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第5話

 甘辛いソースの焦げる匂いが食欲をそそる。鉄板の隅で焼かれたゲソをつまむ佐和紀のビールも進んだ。  隣に座る知世がおかわりのビールを頼み、すみれとの近況を話していた真柴は大きなヘラを使ってお好み焼きを切り分ける。 「できました。どうぞ」  ようやく許しが出て、佐和紀も手元のコテで一切れすくった。皿に置いて、新しい生ビールを待つ。  事情があって関西から逃げてきた真柴は、大滝組預かりの身の上だ。日本最大の暴力団・高山(たかやま)組の中核である阪奈(はんな)会生駒(いこま)組組長の息子であると同時に、京都を本拠地とする桜河(おうが)会会長・桜川(さくらがわ)の甥でもある。  温和な雰囲気で周りを和ませる才があり、育った環境のシビアさは時折見せる視線の中にしかない。 「そういえば、すみれを孕ませたんじゃないかって、タカシがな……。言い出しにくいだけなら、さっさと言えよ。先延ばしにするとろくなことにならねぇから」  佐和紀がお好み焼きをかじりながら言うと、届いた生ビールと空になったジョッキを取り換えた知世が笑った。 「そんなおめでたい話なら、すぐにでも報告されてますよ」 「めでたくないだろ。結婚もしてねぇのに。腹が出る前にドレス着せてやらなきゃ、かわいそうなんだよ」 「結婚はまだ……」  鉄板の向こう側にひとりで座っている真柴の肩が、小さくすぼまる。  半袖のカットソーから出た腕は太く、胸板も厚いスポーツマン体型だ。男としてはそろそろ身を固める覚悟を決めるべき三十代半ばで、去年のキャバレー事件で恋に落ちたすみれとの年齢差は一回り以上ある。  二十歳にもなっていないすみれは、横浜でホステスを続けていて、真柴とは同棲もしていなかった。それがケジメだと胸を張った男は、真剣な表情で言う。 「その前に、成人式の振袖を着せてやらんと……」 「親か、おまえは」  ビールをぐびぐび飲んだ佐和紀が笑い飛ばす。 「いっそ、引き振袖を着せて、結婚式もしてしまったらどうですか」  知世も笑いながら、お好み焼きをコテで引き寄せる。佐和紀は賛同した。 「おー、それな。いいじゃん。……籍入れるつもりはないの?」 「そんなんしたら、冗談になりませんやん。あいつが三十で俺が二十歳ならまだしも、反対ですよ。年齢だけやない。俺は……」  黙った真柴はコテを離し、ジョッキに残ったビールを一息に飲み干した。おかわりを注文すると、狭い店内に陽気なおばちゃんの声が響く。ビールはすぐに届いた。 「相談って、それ?」  佐和紀が聞くと、真柴はぐっとくちびるを引き結んだ。真面目な顔をすると、いっそう正直そうに見える男だ。佐和紀は続けて言う。 「極道とかいってるやつと結婚しても、普通に生活してる女は山ほどいるだろ。俺とか京子さんは例外に近い。……あっちに帰るつもりか」 「こっちに骨をうずめる気はありません。『生駒』は幹部もしっかりしてるし、俺がおらんでも問題ないけど、伯父貴んとこが心配で」 「桜川会長か……」  桜河会の会長は、真柴の母親の実兄だ。横浜に逃げてくるまで、真柴は桜河会に身を寄せていた。そのあたりの事情を佐和紀はよく知らない。 「盃、どうなってんの?」 「『生駒』の幹部と兄弟の盃を交わしただけで」 「それで一応、生駒の組長さんがオヤジってわけか。……すみれも連れていってやれよ。待ってるぐらいなら、一緒に行った方が幸せだろう」 「そんなもんですか」 「俺は女じゃないから知らねぇけど」 「そう言わんと。嫁の立場で言うてください」 「だからさ、俺はとっくにトウの立った男嫁だっつーの」  たとえ女だったとしても、二十歳にもならない女の子の気持ちはわからない。 「伯父貴のとこの若頭が、万が一のことがある前に盃をもらっておけって、話を持ってきたんですよ。伯父貴の子どもはみんな、使いもんにならん言うて」 「その人が担いでくれるって話?」 「俺は下でいいんですけど、いろいろ事情がありまして。……死んだ俺の母親と昔にアレで」 「はー、アレね。どうせなら若いのを上にって話……違うな。『生駒』との、なんだっけ」 「姻戚関係です」  黙って聞いていた知世がすかさず答える。 「うん、それな。……若頭って人が信用できるなら。……いや、あれか」 「そうです。問題は、アレなんです」  佐和紀と真柴が揃って唸ると、知世は不思議そうに首を傾げた。 「なんですか、アレって」 「俺がここに逃げてきた理由なんや」  真柴はため息をついて言った。 「伯父貴の嫁は『由紀子(ゆきこ)』っていうんやけど、これがもう、とんでもない女でな」 「去年のキャバレーの話は聞いてるだろう? その黒幕だよ。周平の昔のコレで、人を騙して泥団子を食わせるのが趣味のキツネみたいな性悪女」  小指を立てた佐和紀に、知世が目を丸くする。 「……補佐の……」  それだけでとてつもなく恐ろしい想像しているのだろう。どうにも知世は、周平を怖がりすぎる。 「とにかく幹部連中を食いまくってるって話だ。穴兄弟をどんどん増やして、大阪じゃあ血の雨が降ったって。な?」  同意を求めると、情報提供者である真柴はうんざりとうなずいた。 「そもそも人妻なんやけどなぁ。トチ狂うんよなぁ」 「そんなにいい女なんですか」  知世の質問に対する答えは真柴に譲る。 「顔も身体もきれいだよ」 「ん? ……真柴。ヤッてないよな?」  佐和紀の質問に、真柴はうーんと唸って顔を伏せる。迫られたのが恐ろしくて逃げたと聞いたが、肉体関係があったとは考えもしなかった。 「したんだ……」  佐和紀が肩を引くと、真柴はさらに身を屈めた。額が鉄板につきそうになり、 「わわっ!」  知世が慌てて手を伸ばす。佐和紀は静かに目を細めた。 「おいしかったわけだ。……癖になりそうなほど」 「岩下さんには言わんといて」 「どうして? あいつは関係ないよ。……顔上げて答えて。何回?」 「……三回」  指を三本立てた真柴が、両手で顔を覆った。 「普通、三回もするか。なぁ、知世」  「……よかったんですね」 「そんな軽蔑したようなこと言うけど……」  言葉を濁す真柴を、佐和紀は鼻で笑った。 「だってさぁ。俺は勃たないもん、あの女相手じゃ」 「それは迫られてないからや。あの女の恐さは、口説かれてみんとわからへんから!」  真柴は拳を握りしめる。 「周平が聞いたら笑い転げるよ……。まったく、男ってのはしかたないなぁ」 「そっくりそのまんま、財前(ざいぜん)にも言われました。正気に戻るまで殴られて、そんで、とりあえず逃げようって話になって」  財前は真柴の友人だ。由紀子の支配下にいた男で、着物の絵付けをやめて横浜へ来てからは、元の彫り師へ戻った。 「財前に感謝しろよ。骨までしゃぶられるところだろう。まぁ、肉をしゃぶられてるうちは天国だろうけど」 「姐さん」  知世にたしなめられ、佐和紀はお好み焼きに手を伸ばす。代わりに知世が質問を投げた。 「その、由紀子さん、でしたっけ。その人がいるから戻れないんですか」 「俺ひとりなら、なんとかなる。けど、すみれを連れていくんは無理や。……あのときのきっかけは財前やった。今度は、すみれを盾に脅してくるやろ」 「会長から真柴に乗り換えたいってことか」  佐和紀の問いに真柴がうなずく。 「いまは、若頭補佐がターゲットや」 「『補佐』が好きなのか」  目をすがめた佐和紀に気づき、知世がすかさず答える。 「違うでしょう。年齢的な話ですよ。……真柴さん。確か、西は揉めてるんですよね」  話の途中で、注文していない生ビールの中ジョッキがふたつとウーロン茶が届く。

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