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第87話

翌日、ホテルをチェックアウトしながら自分の無防備さを思い返していた。昨日のことはラヴィが良い人間だったから何も起きずに済んだのだ。知らない人間について行ってはいけないという大原則を何故よりによって海外で見失うのか。英語の実力がどうあれ、自分に海外は向いていない気がする。 今晩の宿はこのホテルでは取れなかった。シングルはこの日も一杯だったのだ。ダブルルームに連泊するのは贅沢すぎる。次の宿をどうするべきか、そんなことを考えていると後ろから聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。 驚いたことにロビーのソファにラヴィが坐っていた。 「ラヴィ?」 「おはよう、ハル。ああ、良かった。会えた」 「どうした?何でここにいるの?」 「あなたの助けになりたくて来たんだ」 ラヴィの隣には一見しただけで学生と分かる青年が坐っていた。スーズより歳下に見える。 「彼を紹介しようと思って。この子はアノン。彼はね、あなたの友達が通ってる大学の学生なんだ。アノン、この人がハルだよ」 アノンはにこりともせず無言でハルと視線を合わせてきた。確認した、という感じだった。 「驚いた。ラヴィは交友関係が広いんだね。大学生の友達がいるんだ?」                                                                                                                                                                              「うーん、僕達もつい先刻知り合ったんだけどね」 「は?」 何とラヴィはSNSを使って地元のコミュニティグループにメッセージを送り、『大学敷地内の案内をしてくれる学生』を探してくれていたのだ。そして反応してくれたのがアノンだった。朝、彼とここで落ち合い、既に事情は説明してあるという。この学生は英語は巧くないが、信用していいと云う。 これには本当に驚いた。会ったばかりの観光客のためにそこまでしてくれる人間がどこにいるだろう。 ハルは急遽フロントに戻り、ダブルルームをもう一泊とってくれと云った。スーツケースを転がして彼等について行くわけにはいかなかったからだ。フロントにスーツケースを預け、すぐに三人でホテルを出た。 「この子にはあなたを心理学部の校舎まで間違いなく連れて行くように云ってあるから。僕はこの後、十時から仕事なんだ。だからここでお別れ」 「ラヴィ、本当にありがとう」 「いいのいいの。あなたはいつもちょっと丁寧すぎるよ。じゃ、またね」 ラヴィは路肩に停めていたバイクに乗り込むと走り去ってしまった。彼に後ほどきちんと礼の電話を入れなければと思った。それから、ハルは残された学生の方を見た。 アノンは深いグリーンアメジストの眼とチョコレート色の髪をした可愛い学生だった。ライトブルーのタートルネックにグレーのパンツを合わせて、オフショルダーのピーコートを羽織っている。学生らしく、荷物が多かった。リュックを背負い、更にテキストが入っていると思われるショルダーバックを肩にかけている。彼は、真顔でハルの眼を見つめてきた。 「アノン、宜しくね。英語は喋れる?」 「・・・少しだけ」 ハルはこの学生に警戒されているのかと思い、笑顔を浮かべて云った。 「あなたは親切だね。俺みたいな知らない人間を助けてくれるなんて」 「ラヴィ云ってた。あなた好き」 この子はいきなり何を云い出すのかと思った。 「僕はラヴィからお金もらった。彼、云った。あなたを案内して欲しい。だから僕、あなたと大学に行く。これは仕事」 一言一言が習いたてのようなたどたどしい英語だった。ハルにとってはブロークンな英語で喋られるより分かりやすいので構わない。 しかしハルには彼の口から出てきたマネーという単語が信じられなかった。 ラヴィがこの子にお金を払っている? 複雑な気持ちになった。昨晩、彼からの誘いを断った自分がそこまで親切にしてもらう理由などないのに。マネー。この子を信用していいというのはそういうことだったのか。 アノンは荷物が多いにも関わらず速足で歩き出した。あっという間にハルは置いて行かれた。 「歩くの早いね」 アノンはちらっとこちらを見てきたが、無言だった。 「ごめんね。俺、英語しか話せなくて」 謝ると眉間に皺を寄せた。云っている意味がよく分からないという感じだった。 終始アノンは無愛想に振る舞い、余計な口を利かなかった。だがこれがこの国での基本的な態度なのかも知れないと思った。ユニがいつか云っていたことを思い出した。ただでいい顔をしてくる奴ほど信用ならない人間はいない。正にそういう風に彼等は生きている。治安を鑑みても、よく知らない相手に容易く笑顔を振りまける社会でこの国の人々は暮らしていないのだ。 歩くのが早いのはアノンだけではなかった。後方からやって来る人達にどんどんハルは追い抜かれた。歩道が広く、自転車とも分けられているため、何かを気にして歩く必要がない。ハルは雑踏をうまくすり抜ける術は知っていたが、早歩きの習慣はない。何度も小走りでアノンに追いつこうとした。そう云えば、最初の頃のスーズも歩くのが速かった。 「着いた。これ持って」 大学前まで来ると、アノンはテキストの入ったショルダーバッグをハルに突然押しつけた。 「あなた、学生」 それらしく見えるように、ということだ。確かに学生というにはハルは軽装すぎた。 門の横には警備員が一人いて、一見暇そうにしながらも何となく行き来する学生達の方へ眼をやっている。やはり基本的に部外者の立ち入りは禁止なのだ。 ハルはやや緊張した面持ちで門を通り過ぎた。 そこへ声がかかった。 アノンが即座に反応してその場で立ち止まったので、ハルは自分が何かやらかしたのかと思い、瞬時に真っ青になった。 アノンの視線の先にいたのは、彼の友人と思われる一人の学生だった。 白に近いブロンドに青い眼、一八〇を軽く超える長身の、思わず見惚れてしまうほどの美青年だった。彼は余程親しい友人なのか、笑顔で眼の前までやって来ると、アノンの上腕にごく自然に触れながら母語で何か喋り始めた。当然ハルには何を云っているのか分からない。だがそんなことより、ハルはこの青年のようなレベルの美しさを目の当たりにしたのが久しぶりのことだったために、うっかり見入ってしまっていた。アールに匹敵する造形美だった。 その美青年はすぐ傍にいたハルに気づき、君の知り合いなのか、というようなことをアノンに訊いていた。 「こんにちは。あなた、校内の見学に来たの?アノンはあまり英語は得意じゃない。僕もだけど」 そんなことない、とハルは思った。少なくとも彼の英語は、アノンよりは流暢だった。 「ええと、俺はこの大学の心理学部の校舎に行きたいんです。友人がそこの学生で。そこに行けば会えるかなと思っているんですが。アノンは俺を案内してくれてる」 「ああ、心理学部。一番奥の校舎です。一緒に行きましょう」 アノンに対するのとは違う、幾分礼儀を含んだ笑顔を向けられて、ハルは途惑いながらも満更でもない気持ちになった。 「あなたも来てくれるの?」 「うん、僕とアノンは友達なんだ。それ、彼の荷物ですよね?重いでしょう。僕に渡して下さい」 美人な上に愛想の良いその男子学生は簡素な英語とジェスチャーで、ハルを敷地の奥へ(いざな)おうとする。アノンの方を振り返ると、彼は少し離れてハル達の後ろをついて来ていた。 目的の校舎は門から離れていた。金髪青目の青年は警備員について、彼等はテロ対策の名目であそこにいるが、余程の不審者でない限り、彼等に呼び止められることはない、と教えてくれた。 それよりアノンとどうやって知り合ったのかと訊かれ、知人から紹介されたとハルは正直に答えた。 「彼と連絡先を交換した?」 「アノンと?してないよ。そんな暇なかったもの。それに・・・彼はちょっと怖いしね」 後半はアノンに聞こえないよう囁いた。近づいた美青年からはバニラの混じった香水の香りがした。彼は安心したような満足したような笑みを浮かべながら、ハルに歩調を合わせてくれていた。 「ここが心理学部の校舎です。出入口はここだけ。みんな必ずここを通る」 「ありがとう。とても助かりました」 美青年は何か云いたげにしていたが言葉が出ないのか携帯電話を操作して何か調べていた。それから顔を上げた。 「一人で大丈夫ですか?」 どうやら翻訳機で言葉を検索していたらしい。ハルはにこっとした。 「ご親切にありがとう。俺は大丈夫」 「私の祖父は旅行好きだった。彼は外国人に沢山助けてもらった。だから私も親切にしたい」 こういう若い子に会うとハルは嬉しくなる。何かお礼をしたかったが、彼が見返りなど求めていないことはすぐに分かった。下手に返礼などすると純粋な親切心は汚れてしまう。 せめて心の籠った言葉を返したいと思い、 「あなたの住む国は素敵ですね。あなたのおかげでより一層好きになりました」 と云おうと思った。ところが冒頭を間違えて、 「あなたは素敵ですね」 と云ってしまい、欲望に忠実な物云いをしたことを恥じた。彼は他意があるとは思っていないのか笑って流している。少し離れたところにいたアノンは恐ろしい眼をしてハルを見ていた。そう云えばこの仕事は彼が受けたものだった。慌ててハルは彼の前へ行き、 「アノン、ここまで一緒に来てくれて本当にありがとう」 と笑顔で云ったが彼は顔を背けて、いい、という風に手を軽く振るともう歩き出してしまった。さよならも云ってくれなかった。 「俺も行かなきゃ。じゃあさよなら」 美青年は最後に人の心を蕩かすような笑顔を浮かべて去って行った。彼は途中でアノンに追いつき、彼の肩に触れながら何か話している。遠くなっていく彼等の後ろ姿を見送りながら、あの二人はカップルなのかも知れないな、とハルは思った。アノンのようなタイプと仲良くなるには相当の打たれ強さか気立ての良さが必要な気がする。 その校舎は入ったところが吹き抜けになっており、入口付近は学生がちょっとした休憩ができるようカフェテーブルとプラスチック製の椅子が置かれていた。自販機もある。行き交う学生達に眼を凝らしながら、ハルは入口に最も近い席に腰を下ろした。 ここにいればスーズに会える。 ハルは何時間でも待つつもりだった。スーズがやって来るまで金輪際、絶対動かないという覚悟があった。 自分はどうしてもスーズに会わなければならない。万が一拒絶されたらそれは悲しいが、それでもいい。一目会いたい。会って確かめたい。 お前は今、大丈夫なのか? 一人で、塞ぎ込んでいないか? この体の中にある魂は、お前の孤独に駆けつけないわけにはいかないのだ。 気づいてみれば、自分はいつも誰かを待っている。 随分前に、珈琲の香りに包まれながらアールを待っていた頃のことを思い出した。今でもあのカフェのあの席の、カウンターの木目や椅子の坐り心地、硝子越しに見える景色を思い出すことができる。 寂しさに折り合いがつかない時、残業するふりをしながらユニと視線が交わるのを待っていたこともあった。ユニは自分が待っていることを知っていたのだと思う。 彼等と交わることで自分は不安定な内面と現実との折り合いつけていた。 誰でも良かった。優しい相手である必要はなかった。相手から手を伸ばしてもらえるなら。あの時の自分がラヴィのような男に会っていたら、二つ返事で応じていたはずだ。どんな形でも誰かの体温に触れていたかった。まるで掴まるものがないと形を成せない蔦のようだった。 でも今は体の奥にすっと一本の神聖な柱が通っている。 誰にも侵すことのできない聖域というものをスーズが自分の中に創り上げてくれた。彼がこの体に触れた時にできたものだ。そこは澄んだ光に包まれた魂の棲み()だ。そこには、もうあの男の魂以外入れたくはない。 魂と魂が触れ合うことは決して甘いだけではなかった。 突き刺すような苦痛と快楽に体は呑まれながらも、内側では息もできないほどの切なさが息づいていた。恋をしている時の切なさにほかならなかった。 もう実感している。これほど相手を思っていても、自分以外の人間を理解することはできない。どうあっても人は孤独から逃れることはできない。何百回何千回キスをして体を重ねても、互いの皮膚が溶け合って魂が混じり合うことはないのだ。 でもあの聖域さえあれば、自分は孤独に立ち向かえる気がする。 その時、入口の方を向いていたハルの前をさっと通り過ぎた人影があった。校舎から出口に向かって一人歩いて行く黒いコートを着た学生の後ろ姿。 この匂い。 忘れはしない。たちまち脳髄から何かがあふれ出してくる感覚にハルは襲われた。全身の神経が一瞬にして生まれ変わったようだった。見失うわけがない。一度触れた魂の匂いをこの体は憶えている。 そして相手の方も、突如、糸が切れたようにそこで立ち止まった。 顔を見ずともハルには分かった。 間違いなくスーズだった。 彼がゆっくりとこちらを向き、眼が合った瞬間、あっという間にその黒い瞳の中に吸い込まれそうになった。 自分が知る限り、最も美しく、心を奪うものだ。

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