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第85話
空港に着いた時、現地の時刻は夕方だった。
一日目のホテルは決まっていた。少し高くても、初日の宿だけは空港に近く、分かりやすい宿にしておいた方がいい。ルイがそう忠告してくれたのだが、その通りにしておいて本当に良かったと思う。予想以上に疲れていた。時差のために頭痛がしていたし、エコノミーの狭い席に押し込まれて無闇に飲み物を飲んでいた所為で足はひどくむくんでいる。スーズが云っていた通り、この土地は乾燥していてかなり寒かった。風が強いというのではなく、足許から沁み入ってくるしんしんとした寒さで、町中に冷気が溜まっている気がした。
実は空港に着くなりひどい目に遭った。
スーツケースを引き取って、いざ出口へと思っているといきなり警察官のような服を着た税関の職員に捕まり、現地の言葉で何やら云われた。そして有無を云わせない様子で手荷物検査のテーブルへハルを誘 おうとしてくる。
「あの、すみません。英語で喋ってもらえませんか?ここの国の言葉は分からないので」
彼女は少しは英語が喋れるらしく、身振りを交えて英語で、手荷物を開けて、と云ってきた。てっきり誰もが受ける検査を通らずに来てしまったのかと思ったハルは、職員の質問に素直に応じた。
「この国に来た目的は?」
「観光です」
「スーツケースの中身も全部見せてちょうだい」
やや不自然に感じながらも云われるがままに荷物を開く。
パスポートの国籍とちぐはぐな外見の所為だろうか。何も後ろめたいことはないのに心臓がどきどきしてきた。この女性職員は美人だったが、強引で毅然とした態度には融通の利かなさを感じた。
彼女はハルの荷物を全て台の上に出し、スーツケースの内側を叩いてみたり、縫い目に不自然な箇所がないか点検していた。 運び屋か何かの犯罪を疑われているんじゃないかと思ったのはこの時だった。彼女は手荷物の中のレシートや読み止しの本、スーツケースの中の下着までしっかり確認した後で、
「はい、行っていいわよ」
とあっさりハルを解放した。荷物は直してくれるわけでもなく、自分で詰め直すしかなかった。空港ではこういう抜き打ち検査がたまにあるとは聞いていたが、まさか何の説明もなしにあんな理不尽なやり方をされるとは思わなかった。誰にでもこんな検査をしているわけではなく、単純に自分の見た目が国籍不明で怪しく見えたということだろう。きちんと整理して入れた荷物はぐちゃぐちゃだし、疲れているのに時間を無駄にした。
予約していたホテルは良かった。英語で滞りなくチェックインを済ませることができた。ポーターにチップを払おうとしたが、会計時にサービス料が込みになっているので個人単位では受け取らないという。このポーターも先程のフロントのレセプション係も非常に感じが良かった。ハルはにこやかに扉を閉め、荷物を転がし上着を脱いだ。そしてそれ以外は何もせずに寝台に倒れ込んで眼を閉じた。
夜十時近くになって意識が浮上してきた。
手探りで手許のランプの紐を引き、その後で部屋の燈を点けた。
空港の売店で買っておいたサンドイッチを食べながら、窓辺に佇み、そこから町の夜景を眺めた。窓を少しだけ開けてみる。
初めて訪れた国の夜風とネオンの輝きに、何とも云えない心細さを感じる。この国の公用語は英語ではない。空港や高速鉄道の停車駅は観光客向けに英語の表示もあったので苦労することはなかったが、町中では観光客が訪れるような施設を除き、基本英語は通じないと思った方がいい。
資金面からいって、この国での滞在期間は一週間が限度だった。
ハルはスーズの通う大学を探すつもりだった。シギからは寮の情報ももらっていたが、無闇に三件ある寮を回るより、大学の門の前で待ち伏せした方が会える確率は高いと思った。母親の訃報がスーズの元へ入ったのが一月末日。もう今は二月半ばを過ぎている。この国の大学は二学期制で、一月の下旬から新しい学期が始まっている。葬儀等で実家に帰っていたとしてもそろそろ戻っているはずだ。
必ず見つける。
この町の何処かにスーズがいる。
早く会いたい。
ここ数日、徐々にハルはスーズの気持ちに考えが及ぶようになってきた。
もし自分と過ごした時間を幸せだと感じてくれていたなら、その記憶を幸せなままとっておきたいと思ったのかも知れない。親友の時のようにはしたくないと。母親の死を自分の中でどう受け止めるべきかについても、彼はずっと考え続けていたに違いない。
最初、ハルは傷つけられたことばかりに気を取られ、スーズの心情を想像する気になどなれなかった。彼の母親の死について聞いた時も、何故話してくれなかったのかと心の中で彼を責めた。何もかも見せ合った相手に、無言で置いて行かれたという事実にはひどく打ちのめされた。
断じて一度セックスしたから用がなくなって捨てられたのだとは思わなかったけれど、自分を信じてもらえなかったことはハルにとって大きな痛手だった。
自分はあの男とならどんなに暗い道でも手を取り合って歩いて行ける気がするのに。
もしこの国で会ったら、スーズはどんな顔をするだろう。
もしも。
もしも、顔を合わせて、互いのことをしっかりと見つめ合って、その直後に知らないふりをされたら、自分はその先どうやって生きて行けばいいのか。あるいは、この国にいる間にスーズが見つからなかったら?
人生は有限なのだから、どこかで見切りをつけなければならない。逸 れた魂を呼び続けるあまり、自分の足場を見失ってはならない。ユニのようにならないために。
けれど、こうしてここへやって来るチャンスを得たことにハルは運命を感じていた。スーズへの細々とした光の道がまだ続いている。ルイには本当に感謝しかない。遠慮もしたけれど、こうしてこの国を訪れて良かった。チャンスを与えられたら、行かないわけには行かなかった。こうするしかなかった。だからきっとこれが運命なのだと思う。きっと会える。
ハルはシャワーを浴び、すぐに寝台に潜 り込んだ。
きっと会える。きっと会える。
潜在意識に云い聞かせるようにハルは口の中で反芻した。一度眠ったため、しばらく寝つけないかと思ったが、電気が落ちるように意識は途絶えた。
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