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第6話
「真柴さん、店、閉めたから。ゆっくり話してや」
店のおばちゃんの言葉は、関西弁のイントネーションだ。
先ほどまで入っていた三組の客はすでにおらず、擦りガラスの戸の向こうに揺れていたのれんもすでにおろされていた。
席を離れたおばちゃんはすぐに戻ってきて、できあがった豚の生姜焼きを鉄板に移し、枝豆と冷ややっこをテーブルの端に乗せた。
「おおきに。ごめんやで」
真柴が会釈すると、おばちゃんはくしゃくしゃっとした笑顔で応えた。
「ええんよ。真柴さん、ようけ来てくれるし。奥に入ってるから、帰るときは声かけて」
そう言って店の奥へと消えていく。笑顔で見送った真柴は、残りのお好み焼きに手を伸ばし、改めて知世の質問に答えた。
「高山組の分裂は確実かもしれんな。抗争を避けようとして、石橋(いしばし)組の組長があちこち働きかけてるけど、生駒組はとりあえず様子見や」
「石橋組というと、美園(みその)組長ですね。美園さんが関東事務所に詰めていたときに、うちへ来たことがあります。それなら、阪奈会は高山組に残るということですか」
「元々、高山組の幹部連中で作ったんが阪奈会やからな。ここは元祖高山組の立場を崩さんやろう。問題は、高山組の三代目の子分が作った真正(しんせい)会ってところや。ここが抜けると、東海地方から東が総崩れになって、まぁ、天下分け目の関ケ原ってとこやな」
「真正会というと、名古屋の千成(せんなり)組と大阪の満亀(みつき)組ですね。確か大阪出身の兄弟が作った組だと聞いてますが」
「詳しいな。兄貴の方は大阪で育ったけど、弟は愛知のはずれの方や。俺らは『マンガメ』って呼んでるけど、ここはやることがとにかくエグい」
「……由紀子の『飛び道具』だな」
ビールジョッキをごとりと置く。真柴は驚いたように振り向いた。
「知ってはったんですか」
「エグいと言われたら、それ以外にないだろ」
「普通は結びつきませんよ。傷害、窃盗、放火に強姦。殺しをやる人間もゴロゴロいるって話です。表向きは規模の小さい組ですよ。そのへんのやつらはたいてい、千成組の金魚のふんやと思てるぐらいの」
「要するに、由紀子の機嫌を損ねると、傷害、窃盗、放火に強姦、運が悪ければ、殺されるって話なわけだ……」
「単なる『極妻』じゃないんですか」
今度は知世が驚き、佐和紀は枝豆に手を伸ばした。
「趣味らしいよ。人をいたぶるのが……」
「最低な趣味ですね」
「そんな女に突っ込めちゃう、真柴さんがこわいよ、俺は」
「ほんま、それ言わんといて……。若かったんやって」
「若さだけが理由じゃないだろ。それで、いまわかってるだけで、由紀子の手がついてんのは誰?」
「俺が知ってるんは、桜河会の若頭補佐の道元(どうげん)、マンガメの満谷(みつたに)組長、真正会幹部の井田(いだ)と安本(やすもと)。最近飛んだのが、坂井(さかい)と中川(なかがわ)ですね。由紀子を利用したつもりになって桜河会にちょっかいかけたんがバレて、周りをじわじわやられた挙げ句、自滅や。タンス預金から床下の金庫まで、すっかり取られたって話で。中川の方は別れた嫁まで狙われて、財産分与で渡したビルの権利がやられたらしい。まぁ、たいそうなもんやで。口にするのも嫌になるようなことを、マンガメの飼ってる連中がしでかしてたんやろな。食いついた記者がひとり、線路に落とされてる」
「ふぅん……」
気のないふりで答えた佐和紀は、知世にジョッキを押しつけた。おかわりをもらってくるように頼み、席を離れる後ろ姿を眺めながらつぶやいた。
「で、そんな話があるんですよ、で終わり?」
「……伯父貴が、御新造さんに会いたいと……。口利きを頼まれました」
「俺に?」
店の奥から、おばちゃんを呼ぶ知世の声が聞こえてくる。
「会ってもらえませんか。もう、長くはないんです」
佐和紀が振り向くと、真柴は悲痛な表情でうつむいた。
「心臓が悪くて……、外には漏れへんようにしてますけど、引退するんは時間の問題や。そのまえに、あかんようになるかもしれへん」
「ダメになるって……」
「死ぬってことです。いまのままでは、桜河会は真正会に乗っ取られる」
「俺を通して、周平に頼むっていうのは、できない。わかってるだろう」
「伯父貴がなにを考えてるかは知らんのです。会うだけでいい。それだけで、俺は……」
真柴には真柴の、桜川への恩があるのだろう。深く頭を下げられ、佐和紀はため息をついた。
「おまえには貸してる方が多いと思うんだけど……」
「ぐっ……」
「なーんてね。まぁ、理由があれば会うぐらい、いいけど」
そこへ生ビールを持った知世が帰ってくる。
「会うぐらいで済みますか」
いきなり言われ、年上のふたりは小さく飛びあがった。
「聞いて、たんか……」
「聞いてません。そんなしつけはされてませんので。でも、話の流れでわかりますよ。真柴さん、普段はすみれさんとのノロケしか口にしないんですから」
「してへん……。そんなん」
「そうですか。薄味の肉じゃがの話、十回は聞きました」
「あー、聞いたなぁ。そのくせ、まだ一回も食べてない」
「ほんとうですよ。一度は食べて欲しいって言うのに」
知世は席に戻り、
「岡村さんが言ってましたが、秋の定例会に合わせて、姐さんの京都行きはすでに整ってます。京子さんがご一緒ですよ。横浜を離れてもらいたいということで」
持ち回りで開かれる定例会は神奈川近辺で行われる。噂の男嫁を連れてこいと言い出す古参が少なからずいるのだ。飲み会の酌でもさせられたら不愉快だと、旦那である周平以上に、若頭の岡崎(おかざき)がピリピリしている。
古巣のこおろぎ組にいた頃は、佐和紀も、兄貴分と慕っていた相手だ。そのあと、岡崎はこおろぎ組を見限り、裏切りだと憤った佐和紀との仲は険悪になった。しかし、付き合いは続き、しばらくして周平との結婚話を持ってきた。
「いっつも俺に相談ないんだけど」
春は春で山梨の温泉へ連れ出されたことを、ぼんやりと思い出す。知世が隣で眉をひそめた。
「姐さんは、補佐からの話以外は、聞き流してますから」
「……そんなことない。それなら、それで、周平から話してくれたらいいじゃん」
「どこに行きたいか、聞かれませんでしたか? そのとき、一緒ならどこでもいいって答えませんでしたか……」
冷静な声に諭され、佐和紀はふるふると肩を震わせた。両手で顔を覆う。頬が熱い。確かに、記憶がある。
定例会の話になり、どこへ行きたいかと問われ、一緒に行けないのならどこでも変わらないと答えたのだ。考えておくと周平に言われ、そのあとはおそらくキスをした。
「はー、これはほんと、石垣も安心して日本を離れるわ。俺の話、岩下さんには言わんといてや」
「それは俺の仕事じゃないのでしません。でも、岡村さんには報告します」
正直な知世が真柴に対して答える。その横顔をひとしきり眺め、佐和紀は真柴へ向き直った。
「会長の話を聞く代わりに、そろそろ、すみれの手料理を食わしてもらいたいな。久しぶりに会って腹でも出てたら、ぶっ殺すからな」
「ないって言ってるやん! そんなん、ありえません」
「ヤッてんだろ」
「……してますけど。やめてくださいよ、俺のプライベート……」
「俺を前にして、プライベートなんかあるか? シンもタカシも、そんなものは持ってない」
「俺もです」
知世がにっこりと微笑み、佐和紀はぼやくように言った。
「三十半ばの男が、二十歳前の女の子をコマすってなぁ……。知世、どう思う?」
テーブルの端を叩くと、知世は煙草を取り出す。ショートピースではなく、岡村の好んでいる銘柄だ。佐和紀はリラックスしているときしかショートピースを吸わない。だから、ここでフィルター付きの煙草を差し出す選択は正しい。
しかし、それが岡村愛用の銘柄というのが佐和紀には気にかかる。
いつなんどき岡村に会ってもいいように所持しているのか。それとも、惚れた男を喜ばせるために、同じ煙草の匂いを佐和紀につけさせようしているのか。そのあたりは聞けないままできている。問いただすのが怖い。
口にくわえると、ライターの火が向く。灰皿を置いた知世は、煙を吐き出すのを待って答えた。
「恋愛に年齢差は関係ないと思います。すみれさんはもう立派な大人ですよ」
「なー! そうやんなぁ!」
真柴が拳を握って勢いづき、佐和紀は白い煙を吐きながら笑う。
「それはおまえ、自分のことと重ねてるからだろ?」
知世は二十歳で、岡村は佐和紀と同じ三十一歳だ。年齢差を恋の障害だと思いたくないのだろう。
そして、佐和紀と周平も同じぐらいに歳が離れている。
「コマされてる方が幸せなら、いっか……」
あれこれと優しくしてくれる旦那の包容力を思い出し、佐和紀ははにかむように思い出し笑いを浮かべる。すると、濡れたような艶っぽさが瞳の奥にきらめいて、清楚な容姿の内側から独特の色気が滲み出す。途端に、路地裏の小さなお好み焼き屋が色めいた。
「どうせ結婚するなら、御新造さんぐらい幸せにしてやらんとなぁ」
言った真柴はゆっくりと自分の煙草を取り出し、知世が差し出したライターで火をつけた。
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