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第88話

他人の空似でないことはすぐに分かった。 スーズは突然のことの驚き、途惑っていた。(おのの)いてさえいるように見えた。 「・・・ハルさん」 その呟きは、たった今校舎の中に入って来た三人の女子学生達の笑いさんざめく声に呑まれてしまった。 スーズは次の言葉がうまく出せないでいる。幻ではないかと自身の眼を疑うような表情だった。こんなところにいるわけがない、信じられない、何度もそう云うようにハルの全身を見つめ、ようやく、 「どうしてここに」 と、独り言の如く漏らした。 「お前に会いに来たんだよ」 ハルはスーズを揶揄(からか)いたくなり、ちょっと意地悪な気持ちで笑った。 スーズは髪を少し切ったようだ。それでも長めではあったが、もう後ろで結ぶことはできないだろう。 「俺は執拗(しつこ)いからな。そう簡単には逃がさない」 飛行機の中で、ハルはスーズに会ったらどんな顔でどんな台詞を云ってやろうか、ずっと思案していた。泣いてしまうかも知れないとも思ったし、自分を置いて行ったことを(なじ)ってやりたい気持ちもあった。でもどんな感情が先に来るか、やっぱりそれは会ってみないことには分からないという結論に至った。 結局、この場になってハルは笑みを浮かべることしかできなかった。笑顔の下に言葉にならない千万無量の思いを秘めているのが、自分と、自分が生まれ育った国で生きている人々の(さが)なのだと思う。 眼を合わせ続け、スーズの存在が確かなものだと実感していくにつれ、泣き笑いのような表情になっていきそうだった。それでも近づいて来るスーズから視線を逸らさないよう、意地で顔を上げていた。 やがてスーズは、人生で初めて見るものであるかのようにハルに触れてきた。触れたら消えてしまうのではと思っているかのようにひどくゆっくりと、恐れを隠せない様子で肩に手をかけた。その指先は腕を伝い、腰のやや下あたりでハルの手に絡んできた。 「・・・信じられません」 「俺も。ここまで来た自分が信じられない」 あくまで笑顔でそう返そうとした次の瞬間、ハルの息は止まった。強い力で胸が圧迫されたかと思うと、頭の奥にシトラスの匂いが広がる。次に眼を開いた時にはスーズの銀輪の耳飾りがすぐそこにあった。背中に彼の手の温もりを感じる。 「夢じゃないですよね。顔をもっとよく見せて下さい」 スーズの声は昂奮で打ち震えていた。顔を上げると、自分の中から湧き出てくるとめどない感情を抑えるために、苦痛に耐えているかのようなスーズの表情があった。 「薄荷の匂いがして、そんなわけないのに、もしかしたら、と思って・・・振り返ったら、あなたが」 声を絞り出したスーズが徐々に我を失っていく様子が見てとれた。ハルの顔、首、髪に手を這わせ、それが済むと、再び絞めつけると云っていいほどの力で抱き締めてきた。頬に口唇が当たる。背中や腕の輪郭を確かめるように何度も何度も(さす)ってくる。ハルはこの場でキスをされるのではないかと危ぶんだ。スーズと会えて感極まっているのはハルも一緒だったが、周囲の好奇の目線に晒されているのを痛いほど肌で感じ取っていたので、落ち着け、と一言囁いた。 「・・・こういうのは、ええと、どこか、二人で話せるところで」 スーズはハルの手を掴んで校舎を出ると、門の方を目指して歩き出した。あっという間にハルがアノン達と歩いて来た道程を戻って行く。何処へ行くのかというハルの質問に彼は反応しなかった。 熱に浮かされたままの表情で、 「あなたが滞在してるホテルを教えて下さい」 と云った。 ホテル名を聞いたスーズはタクシーを捕まえるより歩いた方が早いと判断したらしく、ハルの手を掴んだまま歩き続けた。 「なあ、お前、授業があるんじゃないのか」 「いいんです、もうどうでも」 「いいって、お前」 突然、別方向へ腕を引っ張られてハルの言葉は立ち消えになった。いきなり狭い路地裏に引き込まれたのだ。壁側に押しつけられたかと思うと、スーズの口唇(くちびる)が何の前触れも躊躇もなしに触れてきた。 そこは決してロマンチックな場所ではなかった。この通りに一歩足を踏み入れた瞬間、ハルには全てが見えていた。 色とりどりのスプレーで落書きされた壁と、ガムや煙草の吸殻がへばりついた靴墨を撒いたような黒い地面、そこにはごみの溢れた回収用のダストボックスが並び、ペットボトルや泥のついた新聞紙が周辺に散乱していた。斜向いでは誰かが嘔吐した跡と尿を引っかけた跡が隣り合って建物の壁を汚していた。更に道の奥には打ち捨てられた屋台の骨組みと折れた傘、鳥の死骸、泥に塗れた雑巾のような野良犬や呆けた表情で染みだらけのマットレスに坐る浮浪者の姿も見える。大通りが排出した汚れという汚れが全てこの路地裏に集まってきているようだった。 スーズの手が逃がさないという風にハルの首の後ろに喰い込んでいる。もう片方の手がコートの間から入ってきてセーターの裾を捲り上げた。口唇は燃えるように熱かったが、肌に触れる手は冷たかった。ハルは身震いし、口唇を合わせたまま嗚咽を(こら)えた。底知れぬ飢餓感がスーズから流れ込んできて、胸が潰れそうだった。 表の通りを歩く学生二人組がこちらを見ながら口笛を吹いて通り過ぎて行ったことで、やっとスーズが口唇を放してくれた。怖いぐらいの目つきで冷やかした二人組を睨んでいた。 このあたりで先程からスーズに対して抱いていた微かな違和感に恐れが合わさった。何だか別人になってしまったような気がする。以前ならこんなことは意に介さない男だった。かつての穏やかさが消えてしまったのは、やはり帰国してから彼の身に何か起きたからだと考えるべきなのだろうか。 ハルの視線に気づいたスーズは、いくらか鋭さを残した眼を伏せ、 「ごめんなさい」 と呟いてハルの身形を戻した。 「早くあなたが欲しくて、仕方がないんです」 ホテルの部屋の寝台へ(なだ)れ込んだ時、掛時計がハルの眼に入った。自分達は再会してから一時間も経っていなかった。 部屋の扉の鍵を閉めた瞬間、スーズに後ろから抱きすくめられ、コートを剝ぎ取られた。セーターを(めく)られて熱い舌が背中を這う。それだけで体の芯が蕩かされて声が漏れ出た。飢えていたのは自分も同じだと自覚する。スーズらしくない性急な振る舞いにまだ途惑いはあったものの、ハルも自分から服を脱ぎにかかった。 路地裏に連れ込まれた時と同じ、欲望の発散を抑えきれないといったキスが降ってきた。今度は体中に。先程(こら)えた涙がハルの目尻を濡らした。 野生動物が獲物を食す時のような集中力で、スーズはハルの体を解し始めた。舐められたり、咬まれたり、吸われたり、抓まれたり、(こす)られたり、彼はハルのあらゆる箇所をあらゆる方法で愛撫してきた。ハルには何もさせてくれなかった。 体の間で上向きになった互いのペニスが触れ合い、その感覚にハルは僅かに身を引いた。それをスーズは許さなかった。彼は二人の体の中心を再度密着させ、まとめて掴んできた。熱い、というのが最初にハルが感じたことだった。スーズの(ぬめ)った手が二人の体の間で上下に動き始め、ハルは甘い悲鳴を漏らした。互いの肉棒が擦れ合う様は煽情的ではあったが、恥ずかしさからハルは眼を閉じた。次第にスーズの持っていた熱が乗り移り、理性が捻じ伏せられていく。時折スーズは指で器用に亀頭を擦り上げ、なぶるような緩急を挟んだ。手ずから扱いている時には感じ得ない快感が何度も波になって襲ってきた。 「見て」 「・・・え」 「眼を開けて、ちゃんと見て」 その声には命令の気配があった。スーズは彼の手の中で一緒になった二人の性器を見ろと云っているのだ。おずおずと下の方へ眼を向けると、赤黒い性器が二本、スーズの手の中でぬらぬらと光っていた。唾液の所為だけではなかった。ハルの鈴口から滲み出た透明な雫がスーズのペニスにまで及んでいる。その光景に突き上げるような昂奮を憶えた。一緒になれた、という感覚がそうさせたのだと思う。いとしい相手の掌の中にいると思うと、卑猥な水音に耳を犯されながら先にハルは達した。こんなことをスーズが知っているなんて思わなかった。 溢れ出たハルの精液を掬い取り、スーズはそれを自分のペニスに塗り込んだ。まだ放出の際の痙攣が治まっていないハルの体をやや力尽くで転がしてうつ伏せにすると、足を押し広げてくる。そして声もかけずに一気に体の中へ侵入してきた。 「あっ・・・」 ハルは息をするのも精一杯だった。 抉られるような強い圧迫感に耐え、身を固くしているとスーズがハルの髪を撫でてきた。切実な欲望の合間に見せた彼の優しさだった。ハルは自分の心臓がとろりと溶け出すのを感じた。乱暴にペニスを引き抜かれ、再び最奥まで差し貫かれているうちに、下腹の重苦しさは徐々に快感へと変貌していった。けものの鳴き声と熱が部屋を満たしていく。ハルは荒っぽく扱われるのは決して嫌いではなかった。肩や腰を痛いほどに掴まれても、それは相手から全身で求められていることの表れだと思った。スーズにそんな風に求められているなら、これ以上の悦びはないと思った。 混じり合いたい。溶け合いたい。手を繋がずとも離れないように、言葉などなくても通じ合えるように。そんなことはできないと、痛いほど分かっているのに願わずにはいられなかった。

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