83 / 100

第83話

四月一日付で、ルイの働いている会社に入社できることが決まった。 二月も半ばを過ぎた頃、面接を受けた三日後に、直接ルイから採用の電話連絡を受けた。 「入社説明の案内は後から届くから。本当に嬉しいよ。お前が来てくれるなんて」 「うん、色々ありがとう」 ルイの会社は最新の設備を兼ね備えたオフィスビルのワンフロアにあり、とても広くきれいだった。社員達は皆一様に、忙しそうではあるがとても充実しているといった表情をしており、センスがよく華やかだった。そんな環境を気後れしつつ眺めていると、硝子越しにオフィスにいるルイを見かけた。彼はとても有能な男に見えた。言葉はなくともついて行きたくなるような、そんな雰囲気が彼の全身から匂い立つようだった。 「先に断っておくけどさ、仕事の時にもしきつい云い方したとしても気にしないで欲しい。他の社員達と同じように接しないとまずいから。あんまり個人的に仲良くしてると・・・その」 「大丈夫。立場があるもんな。分かってる。俺も仕事中は上司だと思って接するから」 ハルは笑って答えた。同級生の部下というのを気にする人間もいるだろうが、自分はあまりそういうことは気にならないし、ルイなら構わないと思う。 「本当は職場でも気兼ねなく話したいんだけど」 「大丈夫だって、そのぐらい割り切れるから。全部、お前のおかげなんだし」 「云っとくけど、面接に受かったのは単純にお前の実力だからな。そこは自信を持て」 「ありがとう。仕事する時、細かいことは気にしないで。たまに仕事抜きで呑みに行ければ嬉しい」 ルイとまた高校時代のように毎日顔を合わせることができるようになるというだけで、ハルは充分次の仕事に対する意欲が湧き出てきていた。 どうあっても人は前に進まなければならない。たとえ、どんなにつらいことがあったとしても、落ち込んで枕を濡らしてばかりいるわけにはいかない。自分が生きていくために。 その後、会社の内情について少し触れた後、ルイは最近のハルの生活ぶりについて訊ねてきた。 「例の友達と連絡はとれたのか?」 「・・・それが」 結局あの日、空港でスーズを見つけることはできなかった。飛行機は一分の遅れもなく飛び立っていた。ハルはしばらく空港のロビーで呆然としていた。 その日からほぼ一週間後の土曜日に、ハルはルイから電話をもらった。翌週の月曜日に面接を控えていたハルに、励ましとアドバイスの言葉をかけようと連絡をしてきてくれたのだ。二、三言話しただけでハルの不安定な気配を察知したルイは、何かあったのかと訊ねてきた。既に数日が経過しており、何とか今の会社で退職前最後となる仕事はこなしていたものの、まだハルの中のショックは抜けきっておらず、一人になると途端にひどい気分になるのだった。誰かに慰めて欲しくて、ハルはもらった電話で散々に弱音をぶちまけてしまった。 その時、ハルはこの三か月でスーズがいかに自分にとって大切な存在になったのかをルイに語った。ただ、非常に悩んだが、スーズに対する恋愛感情や肉体関係をもったことまではルイには云えなかった。あくまで大事な友達だったという(てい)で話を進めた。それでも、感情的になるのを止めることはできなかった。スーズが何も云わずに帰国してしまったことを告げた時には、涙が出そうになった。 恐らくではあるが、この時ルイは、自分とスーズの本当の関係性に気づいていたのではないかとハルは思う。彼は今も、自分が本当のことを話すのを待っている。でも相手から打ち明けられない限りは決して何も訊かない。ルイは昔からそういう男だった。 シギはからはあの後すぐにメッセージが来た。軽薄そうに見えても彼は約束を守る男だった。 スーズの苗字、そして本国で彼が通っている大学名については留学サポートセンターに記録があったという。シギがインターネットでその大学を検索すると、心理学を学んでいると云っていたスーズが専攻しているであろう学部・学科名を知ることができた。 更にその大学は敷地外に七つの大型学生寮を所有していることが載っており、そのうちの四つが男子寮だった。全て住所も載っている。スーズが専攻していると思われる学部・学科の校舎から通える範囲にある寮は三件だった。だが調べられるのはここまでだったと云った。当然、そのうちのどれにスーズが住んでいるのかまでは調べようがない。 翌日、シギはドミトリーに行って他の留学生達に聞き込みをしてくれたが、スーズは他の留学生達とはほぼ表面的な交流しかしておらず、SNSも一切やっていなかったため、彼の個人的な情報を知っている人間は皆無だった。 行くしかないのだ。スーズに会うためには彼の国に渡り、彼がいると思われる学生寮を回って聞き込みをしてみるしかない。 だが、スーズの国までの往復の航空チケットの額を見てハルは愕然とした。 話を聞いたルイは、シギが調べてくれた情報だけでも充分に行く価値はあると云ってくれた。 「行けよ。仕事が始まってからじゃ時間はとれない。入社日は四月一日だから、会社説明は三月の末頃に設定するはずだ。お前は英語ができるんだから、現地でその辺の学生に訊き込めばその子に会えるかも知れない」 「もちろん行けるなら行きたい。パスポートはまだ期限が残ってるし、会社の方も再来週から有給休暇の消化に入る。そしたらもうそっちに入社するまでは時間があるんだ。問題は金なんだよ」 「ああ、なるほど」 これまで服や酒に金をかけてきた自分をほとほと莫迦だとハルは思っていた。だが去年の四月、語学教室に入会したのが一番痛い出費だった。あれよりも前なら、今回の旅費程度の額はすぐに出せたはずだ。いや、語学教室に行っていなければスーズにも出会っていないのか。 「・・・恥ずかしい話だけど、二月末でこっちの会社は退職になるから、ひと月日常生活を送るので精一杯だ。とても海外なんて行ける状況じゃない」 「いくらぐらいかかるんだ?」 「平日のエコノミー席の格安航空券が往復で十万いくかいかないぐらい。現地の外国人向けのホテルは大体一泊一万ぐらいかな。でも実際に行く時はもっと安いところに泊まるつもり」 「だめだ。海外だろ。現地の治安も分からないのに、相場以下のホテルに泊まるのは危険だよ」 それからルイはまたしばらく考え込んでいた。そして思いついたように突然、あ、と云った。 「俺個人の株が四十二万ぐらいだったかな。確か売ればそのぐらいになる。それを全額貸してやるよ。そしたら行けるな」 「はあ?何云ってるんだ?」 電話口でハルはびっくりして声が裏返りそうになった。 「ルイ、四十二万なんて」 「小さい額だけど独身の時からこつこつ数年かけて株をやってたんだ。とは云っても配当金だってほぼないぐらいの、趣味の一環みたいなものなんだけどさ。それを現金化するよ。振り込まれるまで、四日ぐらい待って欲しいんだけど」 「冗談じゃない。友達からそんな大金、借りれるか」 「別にやるって云ってるわけじゃない。うちの会社に入社したら月一万ずつでも返してくれればいいよ」 「莫迦云え。お前の奥さんに殺される」 「あいつは何も知らないよ。俺が持ってる株になんか興味もないし、あてにもしてない。家族の貯金は別で、あいつがちゃんと全部管理してるし」 「だからって」 「お前には恩がある」 ルイはハルの言葉を静かに遮った。 「お前が俺のために停学になりかけたこと、憶えてるか?」 それを聞いてハルは口を噤んだ。 高校二年生の時、ハルとルイの学年で盗難事件が立て続いた時期があった。その犯人として、ルイが疑われた。ハル達だけは嘘だと分かっていた。ルイとしばらく付き合ってふられた女子生徒の仕業だった。窃盗の犯人は彼女ではなかったが、逆恨みで教師達に虚偽の申告をしていたのだ。だがそれが分かったのはずっと後のことで、当時のハル達はルイのために反証できるものを何も持っていなかった。 ルイがいなければ自分は高校で孤独だった。きっと何も分からず一人浮いていた。 大学の推薦を失うぐらいなら構わないと思った。今思えば身代わりになろうなどと、完全に若気の至りだった。ハルは担任の男性教師に、自分こそが犯人だと名乗り出て頭を下げた。 幸いにも担任は莫迦ではなかった。彼はルイもハルも犯人ではないと分かってくれていた。彼が動いてくれなければ、自分達二人もうち、どちらかは確実に停学処分を受けていただろう。それからしばらくして、窃盗の真犯人は別のクラスの普段は目立たない男子生徒だったと風の噂で聞いた。ハルが身代わりになろうとして名乗り出たことを、担任はわざわざルイに云ったらしい。 「十七歳のお前の覚悟に較べたら、四十二万なんてはした金だよ」

ともだちにシェアしよう!