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第86話

「人を探してるの?」 流暢な英語で話しかけてきたのは、榛色(はしばみいろ)(つぶら)な瞳をした若者だった。美形とは云い難いが、愛嬌があり、スウェットにデニム、ダウンコートというカジュアルな格好をしていた。彼は微笑んで、カップスリーブのかかった紙カップを差し出している。 「どうぞ。そこのカフェで買った。温かいレモネードだよ」 ハルはいくらかの警戒心を保ちつつ、躊躇いがちに微笑んで受け取った。 「うん。友達を探してる。あなたはここの学生?」 「いや、違う。俺はこの近くで仕事をしてる。あなた、もう二時間ぐらいずっとここにいるよね?」 ハルは、何なら昼前からずっとここにいるんだけど、と答えたかった。 「うん。えーと・・・これ、ありがとう。いくら?」 「お金は要らない。あなたが寒くないのか気になってさ」 到着した翌日の夕方のことだった。 午前中に初日のホテルをチェックアウトし、次の宿へと移った。 そしてその後の半日間、ハルは大学前のカフェに張り込んだり、正門横のベンチに坐ってサンドイッチを片手にひたすら学生達を観察していた。何人かの学生には勇気を出して英語で話しかけてみた。幸い愛想の良い学生が多く、英語が通じなくても無視されることは一度もなかった。何人かの学生が拙い英語で、この敷地内に心理学部の校舎はあることと、大学の門は基本朝七時半から夜九時ぐらいまで開いているということを教えてくれた。敷地の中に入っても気づかれないだろうとは思ったが、警備員らしき制服を着た男性が時折姿を見せるので、タイミングを計りかねていた。結局そのまま夕方になってしまい、スーズには未だに会えないままでいた。 しかも今日は、ここへ来る前、想定外のことで無駄に神経をすり減らしていた。 昨日泊まった空港に近いホテルは、ロビーや食堂などの共有部分から客室に至るまで非常にきれいで連泊したいぐらい居心地が良かったが、スーズの大学までは距離があったため、二日目以降は現地でホテルを探すつもりでいた。 二日目は大学から最も近い中級ホテルを事前に予約してあった。ところがいざそのフロントへ行ってみると手違いで満室になってしまっているというのだ。これには打撃を受けた。 ただ途方に暮れていても仕方ないので、レセプション係にそこから最も近い別の宿はどこかと訊ね、曖昧な地図を描いてもらってその場を跡にした。 スーツケースを転がしながら道を歩いていると、突如、数人の若者達に囲まれ何やら話しかけられた。彼等はハルが何人(なにじん)だか分かっていないらしく、入り乱れた言語で何かを訴えてくる。その時、彼等の中でも一番年少と思われる男の子に英語で、署名して、と云われ、思わずハルは立ち止まってしまった。 何かと思って少年の持っている手作りのチラシを見てみると、どうやら彼等は移民への不当な処遇の改善を訴えているグループのようだった。すぐそこにカウンターがあると云うのでチラシの内容を頭の中で翻訳しながら何も考えずについて行く。 そう云えばスーズは高校生の時、移民の子供を相手にボランティアをしたと云っていた。こういった署名活動もしたのだろうか。そんなことに思いを馳せていると、何もないテーブルまで連れて行かれ、ハルはそこで署名ではなく募金を強要された。詐欺のようなものだ。よく考えてみれば内憂に対し、外国人観光客の署名など求めるのはおかしな話だった。 ハルは無言でポケットの中にあった僅かな小銭を箱の中に放り投げ、足早にその場を立ち去った。小銭しか入れなかったことで何やら悪口を云われた気もするが、怒るだけエネルギーの無駄なので放っておいた。鼻をかんだティッシュでも入れてやれば良かったと思ったが、まだ十三歳か十四歳くらいの子供があのグループの中に交じっているというのが唯一ハルの気にかかることだった。 やっと見つけた二件目の宿ではダブルルームかファミリールームしか空いていないと云われた。ルイから借りた金を無駄に遣うのは忍びなかったが、ハルはそこでダブルの部屋を一泊取った。寒い中スーツケースを転がし続けたため、一息つきたいという気持ちに駆られていた。 部屋で一服してからすぐにハルはスーズの大学を目指した。 大きな町だけあって、大通りはきれいだった。道路の中央を路面電車が走り、舗装された車道と歩道の間には自転車専用レーンがある。冬の街路樹は殺風景だったが、都会のおしゃれな活気に満ちていて観光客も多かった。 食べ物や雑貨の屋台がいくつかあったので眺めながら歩いていると、警察官がやって来て、突然屋台の持ち主に喧嘩腰に話しかけていた。後から知ったことだが、最近この国の法律が改正され、空港へと繋がるこの大通りでは全ての屋台が出店禁止になっていたらしい。屋台の持ち主は明らかに移民だった。しかも十歳ぐらいの女の子が彼の傍についていて、不安げな顔をしている。多分、親子なのだろう。警察官達がこの親子に乱暴なことをしやしないかと不安だったハルはじっと遠くから成り行きを見守っていた。 時々方向が分からなくなりながらも、スーズが通っている大学が見えてきてガイドブックを鞄に押し込んだその時、後ろからコートの裾を引っ張られたのでびっくりした。振り向くと、七歳くらいの褐色の肌をした少女がそこにいた。 「お腹が空いているの。お金をちょうだい」 と英語で云われ、途惑っていると、 「弟がいるの。まだ赤ん坊なの。私が歌を唄うから、ミルクを買うお金をちょうだい」 と尚も云われた。そしてハルが口を挟む間もなく少女は歌い始めた。 周囲を見ると現地の人達の「ああ、カモにされてるな」、「あの外国人、きっと断れないだろうな」という視線を嫌でも感じた。この少女が親に命令されてこんなことをしているであろうことはすぐに分かったが、ハルは何だか悲しくなってしまい、 「もういいよ。歌ってくれてありがとう」 と云って持っていた紙幣を一枚渡してしまった。少女はお辞儀をして去って行った。少女の行く末が心配で、胸が痛くなった。募金詐欺の少年と云い、先程の屋台の少女や今の歌唄いの少女と云い、子供にあんなことをさせて知らんふりしているこの国が少し嫌いになった。 ハルはたった今にこやかに話しかけてきた青年の真意が測れず、財布の入った鞄をぴったりと体にくっつけながら相手の動向を観察していた。 「ええと、俺は不審者じゃないよ」 「もちろん。そんなこと思ってないよ。ただ、今日はもうこの時間だから学生はほぼ帰ったと思うけど」 「あー・・・やっぱり?」 今日は無駄足だった。あれこれ考えずに留学生の(てい)を装って敷地内に入って行っても良かったのかも知れないと今頃になって後悔した。 「ずっとこんな寒いところにいて大丈夫?その友達には、電話で連絡取れないの?」 「・・・本人に電話番号を書いてもらったのに、失くしちゃって」 「そうなんだ」 ポケットの中の懐炉を握り締めながらハルは立ち上がった。 「仕方ない。今日は帰るよ」 「ねえ、この近くにあるバーを知ってる?安くて酒の種類が多いからここの学生がよく集まってるんだよ。そこを覗いてみたら?」 スーズはそういうところに行くタイプではないと思ったが、もしかしたら、という思いで念の為、場所と店名をその赤毛の青年に訊ねた。 「連れてってあげるよ。別に遠くないから」 「ご親切に。でも場所を教えてくれるだけでいいから」 「遠慮しないで。ここから一キロぐらいだよ。そこにバイクがあるから乗って」 結局ハルは押しに負けて、レモネードをがぶ飲みし、ヘルメットを受け取った。自分が女であれば当然警戒すべきなのだろうが、男である自分が変に身を守ろうとするのも情けない気がした。バイクは風を切って進み、顎を覆うような襟巻(マフラー)が心底欲しいとハルは思った。 夕日がきれいに見える川べりで一旦バイクは停まった。 「ここ、きれいだろ?」 そこは本当に美しかった。緋色と薄群青がこれ以上ないほど空のカンバスの上で自然に溶け合い、滲むような太陽の光が雲に反射し、それが運河に映り込んでいた。遠くにある光の源をしばらく見つめているとスーズのことを思い出して切なくなった。 この夕日をスーズも毎日見ていたに違いない。もしかしたら今も。感傷的になる前にハルは運転手の若者を見た。 「ほんとにきれいだね。あなたはよく道案内をするの?」 「たまにね。可愛い人が困ってるのを見た時なんかに」 ハルはそれを自分には全く関係ないジョークとして笑いながら流した。その数分後、無事バイクは一件のブラウンカフェに着いた。ここは夕方を境に、カフェからバーに変わるのだと云う。 青年はラヴィと名乗った。普段はビール工場でアルバイトをしているが、たまに観光地へ出向き、バイクに個人旅行の観光客を乗せて小銭を稼いでいるらしい。 「俺は移民の二世なんだけど、祖父ちゃんは昔バイクタクシーで稼いでたっていうから血筋かもね」 それならこれは仕事かと思い、紙幣を一枚差し出すと、 「要らない。あなたは特別」 と云われた。 店は年季の入った木造で、オレンジ色の燈が温かだった。ラヴィの云った通り客のほとんどは学生だった。 一通り店内をうろついてみた後で、カウンターで立ち呑みをしているラヴィの元へ戻って肩をすくめた。そこまで期待していたわけではないが、明日もまた寒風に晒されながら門の前に立たなければならないと思うとつらい。ハルは少し大袈裟に肩を落とした。 「いないみたい」 「まだ早い時間帯だし、少し呑んで行ったら?そのうち来るかも。おごるよ」 「いいよ、ここまで無料(ただ)で連れて来てくれたのに」 いいからいいから、とラヴィはハルにメニューを見るよう促し、ここはビールがおすすめだと云ってくる。 お前はバイクに乗るのに酒を呑んでいいのか、ということにはとりあえず触れなかった。 客の出入りがある度に扉についているベルが鳴るので、ハルはそちらに眼をやったが、スーズのようなタイプとはおよそ関係なさそうな学生ばかりがぞろぞろとやって来た。しばらくの間、ハルは酒を呑みながらラヴィと他愛のない話をした。 「へえ、僕も君の国には一回旅行に行ってみたいって思ってるんだよ。すごく治安がいいって聞くもの。でもここは違うからね。隙あらば観光客を騙そうとしてる奴がいるから気をつけて。怪しいと思ったらきっぱり断らなきゃだめだよ」 そして、何よりそのガイドブックがいけない、と指摘された。 「そんなもの持ってたら何も知らない奴だと思われて狙われるよ。ここは観光地の外れの方ではあるけど、宿が多いから詐欺を働こうとする連中も結構いるんだよ」 どうやらこの青年は信用できそうだ。ハルはシギのことを思い出した。何の見返りもなしに他人のために動いてくれるところが、このラヴィと共通していた。そういう気立てのいい人間に会うと心が穏やかになる。そう云えばシギとルイに何かしら土産を買って行かなければ、などとぼんやり考えていると、 「ねえ、ハルが探してるのは恋人?」 と突然訊かれた。 「ええと」 何と答えるべきか悩んだ末に、ハルはノーと呟いた。 「・・・友達」 「そうなんだ、でもかなり粘ってるよね。あんなところでずっと待ってるなんて」 「・・・返さなきゃいけないものがあって」 これは嘘ではなかった。スーズが自分に着せたまま置いて行ったシャツを返さなければならなかった。 「じゃあ、あなたの恋人は家で待ってるの?」 「はっ?いや・・・家には誰もいないよ」 「もしかして恋人いない?」 「う、う、うん」 「それなら今夜は友達の捜索はやめにして、レイトショーでも観に行かない?」 それなら、とはどういう脈絡だと思いながら、ハルは何とか当たり障りのない断り文句を考えた。 「料金は僕が払うから。ね?すぐ近くだから」 「いいね。でも明日も予定があるからやめとく」 「大丈夫。今夜遅くなっても送ってあげるから。もしちょっとでも行きたい観光地があれば、明日連れて行ってあげる。何処でもいいよ。朝食も一緒にどう?この辺で一番美味しい朝食を出すカフェを知ってるんだ」 いきなり何かを解放したような相手の態度に、流石のハルも変だと思った。 「あなたが泊まってる宿も見てみたいな。この辺にはひどい宿もあるから、安全かどうかを確認させてよ」 もしや自分はナンパをされているのでは、と感じたのはこの時だった。よく眼を見てみれば、彼は熱心に信号(シグナル)を送ってきている。英語で話すことばかりに気を取られて、相手をしっかり見ることを怠っていた。スリは警戒していたが、ナンパは他人事だと思っていた。 「それはできない。本当にごめん」 「えー、だめなの?どうしても?」 「うん、悪いことをしたね。実は俺、友達じゃなくて好きな人を探しに来たんだ」 「えっ?」 ハルはほんの少しだけスーズのことを話した。自分の国にスーズが留学生としてやって来たことや、好きになったけれど急に帰国してしまったこと、連絡先が分からないために大学前に張り込んでいたことを。 「その彼に会うためにわざわざ海を越えて来たの?」 「うん。仕事の都合がついたからっていうのもあるけど」 ラヴィは眼を丸くして感嘆したような何とも云えない声を漏らした。 「それはすごく情熱的だね」 「この歳になって学生に熱を上げるなんて莫迦みたいだろ?」 直後にハルの年齢を聞いたラヴィは信じられないと云って驚いていた。自分から見る限り、あなたはどう見ても二十歳前後にしか見えないと云われた。それは流石に云い過ぎたと謙遜していると、 「でもさ、年齢なんて関係ないよ。フィーリングが何よりも大事だと俺は思う。それに、大人として分別があることと、人生の情熱を失うことは別だろ?ああ、羨ましいなあ。俺ももっと人生を長く生きたらそういう大恋愛ができるのかなあ」 と遠い眼をされた。 ラヴィはちゃんと宿の前までハルをバイクで送ってくれた。そして電話番号と名前のメモを渡し、滞在中何か困ったことがあったらいつでも連絡してきていいと云った。 「声をかけてくれてありがとう。あなたのおかげで今夜は楽しかったよ」 「友達が見つかるよう祈ってるよ。俺はあの辺をバイクでよく通るから、あなたを見かけたらまた挨拶してもいい?」 ハルが宿の中に入り、フロントで鍵を受け取ってもラヴィはいつまでも外からこちらを見続けていた。

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