなく離れて行ったそいつは卑怯者だ」 「やめて下さい」 毅然としてスーズは云い放った。この男は、自分には決して触れられない聖域をもう一つ持っている。そのことがハルを傷つけた。自分に向けられた真っ直ぐな視線に、憎しみさえ湧いてきた。愛しているからこそ許せない。 二人の間の沈黙が居心地の悪いものになる前に、スーズは後悔した様子で眼を伏せ、再び口を開いた。 「・・・親友のこととは何の関係もないんです。あなたの気持ちを疑ったわけじゃない。私の方の問題なんです」 「何なんだよ?俺を嫌いになったわけじゃないなら、何で離れたがるんだよ?この前、俺に云ってくれたことは全部嘘?」 「嘘じゃありません。私は今もあなたが好きで、あなたには幸せになって欲しいと思ってる」 「だったら俺と一緒にいてよ」 「私が犯罪者の家族でも、ですか?」 「犯罪者?」 予想外の言葉が出てきて、ハルは訊き返した。 「弟が」 スーズはそこで言葉を詰まらせた。震えていた。 「弟が母を刺したんです」

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