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第80話

挿入のために後ろを向いていたので、スーズの吐息がハルの耳や首筋にかかった。 「大丈夫ですか?」 スーズは静かな声で再びハルを気遣ってくる。 ハルは頷き、傍にあった彼の手の甲に指先で触れた。すぐにスーズはハルの手の甲に掌を重ね指を絡ませてきた。 「平気。・・・大丈夫」 この男を喜ばせたかった。遠慮なんてさせたくなかった。どうにかこの体を使って気持ち良くなって欲しいと思っているのに、先程からスーズは奉仕に徹し、この体を気遣ってばかりなのがハルにはやるせない。理性の残骸を必死でかき集めて、ハルは余力があるふりをした。顔が見えないのをいいことに、声色だけに全神経を集中させた。 「・・・好きに動いていいよ」 たまゆら、スーズの手に鋭い電流が走ったような気がした。薄い皮膚の下で細かい筋肉の動きがあった。 「あっ」 少し荒っぽい手つきで腰を掴まれると、更にスーズが体の深いところへ入り込んで来るのが分かった。 ハルは言葉を呑み込み、強く眼を閉じて、違和感と圧迫感が通り過ぎるのを待った。眼を開き浅く息を吐きながら、自分の中に脈打つ存在を内側の感覚で確かめた。 ここまできてやっと互いの体がぴったりと繋がった気がした。この充足感を待ち焦がれていた。シトラスの淡い香りが、スーズの肌の匂いと混じり合ってくらくらする。 体のごく浅い部分まで潮が引いたかと思うと、再び最奥まで貫かれた。律動と共に快楽のうねりがハルを襲ってきた。深く愛撫され、情動を突き動かされる度、ハルは愛していると云われている気がした。 自分の全てを明け渡してもいいと思える。相手の全てを受け入れてもいいと思える。 快感の波高が急激に上がり、溺れまいとしてハルは必死に敷布を握り締めた。 二人の手と手が更に強く絡んでいた。この手が自分を遠くまで連れていってくれる。本当にそんな気がした。自制心を働かせることもできず、甘美な息苦しさにハルはただ喘いだ。 スーズは絶頂がやってくるのを逸らすためにあるところで切実な様子で動きを止めた。できればもう少し、長いセックスをしたいと思っているのだろう。だが、ハルの方が既に限界だった。ねだるように腰を動かして、 「やめないで」 とあえかに漏らす。思っていた以上に甘ったるい声が自身の耳に届いた。 敷布の一部が既に濡れていた。だらしなく先走りの汁が漏れていて、体が揺らされる度にそれぱたぱたと飛び散っていた。我慢できなくなってジェルに塗れた性器に自分で触れようとするとその腕を後ろからスーズに掴まれた。その間も切れ目なく抽挿を繰り返され、滴下していた快感が間もなく爆ぜるのをハルは確信した。 体の奥で波打つものを感じた瞬間、ハルは(かそ)けくな呻き声をあげてのけ反った。 訪れた絶頂の最中、シトラスの波にくるみ込まれて頭の中で光が明滅した。 明かりを点けっぱなしだったことがじわじわと体の内側に恥じらいを生み始めた。 呼吸が整った頃合いに、ハルはそっとスーズの腕に触れた。 「どうだった?」 感想を求められたことに少々途惑いながらもスーズは口許で微笑んだ。 「あなたはきれいでしたよ。・・・眩しかった」 少し疲労感を滲ませた様子でスーズは云った。 「え、俺が?」 「朝露ののった花の蜜を飲んでいるようでした。爽やかだけど、とても甘かった」 ハルにも多少の消耗があった。相手の声が体の中に沁み入ってくる、心地良い疲労感だった。 「それで、私はどうでした?」 「海みたいだった」 即答したハルに対し、少し面喰ったような間が相手の方にはあった。 「海、ですか」 「うん」 もう少しで溺れるところだった。 そう云いかけたのを、片腕を口唇の上に乗せて防いだ。 今、ハルはすごく気分が穏やかだった。何もかもが洗い流されたような心地で、体が軽くなった気がしていた。 「もう一つ訊いていい?」 射精後の眠りに落ちてしまう前にと、ハルは気になっていたことを切り出した。 「捨てたの?あのピンバッジ」 スーズは腕の翳りの下で瞼を開いた。 「あなたが私を受け入れてくれたら、けじめとして捨てるつもりでした。・・・すみません、こういうのって何だか卑怯ですよね」 「別に何も卑怯なんかじゃない。俺のために捨てるとか云うなよ。お前が持ってるのがつらいって云うなら俺にくれればいい」 「どういう状況なんですか、それって」 スーズは笑い出した。 「今、お前の中でわだかまっていることなんて長く生きてればそのうちなくなる。あれには心が籠ってる。俺に悪いと思うなら隠し持ってればいい。捨てるぐらいなら俺が預かる」 「・・・では、あなたに」 スーズは寝台の下に落ちていた自分のスラックスから、そのピンバッジを取り出してきた。 「お願いします。いつか、私がもっと歳を重ねて、もっと多くのことを受け入れられるようになったら。その時にもう一度、あなたからこれを返してもらいたい」 そう云ってハルの掌の上にきちんと留め具がついたピンバッジを置くと、長いことその手を両手で包んでいた。 「・・・これ、この鳩の図柄。意味、分かってるんだよな?」 そう訊かれると、スーズは少し間を置いてからハルの手を放した。 「旧約聖書に描かれた鳩がモチーフなんだと思います。平和の象徴ですよね」 「・・・それだけ?」 スーズはきょとんとしていた。 「これはアンティークのジュエリーによくあるデザインだよ。旧約聖書の鳩なら咥えているのはオリーブの葉っぱのはずだ。でもこの図柄では花を咥えてる」 ハルはスーズがよく見えるように絵柄を真っ直ぐ彼の方へ向けてやった。 「うちの母親が似たデザインのブローチを持ってた。アンティークの装飾品の中でも、センチメンタルジュエリーって知ってるか?」 「・・・いえ、すみません」 「愛する人間に永遠の愛を誓うジュエリーだよ。多分、それを真似て作ってる」 センチメンタルジュエリーは他にもロザリオに代表される宗教の信仰を誓うジュエリーや死者を悼むためのモーニングジュエリーも入るが、スーズに余計な情報を聞かせるのはやめておいた。スーズに贈られたこのピンバッジに関しては、モチーフからいって意味は一つしかない。 「俺の母親が持ってたのは、よくできた模造品だったと思うけど。このデザインは昔、戦地に行く兵士が愛する者に贈るものだった。この花は勿忘草(わすれなぐさ)だよ。その花の意味ぐらいは分かるだろ?」 今度はスーズは何も答えなかった。ハルもそれ以上追及はしなかった。 私を忘れないで。 顔を見ていれば分かった。スーズは意味を知っている。彼は口唇を噛みしめて、湧き上がってくる何かを落ち着けようとしていた。

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