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第82話

自分以外の人間のことを真に理解することなど決してない。 寂しいことに、自分がずっと云い続けてきたことがこんな形で証明されてしまったと感じた。 スーズの跡を追わなければと思った時、はたとハルは思いとどまった。 ハルはスーズの苗字すらはっきりとは憶えていなかった。彼の苗字を耳にしたのは一度きりだ。学校祭でのスピーチの直前だった。壇上に登るスーズを見ながらそれが苗字なのかと思ったがすぐに頭をすり抜けてしまった。独特の難解な発音が記憶に残らない要因でもあった。そしてハルは、スーズが本国で在籍している大学の名前も、その大学が何処にあるのかも、彼が登録されている正式な学部名も、故郷の町の名前も、何一つ知らなかった。自分が愛した相手のことをいかに知らなかったのか、ひたすら思い知らされる羽目になった。 この日の細かいことはよく憶えていない。 ただ、ひたすら胸の内側に冷たいものが走っては消えた。ハルはスーズの携帯にメッセージを送ってみたが、いつまで経っても返信は来なかった。 どうして。 どうして。 スーズに裏切られたと感じた。僅か数時間前にあれほどの愛を囁いておきながら、どうして何も云わずに立ち去れるのか、いくら考えてもハルには理解できなかった。 スーズの大学に電話をしても無駄なことは分かっていた。大学側が生徒の個人情報を漏らすはずがないのだ。大抵は呼び出しも受け付けてもらえない。第一、この日は日曜だった。 そうと分かっていても居ても立ってもいられず、ハルは最短で身形を整え、電話でタクシーを呼んだ。スーズの大学にあるドミトリーに向かうためだ。 大学の門は閉まっていた。 そこは二か月前に訪れた時とは全く違う雰囲気に包まれていた。完全にハルの知らない場所だった。門は冷たく閉ざされ、敷地内には人の気配すら感じられなかった。 それでも軽く門を押すと開いたので入ろうとすると、すぐ傍の警備員ボックスから声がかかった。 休日は学生証か職員の出勤カードをチェックしている、持っていないのなら事前申請なしに敷地には入れない、とその警備員は云った。 昨今の大学はここまでうるさくなっているのか。ハルは半ば苛立った様子で学生証は持って来ていないと告げた。 「忘れ物をしてしまったんです。どうしても月曜の課題提出に必要なものなんです」 それを聞くと警備員は非常に事務的な態度で、紙を一枚取り出してきた。 「学籍番号と氏名をここに書いて。何か他に名前が確認できる身分証明書ある?」 渡されたペンを手に取ったものの、ハルは内心、狼狽(うろた)えていた。身分証は保険証ぐらいしかない。当然、生年月日も載っている。会社員であることがばれやしないだろうか。どうこの場をやり過ごすか考えていると、横合いから声をかけられた。 「あれっ」 その顔には見覚えがあった。十二月初めの学校祭で出会った、留学生サポートメンバーのリーダーだった。スーズが非常に優秀だと褒めちぎっていたあの法学部の学生だ。 「ちわっす、ハルさん。お久しぶりです」 驚いたことに、一度会っただけのハルのことを彼は憶えていた。 一方ハルは彼の顔は憶えていたが、名前は出て来なかった。互いに名乗らなかったと思っていたが、相手はちゃんと自分の名前を呼びかけている。ハルがまごついたのをすぐに察知したその学生は、 「ああ、名前、シギって云います。今日はどうしたんすか?」 と、にこやかに、以前と変わらない軽薄さを醸し出しながら挨拶をしてきた。 「ねえ、スーズって今何処にいるか知ってる?」 ハルは警備員も記入用紙も放り出してシギに訊ねた。頼れるのは彼しかいないと思った。 「え?スーズならもう帰国しましたよね」 一番恐れていた言葉が聞こえた。ハルは今自分が何処に立っているのかを忘れて相手に縋りついた。 「嘘でしょ?昨日試験が終わったばかりだっていうのに。成績だってまだ出てないはず」 「えっ、聞いてないんすか?スーズのお母さん、亡くなったんすよ」 錯乱しかけたハルをその言葉が現実に引き戻した。返す言葉を失くしたハルは震えながら、 「いつ?」 と訊き返すのがやっとだった。 シギの話では、木曜日に大学を通じてドミトリーに連絡があったらしい。事情を知っているのは大学の職員を除けば自分くらいで、他のサポートメンバーや留学生仲間は知らないはずだということだった。 「俺も詳しいことは聞いてなくて。金曜の朝、スーズからとにかく急遽帰国するってことだけ云われたんです。日曜の便で帰るって。あんまりにも急だからおかしいと思って、事情を執拗(しつこ)く訊いたんですよ。そしたら、お母さんのことを教えてくれました。亡くなった理由はとうとう聞けなかったんですけど。周りに気を遣わせたくないから身内が亡くなって帰国したってことは他言無用で、しらを切り通してくれって云われました。でもあいつは、あなたにだけはちゃんと伝えてるんだろうと思ったんすけど」 木曜日、連絡を受けてからすぐに帰ることを大学の職員は勧めたらしいが、スーズは土曜日の午前中まである試験を全て受けてから帰ると云って聞かなかった。本国には他の身内もいるし、帰国の準備をしっかりしたいからということで、スーズの希望を聞き、学生課が今日午前中の便を手配したとのことだった。 今、あの男の傍にいてやらなければならない。ハルは衝動に駆り立てられて震えた。 「行かなきゃ」 「もう飛行機は出てますよ。スーズは十一時の便を取ったって云ってましたから」 既に時刻は十二時前だった。 「遅れが出てるかも」 「携帯で確認した方がいいですって」 ハルはその言葉に従わず、シギの横をすり抜けようとした。 とん、と肩を軽く押された。何かの間違いではなく、意思をもって止められたのが分かった。 「今のあなたどう考えても変です。眼がやばいっすよ。ぶっちゃけ正気を疑うレベル?」 「ごめん、今は話してる時間ないんだ。スーズのこと、教えてくれてありがとう」 ハルは心配は要らないという風に弱々しく微笑んでみせたが、シギは引き下がらなかった。 「そこを通して」 「まあ勝手にすればいいと思いますけど、連絡先交換しません?すぐ済むんで」 「何で?」 「サポートメンバーの中にスーズ個人の連絡先知ってる奴いないか訊いときますよ。あと他の留学生達にも」 この学生の、思いもかけない親切な申し出にハルはびっくりした。 「俺のこと、疑わないの?」 「あなたが実は怖い人で、国境を越えてまで何かしらのネタでスーズを強請(ゆす)ろうとしてるとかだったら困るんすけどね」 シギはハルが手にしていた携帯電話を指先で叩いた。連絡先を登録するから早くしろと云うのだ。 「学校祭に友達を連れて来るって云った時のあいつ、すごい嬉しそうな顔してましたもん。俺あんなん初めて見ましたよ。俺等の役目って留学生達にとっての現地の一番の友達になることだと思ってるんですよ。でもスーズのほんとの友達はあなただった。お母さんのことについては多分、心配かけたくなかったんじゃないすかね、あいつ。まあ、残された側は、いいからそういうの、本当のこと云ってから行け、って思うわけだけど」 シギは慣れた手つきでメッセージアプリのQRコードを読み込み、すぐにメッセージを送ってくれた。 「はい、じゃ後で登録しといて下さい」 「ありがとう」 「気をつけて」 取り乱している時に冷静な人間と話すのは良いことだ。ハルはシギと会えて良かったと思った。休日の大学で、あのタイミングで彼と出会えたことに感謝せずにはいられなかった。 とはいえ、ハルはその足で空港に向かった。他に何をしていいか分からなかった。たとえ〇.一パーセントでもスーズがいてくれる可能性があるならその時のハルは何処へだって行った。

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