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第84話

有名チェーンのカフェの前でブランは唐突に立ち止まった。 「ねえ、見て下さい。空港限定のメニューですって。これ飲みたい」 「いいね、美味しそう。じゃあここでお茶にしようか」 「ハルさん、ここでどうですか?」 「いいよ、もうどこでも・・・」 「やったぁ」 ブランとユニは店先の列をかいくぐり、奥のバルコニー席を確保した。ハルが注文の列に並んでいるとブランがやって来て、後輩らしく自分が並ぶと云ってくれた。なのでハルは先輩らしく三人分の珈琲代に足りる現金を渡した。 「何でお前等が見送りなんか」 席につきながらハルはユニに向かってぼやいた。 「あなたの所為ですよ。ブランが提案した送別会を断ったりするから」 送別会を固辞し続けていたある日、とうとうブランがユニに泣きついた。その時だけは久々にユニに眼で威圧された。 仕方なく、最後の出勤日の翌日に午前中の便で海外に行くから呑み会はできないのだと事情を話すと、それなら見送りに行きたいとブランに食い下がられた。 「空港でお茶しながら三人の思い出を語り合いましょう。その後でエスカレーターのところで涙ながらに手を振るってやつ、やってみたいです」 「俺は涙なんか出ないと思うけど」 「そこは頑張って泣きましょうよ」 「無茶云うな」 かくして、三人はターミナルの駅で待ち合わせることとなった。 「で、国外逃亡した彼氏を追いかけるんですか?」 「お前の云う俺の彼氏は何者なんだ」 「誰に会いに行くんです?」 「お前には関係ない」 ユニにスーズのことを打ち明ける気はなかった。ブランに理由を聞かれた時は単純に観光に行くのだと答えた。 「そうですか。でもブランも知りたがってましたよ。もしかして噂になってた外国人美女を追いかけて行くんじゃないかって」 「そんな噂、信じさせるな」 「冗談に決まってるでしょう。真面目な話、あれを聞いた時のブランは、本気で怒ってましたから。噂を流した犯人が分かり次第、問答無用で階段から突き落とすって云ってました。その後で便壺に顔を沈めて流してやる、とも」 「怖っ。何それ、お前止めろよ」 「まあ、あいつは何も知らずに過ごすんじゃないですか。莫迦だから。あなただって分かってたでしょ。ブランは頭が悪い。多分この先、仕事では苦労しますよ」 「そういう云い方するなよ。お前、ブランのこと好きなんだろ」 「ええ、莫迦な子ほど可愛いですから。でももっと好きなのは、歳上の莫迦な人です。知恵がある分、いじめ甲斐がある」 「最低だな」 「ええ、最低です。最初に付き合った人のことも散々にいじめました。今はその人も、海外にいますけどね」 それまでハルはユニの顔をちゃんと見ようとしていなかったが、この時だけははっきりと顔を上げた。 「・・・別れたのか?」 「生きてるうちは分かりませんよ」 その答えだけで分かった。そうか、まだ認めたくないのか、と。 この男は微かな錯乱の中にずっといるような人生なのかも知れない。いつかその雑音は止むだろうか。かつての恋人の思い出に勝るような出会いがあれば、この男は変われるだろうか。 以前、彼の部屋に行ったあの日からユニと二人で会うことはなくなっていた。互いに交信をしかけることもせず、今日まで淡々と会社で業務をこなすだけの日々だった。 ブランの様子が気になってハルはレジカウンターの方を振り返った。注文を終えて、ドリンクができあがるのを待っているようだ。視線を戻すと、一瞬優しげにブランの方を見つめるユニの表情が眼に入った。 多分、今日限りもうこの男と会うことはないだろう。 ひどい男だった。生意気で暴力的で、外面のいい悪魔だった。ずっと大嫌いだった。それでいてハルの知る限り、最も孤独な男だった。 この男の行く末がどうか優しいものであって欲しいと思う。 おかしいだろうか? この男にされたことを思い出すと今でも身が竦む。けれど今ではただただ同情する。 「お前、自分を大事にしろよ」 ユニに向かってハルははっきりと云った。 相手にどういう顔をして見られているかは確認しなかった。でもちゃんと聞こえていたと思う。ユニは何も反応しなかった。ただ黙っていた。 そこへブランが珈琲をトレイに乗せて戻って来た。 二人と別れた保安検査場の入口にエスカレーターはなかった。 だがそんなことをブランは既に忘れており、その焦茶色の瞳一杯に涙を湛えながらスーツケースをハルの手許へ返した。海外旅行をしたことがない彼は、スーツケースを転がしながら空港を歩いてみたかったのだと云って、直前まで荷物を持ってくれていたのだった。 「ハルさんには、本当にお世話になって。・・・俺、いつも迷惑ばかりかけてましたよね」 「そんなことない。お前が俺のところについてくれて良かったっていつも思ってたよ。仕事だって何だって続けていればそのうちコツを掴む。これからもユニに色々教わって頑張れ」 それからユニの方を見た。 「ブランを宜しく」 「はい、お世話になりました」 相変わらずブランの前では、そつのない受け答えと表情だった。 「また呑みに行きましょう。また連絡します」 と最後にブランに云われた。よくある別れの言葉だ。社交辞令に近い。実際は辞めた先輩社員と呑みに行こうなどと思い立つことがあるとは到底思えない。それでも嬉しかった。 知らない国へ旅立つ心細さがそんな風に思わせた一因だったのかも知れない。

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