1 / 6

第1話

 1  火をつけた煙草の先が赤く燃える。  チリチリと葉を焼く音が聞こえるような気がして、佐和紀(さわき)はくわえたショートピースを吸い込んだ。  舌に苦みが乗り、鼻には心地のいい香りが抜ける。  残暑厳しい晩夏の日差しも届かない国際線ターミナルの、さらに小さく仕切られた喫煙ルームの中だ。高性能な空気清浄機はフル稼働だったが、濃い煙草の煙は尾を引いた。  ガラス張りの壁の外には、佐和紀の世話係の三井(みつい)敬志(たかし)がひとりで立っている。ハーフアップで結んだ髪と、明るい色のシャツ。腰の後ろで組んだ手がライターを弄んでいる。  そこへ、男が近づいた。薄手のジャケットと綿のパンツが軽やかな好青年だ。ふたりは短い会話を交わして別れる。青年が喫煙ルームに入るのを見もせず、三井は佐和紀を中に残して、その場を離れた。 「ここにいたんですね、佐和紀さん」  喫煙ルームへ入ってきた青年が佐和紀に話しかける。他に人はいない。  黒髪の毛先が少し巻いているのは天然だと、つい最近知った。金髪を短く刈り揃え、いかにもチンピラなゴールドチェーンネックレスがトレードマークだった石垣(いしがき)保(たもつ)はもういない。  佐和紀の前に立っているのは、海外留学へと華々しく旅立つ将来有望な青年だ。 「もう中に入るのか」  トランクはもうすでに預け、チェックインも済んでいる。あとは保安検査場を通り、出国審査へ向かうだけだ。 「忙しいアニキの……岩下(いわした)さんの、時間を無駄にするわけには……」  石垣が胸ポケットから取り出したのは電子煙草だ。口にくわえるのを見て、佐和紀は無言のままで手を伸ばした。もぎり取ってポケットへ戻し、自分の吸っていたピースを石垣のくちびるへ差し込んだ。 「佐和紀さん、俺、ショッピ(ショートピース)は」 「……知るか。なにが禁煙だ」  舌打ちついでにつんと顔を背ける。慣れない両切り煙草を用心深く吸った石垣は、ゆっくりと薄い煙を吐き出す。指でつまんだ煙草はチリチリと燃え、確実に短くなっていく。 「機嫌、悪いんですね。シンさんが、朝からずっとだって言ってました」 「別に。いつも通りだし」  ハイチェア代わりに置かれた鉄のレールに腰を預け、紺のレース地で作った羽織の下の、抜き染めの阿波しじらを指でしごく。博多織の角帯を手で押さえ、雪駄を足の指先にひっかけて揺らした。  煙草を手にした石垣の人差し指には銀色の太いリングがはまっている。周平と佐和紀が餞別代わりに送ったメモリアルリングだ。 「本当は、秋の京都にご一緒したかったです。いつか、そんな話をしたじゃないですか」 「はぁ? したっけ、そんなの……」 「忘れたならいいんです。去年はいろいろ忙しくてそれどころじゃなかったですよね。佐和紀さんのロングヘア、よかったですよ」  姉御分の京子(きょうこ)に頼まれ、銀座のキャバレーを救った一件だ。女装のために長い髪のエクステンションをつける羽目になったのだ。 「それ、いま言うことか? もっと他になにか、あるだろ。おまえ」 「そうですね。あると思うんですけど」  指を焼きそうなほど短くなった煙草を灰皿へ捨てる。 「なにを言っても未練になりそうです」 「……弱いこと、言ってんなよ。いまさら。組に籍もないし、日本にいたって意味ないだろ」 「それでも、って思ったら、ダメなんですか」 「ダメ。……決まってんだろ。おまえさ、もうどこから見てもヤクザじゃないし、チンピラでもないし。びっくりするぐらい、いいトコのお坊ちゃんだよ。もうなにも言うことないよ。元気でやってくれ」  ふっと息をついて、佐和紀はレールから腰を離した。帯を据え直す瞬間に、石垣が動く。  肩が軽く押され、右手が阻まれる。覗き込むように近づいた顔はいつものようには止まらなかった。 「……っ」 「『油断大敵』。タブレットで調べてくださいね。行ってきます」 「おまえ……っ」  殴るタイミングを完全に逸した佐和紀は、ふらふらと壁にもたれかかる。三歩引いた石垣は、金髪のときには想像もさせなかった育ちの良さで不敵に笑う。 「愛してます。忘れないで」  満足げな顔でくるっと踵を返し、足取りも軽く喫煙ルームを出ていく。その向こうに、ふたりを呼びに戻ってきた三井がいる。  くちびるを拭っていた佐和紀は、ぎりっと眉を吊りあげた。 「なに、その顔……」  たじろいだ三井を押しのけて外へ出ると、キスを奪った石垣の姿はすでになかった。 「なにがっ……あい……っ、ふっざけんなっ」  口にするだけでめらめらと怒りが燃える。  昨日の夜から重かった胃の奥にマグマがたぎり、佐和紀は着物の裾を激しく乱して歩き出す。三井が慌てて追ってくる。  行き交う旅客たちが、そんなふたりを物珍しげに振り返った。 「佐和紀っ……。待てって、佐和紀……」  追いついた三井に肩を掴まれ、足を止めずに振り払う。 「いまさら、言い争いするなよ。やめろってば……っ」 「黙ってろ。殺すぞ」  佐和紀の勢いに目を丸くした三井が、なにもないところでつまずく。放っておいて、前を見た。  列ができている保安検査場を行き過ぎ、ステータス優遇者専用の出入り口を目指す。石垣はそこにいた。手荷物を肩からかけ、自分のしでかしたことを微塵も悟らせず、周平(しゅうへい)と岡村(おかむら)を前に最後の挨拶をしている。 「シンっ! そいつ、止めろ!」  佐和紀が叫ぶと、石垣は身をひるがえした。やはり、そのまま検査場を抜けるつもりだ。  動きは石垣が早かったが、岡村も場慣れしている。しかも佐和紀の命令とあれば、言葉を理解するよりも早く身体が動いた。伸ばした手が荷物に払われたが、とっさに足を伸ばして引っかける。声をあげてけつまずいた瞬間に、石垣は首根っこを掴まれた。 「ほら、挨拶しないからだ」  なにも知らない岡村が笑って言うのを聞きながら、速度を落とさずに佐和紀は駆け寄った。伸ばした片手の袖が揺れ、指先が石垣の首筋に触れる。  三井が「あっ」と叫んだ。  ふたりの顔が近づいた瞬間、周平と岡村がどんな表情をしたのかは知らない。しかし、次の瞬間、ゴンッと鈍い音が鳴った。かぶせるようにして、石垣の呻き声がむなしく響く。 「かっ、は……っ」  膝から崩れ落ちた石垣がのたうち回るのを、岡村と三井が呆然と見下ろした。駆け寄った勢いで、頭突きとみぞおちへのパンチをダブルで食らったのだ。 「たもっちゃ~ん。みっともないよ~」  三井が同情を滲ませたのは声だけだ。転がる石垣の腰あたりを踏みにじる。 「姐さん?」  なにごとかと驚いている岡村が佐和紀の無表情に気づく。 「タモツ。さっさと行け」  斜に構えた佐和紀は言った。  さもなくば事情を暴露すると、冷たい声に隠して脅す。腹を押さえた石垣はのろのろと立ちあがった。涙目になった顔は痛みと驚きでくしゃくしゃに歪んでいる。 「いや、ちょっと待て」  声を挟んだのは、黙って見ていた周平だ。最後のお辞儀を済ませようとしていた石垣の肩が大きく震えた。 「なにの騒ぎか、説明して行け。まだ時間はあるだろう」  周平の声は、いつになく美しく、そしていつになく冷たく冴えていた。佐和紀も思わず振り返る。  そこには想像通りの、冷徹な男がいた。佐和紀だけはめったに見ることができない氷点下の周平だ。ライトグレーのジャケットパンツに深みのある緑のカットソーを合わせ、黒縁の眼鏡も凛々しく、凄味を感じさせる色気がある。  事実、三井はぶるっと震えた。 「佐和紀さん、あとはお願いします!」  見た目だけはチンピラから脱した石垣が一息に叫んだ。腹と額の痛みもぶっ飛んだ勢いで、今度こそ脇目も振らずに逃げ出す。あっけに取られていた三井が荷物で殴られたのは、もらい事故のようなものだ。  保安場へ駆け込んだ石垣は、一瞬だけ振り向き、あたふたとしたまま消えた。最後の表情は、泣いても笑ってもいない、痛みをこらえて焦った顔だ。  それが、残された面々の脳裏に残る。 「なにをお願いされたんですか」  まず切り出したのは岡村だった。冷静なそぶりをしているが、必要以上に感情のない声は動揺の裏返しに違いない。自分に下心がある分、同じように横恋慕を続けてきた石垣の行動が読めてしまうのだ。 「知らないよ。そんなの」  佐和紀はしらばっくれて顔を背ける。そのまま周平の腕に掴まった。  岡村の視線が三井へ向く。 「タカシ、おまえは知ってるんだろう」 「え? 知らないって……。だって、喫煙ルームにふたりで入っただけだよ? 俺はトイレ行ってたし。煙草吸う以外に、なにがあるんだよ」  舎弟ふたりのやりとりを聞きながら、ポケットに手を入れた周平が歩き出す。促された佐和紀は、着物の袖に隠れてさりげなく腕を絡め、ポケットの中へと指を追った。温かな肌に触れると、石垣に対する怒りと喪失感がいっそう複雑に絡まり合う。  その混沌とした感情を、周平は問わなかった。  お互いの指の間をなぞりながら寄り添うだけだ。 「ちょっ……。キスしないでよ。国際線っていったって、ここ、日本ですから!」  三井が声をひそめながら追いかけてくる。一方、 「まさか。あいつ……」  ひとりで憎悪を燃やし始めた岡村の声が遠ざかった。 「シンさんっ。無理だからぁッ! 追えないから! ちょっ、さわ、姐さんっ! 止めて、止めて!」  慌てて戻った三井のヘルプが飛んできても、佐和紀は相手にしなかった。無視して歩くと、代わりに周平が足を止めた。  振り向くと、それだけで舎弟ふたりは静かになる。  周平の腕に掴まっていた佐和紀は、もう後ろを見る気もない。その首筋に息がかかり、 「帰りは俺の車に乗るんだろう?」  周平に耳打ちされる。  空港まではコンバーチブルの助手席を断り、舎弟たちと一緒に岡村のセダンで来た。それが楽しかっただけに、送り出したあとは寂しくなる。  帰りはふたりきりでいたい気分になるはずだと、十歳近く年上の旦那は、嫁の性分を完全に読み切っていた。 「いっそ、膝に乗りたい」  ぼそりとつぶやいた一言に周平が笑い、かすかな息遣いで耳元をくすぐられる。  冷静さを取り戻した岡村が、石垣の乗った機体が飛び立つのを見に行こうと提案した。三井はさっそく、搭乗口へ向かっている石垣へ最後の電話をかけ始める。  佐和紀はなにも言わず、返答を周平に任せて後ろに続いた。

ともだちにシェアしよう!