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第81話

「・・・鳩は、何で二羽なんだと思います?」 「それは俺もこの前まで分からなかった。でも昨日それが分かった」 ハルはカーテンレールにかけられた昨日のスーツをちらりと見た。 「結婚式の入口でウェルカムボードに二羽の鳩が描かれてたんだよ。考えてみれば、ウェディング関係で(つがい)の鳩のモチーフってよく見ないか?結婚とか良縁とか、そういう意味があるんだよ」 それからハルはちょっとスーズの顔を見上げ、再び自身の掌に視線を落とした。 「本当はお前と結婚したかったのかも」 こんなことを云っても、どうにもならないことは分かっていた。余計につらくなるだけなのかも知れない。ここまでにしようとハルは思った。既に立ち入りすぎてしまったと思うし、本当のところ、スーズの親友がどうして他の女との結婚を決めたのか、その真の理由までは分からない。けれど、人生で出会える人間のうち、大切だと思える相手なんて限られているのだから、解ける誤解は解いてやりたかった。 忘れたわけじゃない。できればずっと一緒にいたかった。 鳩が二羽描かれているのはそういう意味もあったのかも知れない。 その時、スーズが何か云った。その切実で微かな囁きは、淡雪のように彼の吐息の中で溶けた。聞き慣れない発音だった。多分親友の名前を呟いたのだと思う。けれどそれは、はっきりとはハルには聞き取れなかった。 「あなたと会えて良かった」 スーズは二羽の鳩を見つめてそう云った。自分に向かって云った言葉なのか、かつての親友に向けられた言葉なのか、ハルにそれは分からなかった。それきりスーズは視線を逸らし、もうハルの手にあるピンバッジに触れようとはしなかった。ハルは預かったそれをデスクの抽斗の中へそっとしまった。 肌寒さを感じて少し腕を擦りながら振り返ると、スーズは自分のシャツを着せてくれた。 「一度やってみたかったんです。こういう、自分の服を恋人にかけてあげるっていうの」 スーズは裸で少しおどけたように笑った。無邪気さを感じさせる若い子らしい笑顔だった。 ハルは運命を憎んだ。もし神というものがいるのなら残酷だと思った。どうして自分達の距離を、最初からもっと近いものにしてくれなかったのか。どうして無駄な云い争いなどさせたのか。スーズも多分それに近い気持ちでいたのだと思う。電子煙草を吸おうとするハルの後ろで横たわったまま、静かに彼は呟いた。 「どうしてあんなにあなたを抱くのを躊躇っていたんでしょうね。もっと早く自分の気持ちに気づいて、決断していれば良かった。何でもっと早く」 「俺の人生でした全部のセックスを足しても、この一回には敵わない」 そう云いきって振り返ってはっきりとスーズと眼を合わせた。 「この一度でも充分だよ。愛があった」 そこで初めてスーズは安心したようだ。 「以前は決してそんなこと云いませんでしたよね。・・・アールのことを話した時。私が彼を愛しているのかといくら訊ねても、あなたは頷かなかった。あの時のあなたは、最後まで愛という言葉を遣わなかった」 「愛なんて信じてなかったから。みんな他人を自分の思い通りにするために愛って言葉を遣ってるんだって思ってたよ」 ハルは電子煙草を口から離し、最初の煙を吐き出して少し間を置いた。 「・・・お前は自分の母親のことなんか思い出したくもないのかもだけどさ」 何気ない風に切り出したが、この話題を出すのはすごく勇気が要った。 「俺はお前の母親に礼を云いたい。お前を生んで、この国の言葉を教えてくれた。だからこうやって話せる。・・・それが今すごく嬉しい」 「それなら私もあなたのお母様に礼を尽くさなければ」 意外にもスーズはすぐにそう返してきた。振り返ると、その表情は穏やかだった。 「あなたがお母様をどう思っていようと、私はあの人に感謝します。あなたを生んでくれたこと、英語を身近にしてくれたこと、あの日私を食事に誘って下さったこと。だからあなたと関わることができた」 「・・・それならアールにも礼を云わなきゃ」 「あの人にまで?」 スーズは屈託なく笑っていた。 「お前があいつと寝てなかったら俺はそこまで気にしなかったよ。・・・お前は今でもアールのことが嫌いかも知れないけど、あいつは俺に愛がどういうものかって話してくれた」 「彼は何て?」 「相手を理解しようとする姿勢。相手の幸せのためならいつでも身を退く姿勢。それがあいつの云ってた愛だった」 「なるほど」 「多分、俺の母親にも、あの人なりの愛があるんだと思う。でもそれは未だに俺には分からないし、合わない」 そこでちょっと体を伸ばした。 「あの人は俺を信じてない」 スーズは起き上がって、ハルの隣に腰を下ろした。彼との距離が近くなったので、まだ電子煙草は残っていたがハルは吸うのをやめた。 「いくら良いものでも、押しつけようとすれば逃げたくなる。相手のそのままの心に寄り添おうとする姿勢。ただ黙って相手の全てを受け止める。何があっても、どんな心にも寄り添う。それが私の愛です。いつも、心がけてる」 スーズはハルの体を抱き寄せながら訊ねてきた。 「それで、あなたは?」 「云っただろ。好きな相手のためなら傷ついてもいいと思うことだよ。お前のためなら」 ハルは答えた。煙草を置いてスーズの胸の中に入り込んだ。 「私も、あなたに寄り添いたい」 押しつけた胸から聞こえてくる鼓動と、響く声がハルの全身を包んだ。 「憶えていて下さいね。どんな時でも私はあなたに寄り添う。あなたにはいつも私がついてる。私はあなたの味方です。私の心が必ずあなたの傍にいる。私は生きている限り、何処からだって、毎日心をあなたに運ぶ。いつもあなたを想っています。忘れないで」 スーズはそう云って眼を細めて微笑んだ。 ハルの意識はそのあたりから間遠になる。 憶えているのはスーズが仰向けになって小さな欠伸を咬み殺していたこと。 そしてそのまま彼の方が先に寝入ったこと。ハルの髪に顔を寄せながら。 その温もりに触れているうちに、ハルにも逆らいがたい眠気が襲ってきた。 窓の外からトラックが過ぎ去る音が聞こえてきた。もっと遠くで救急車のサイレンの音が鳴っていたように思う。 闇に落ちるように深く眠り、明け方に一度ハルは眼を覚ました。白々と空の闇が薄くなり始めた時間帯で、空気が澄んでいた。スーズはまだ眠っていた。その胸の中の温もりは更に増し、鼓動の音だけは変わらなかった。 二十八年かけて、自分が辿り着いた場所はここだった。 きっと自分はこの先、何度でもこの胸に還ることを求めるだろう。 微睡みながらもそのことだけははっきりと分かった。 次に目覚めた時には、既に陽が高くなり始めていた。町の空気が動いているのを窓の向こうの気配から感じる。 まずい。スーズのシャツを着たままこれほど長く眠る気はなかった。シワになってしまうと起き上がって布地を確かめようとすると、隣にいたはずのスーズがいないことに気づいた。 全身に充ち溢れていたものがすうっと抜けていくのを感じた。 瞬時にハルは全てを理解した。寝台から転げ落ちるようにして抜け出し、玄関のたたきを見る。そこにスーズの靴はなく、トイレやバスルームにも人の気配はなかった。近くのコンビニにでも行ったのか。 いや、多分違う。 薄暗い玄関に立ち尽くして、ハルは状況を呑み込み、次に何をすべきか考えていた。 ハルはシャツを着たままだった。置いて行ったのだ。シャツごと、この体を置いて行ったのだ。昨日吞みかけのまま放置したチューハイは片付けられ、缶はなくなっていた。きっとスーズが持って出たのだろう。 考えている暇なんかなかった。 大急ぎで携帯電話を探しにかかったがすぐには見つからず、自分を殴り倒したい衝動に駆られた。昨晩、充電器に本体を繋がなかった所為だ。 バスルームの脱衣所で携帯電話を見つけ、スーズの番号を探し出す。昨晩シャワーを浴びる際に置き忘れ、充電するのも忘れていたのだ。 呼び出し音は鳴らなかった。電源が切れているか電波が届かないところにいる、という無機質なアナウンスが流れるばかりだった。

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