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第1話
「桜二?勇吾に電話しても出ないんだ…」
桜二の胸に顔を置いて彼の唇を指で撫でながらそう言うと、オレの指をパクリと口に入れて桜二が言った。
「きっと、忙しいんだよ…」
忙しい…?
こんなに毎日電話をしてるのに…毎日、休む間もなく忙しい事なんてあるの…?
「え~…?」
納得のいかないオレは不満げにそう言うと、桜二を上から見下ろして彼の髪を指で流しながら言った。
「桜二から連絡してみてよ…」
彼は髪を撫でられて気持ち良さそうに瞳を細めると笑顔で言った。
「やだよ。」
「もう、意地悪っ!」
桜二の胸をパチンと叩いて、彼の脇腹に体を埋めると、ぐりぐりと顔を振りながら抱き付いて行く…
これがオレの寝入る、いつものポジション…
オレの部屋と桜二の部屋は繋がってる…。
だから、毎日…こうして彼に抱き付いて寝るんだ…それは前から変わらない。
彼か、依冬が、隣にいないと…安心して寝られない。
グズグズのグズに甘ったれた、そんな生活を送ってる…
でも、ここ半年くらい…ずっと気に掛かってる事があるんだ。
勇吾のストリップ公演が盛況に終わって、もう1年が経つ。
彼は一段と忙しくなったみたいで…最近では…メールの返信も無いし、電話も出ない。文通に至っては、オレが一方的に送るばかりだ。
あまりの放置プレイに…とうとうこの前、手紙に書いたんだ。
返事くれない人にはもう手紙出さないよ?って…怒ったイラストが描いてあるはがきを送った…
それでも…勇吾からは、何の返信も、リアクションも、なかった…
…おかしいよ。
ガタン!
「あ…依冬が酔っ払って帰って来た…連日、午前様だね?」
寝入りの桜二にそう言うと、彼は目をつむったままオレの肩をトントンと叩いて寝かしつけようとした。
放っとけ…と言わんばかりだね?ふふ…
「見てくる!」
そう言って桜二のベッドから降りると、隣の依冬の部屋のドアを開いた。
高いオーダーメイドのスーツ姿で床に寝転がる依冬を見下ろして、クスクス笑って言った。
「も~…依冬、ここはベッドじゃないよ?いけないよ?夜働いてるオレよりも遅くに帰ってくるなんて…体内時計って奴が壊れちゃうよ?」
むにゃむにゃと口を動かす彼が可愛くて、指先で口元を何度もこしょぐって、ケラケラ笑って遊んだ。
「ふふふ!んふ…可愛い…!」
12月も明日で最後…
依冬は年末のお付き合いで連日の様に夜遅くまで飲み歩いてる。社長さんなんだから、そういうのは接待上手な社員にお任せすれば良いのに、彼は何でも自分でやりたがるんだ。
だからかな…彼の会社は結城さんがトップだった時よりも、業績も、社内の雰囲気も、良くなったみたいだ。
さすが、オレの依冬…可愛い子犬の敏腕若社長だ…!
「よっちゃん、お着換えしましょうね~?」
そう言って依冬の部屋着を持って来ると、彼の体が動くうちにスーツを脱がせて部屋着に着替えさせる。
大人しく言う事を聞いてされるがままになってる姿が、まるで赤ちゃんみたいで可愛いから、オレは毎回、進んで酔っ払いの世話を焼く。
「シロ…?今日は、銀座のスナックに行って…ママに、あらぁ?可愛いわねえ?って言われた…」
「ふふ…良かったじゃん。可愛い事は悪い事じゃないよ?」
オレがそう言うと、トロンとした酔っ払い独特の瞳をオレに向けてゆっくりと瞬きしながら依冬が言った。
「嫌なんだ…!可愛いって言われたくないんだぁ!」
「はいはい…そうなの、それは…嫌な思いをしたね…?」
適当に相槌を打ちながら彼にトレーナーを着せると、スラックスのボタンをはずしてチャックを下げていく。
「…シロ?えへへ~、今、エッチな事、考えてるでしょ~?」
若いせいかな…依冬はこうなると正直、少し面倒くさいんだ。ずっと赤ちゃんでいてくれたら良いのに…すぐに興奮し始める…
だから、こういう時は、赤ちゃんのお世話から老人の介護にシフトして、言ってやるんだ。
ニヤニヤする依冬を無視して、彼にスウェットのズボンを見せると大きな声で言った。
「おじいちゃん?これに着替えて~?」
「嫌だ~!おじいちゃんじゃな~い!」
依冬はそう言って体を揺らして怒ると、オレをベッドに放り投げて言った。
「あれぇ、なんだか、エッチな気持ちになってきちゃったよ…シロたん…」
ぷぷ~!
ゆらりと体を動かしてそう言う依冬は、イッちゃってる結城さんにそっくりだ。
まったく、情緒不安定なのかな…それとも、若いせいかな…
いいや、泥酔して酒に飲まれたせいだ!
「依冬?…おいで?」
どうしようもない酔っ払いのあしらい方なら身に付いてるし、心得てる。
オレが両手を広げて呼ぶと、彼は満面の笑顔になってスラックスを脱ぎながらベッドに上がって来た…
すかさず両手で彼を抱きしめると、トントン…と背中を叩きながら歌った…
曲は…ネバーエンディングストーリー…
「ふ~んふふ~んふんふんふんふんふ~んふふふ~んふふふ~んふふ~…」
腕の中の依冬はあっという間に大人しくなって、すやすやと寝息を立てて眠り始める…
「ふふ…可愛い…」
方々で“可愛い”って言われるせいか…彼はその言葉も、その言葉が持つ意味も、嫌いになってきちゃったみたいだ…
じゃあ…オレは彼を何と言えば良いのかな?
こんなに愛くるしい子を、可愛い以外で何と呼べばいいのかな?
「…尊い?」
腕の中の彼の髪を撫でると、ポツリとそう呟いて口元を緩める。
「いや…やっぱり、可愛いが一番しっくりくる…」
ギュッと抱きしめてベッドに静かに下ろすと、彼が脱いだスーツをハンガーにかけた。
「依冬、お休み…」
そう言ってすやすや眠る彼にキスすると、起こさない様に静かに部屋を出る。
廊下に差した月明かりが足元を照らす中、ぼんやりと窓の外を眺めて音信不通の彼を思った。
「勇吾…どうしちゃったの…?心配だよ…」
桜二に聞くと、忙しいんだろ?の一言。夏子さんも同じ様な事しか言わない。
忙しい?
忙しくたって、前ならちゃんと連絡をくれていた…
毎日のように、連絡をくれていたんだ…
それがここ半年…ぱたりと止んだ。
「勇吾…」
桜二の隣に戻ると、静かに聞こえる彼の寝息を聞きながら目を閉じた…
…オレの事、忘れちゃったの…?
「シロ…おはよう。朝だよ…」
髪を優しく撫でられて目を開くと目の前に桜二が見える…
「桜二…おはよう。」
そう言って彼に両手を伸ばして抱き上げてもらうと、リビングのソファまで連れて行ってもらう…それは、いつも変わらない。
「うぅ…頭痛い…」
頭を抱えながら部屋から出て来た依冬が、キッチンでお湯を沸かす桜二にぶつぶつ文句を言ってコップに水を入れてる…
これも…見慣れた光景になった。
今日は日曜日…サラリーマンの諸君は、これから三が日まで連休に入る。
ストリッパーの僕は、悲しいかな…今日もお仕事をする。
「桜二?最近気づいたんだけど、きっと支配人は独り者で寂しいんだ。だから、年がら年中、店を開けてる…。彼の寂しさを紛らわすために、従業員を道連れにしてるんだ。ねえ、最悪の雇い主だと思わない?」
オレがそう言うと、桜二は首を傾げて言った。
「お年玉貰えるから良い~!って、この前、言ってたじゃないの…」
そうだっけ…?
「頭痛い…シロ、膝枕してよぉ…」
首を傾げて桜二と変顔遊びをしていると、依冬がそう言ってゴロンとオレの膝に頭を乗せた。
可愛いな…赤ちゃんみたい。
「そうだ。二日酔いの頭痛に効くツボを押してあげる…」
眉間にしわを寄せる依冬の顔をもみもみ解してあげながら、窓の外から入る朝日を気持ちよく眺めると、コトン…と、朝ご飯をダイニングテーブルに置きながら桜二がオレに言った。
「シロ?今年も稲荷神社に初詣に行ってからの解散なの?」
「うん…多分ね…」
それは寂しい独り者の支配人が少しでも世間の行事に加わりたいと、従業員を連れて敢行する”初詣“…
支配人からお年玉を貰いたいオレとウェイター達は、必然的に毎年この行事に参加してる。
「今年は入院も怪我も無く過ごせたから、きっと、沢山お年玉がもらえる筈なんだ!」
「いてて…」
お金の話をして力が入ってしまったのか…ツボ押しマッサージをしてあげていた依冬が、イテテと悲鳴を上げた。
「ふふ…ごめんね?チュチュチュ~!」
「ご飯、出来たよ…」
桜二はそう言うと依冬に500円の貯金箱を差し出して言った。
「はい、500円。」
…酷いだろ?
朝ご飯を食べるのに、桜二は依冬から500円を徴収してるんだ…
チャリン…
一緒に住むようになって、この2人は何度もやり合ってる…オレはその度に、間に立って事態を収拾してきた。
拘りが強い桜二と…だらしがない依冬。
衝突しない訳が無いんだ…
そんな事、分かっていたし、予測だってしていた。
でも、桜二がピリピリするポイントが細かすぎて…拾えていなかったんだ。
そして、それは突然訪れた。
一緒に住むようになって1か月を過ぎたあたり…オレと一緒になって朝ご飯をもぐもぐ食べる依冬に、桜二が突然ブチ切れたんだ…
「ずっと思ってたんだけど、お前さ…。シロは良いとして、なんでお前まで俺の作ったご飯を美味しく頂いてるんだよ…?俺はお前のママじゃないよ?」
そう言って凄む桜二は、オレが何を言ってもフン!と顔を逸らすばかりだった…
急に怒られた依冬は、腑に落ちない様子でもぐもぐとご飯を食べ続けると、平気な顔をしてごちそうさまと言った…
そして、依冬の対抗策が次の日から始まったんだ。
ピンポーン
「朝から誰だろう?」
いつもの様に桜二の卵焼きをべた褒めしていたら、突然呼び鈴が鳴った。
「はいはい…」
そう言いながらお財布を片手に、依冬がいそいそと玄関へ向かった。
「なんだろね?」
目の前で眉間にしわを寄せる桜二にそう言うと、彼はフン!と鼻を鳴らして言った。
「さあね!」
依冬はホクホクの笑顔で玄関から戻ってくると、両手に抱えた大量のケータリングをダイニングテーブルに広げて言った。
「はい、シロも食べていいよ?」
「…うん。」
桜二はオレのお茶碗の上に乗せられて行く唐揚げを見ると、声を荒げて言った。
「はっ!朝からこんな重いものを食べさせて…。シロはね、体重管理をしてるんだ。こんなもの食べたら、太っちゃうだろ?そういう事に考えがいかないから、お前はいつまで経ってもお子ちゃまなんだよ…?」
「ふん…どっかの誰かみたいに年老いた人はそうかもしれないね。でも、シロは俺のひとつ上だしまだまだ若いから、消化も胃袋も丈夫だよね?」
依冬はそう言うと、可愛い瞳でオレを覗き込んで言うんだ。
「ね…?大丈夫だよね…?」
オレは彼の、この…子犬のような瞳に、弱い…
「…うん。」
オレがそう言って頷くと、依冬は満面の笑顔になって、バンバン唐揚げをオレのお茶碗の上に乗せ続けた…
胃袋は確かに大丈夫だった…でも、1週間で体重が4キロも一気に増えた…
だから、ホクホク笑顔でオレのお茶碗に唐揚げを乗せる、彼に言ったんだ。
「依冬?オレ太っちゃった…だから、それ、もう要らない…。桜二?依冬にもご飯を作ってあげてよ…。皆で一緒に食べようよ…。大変だったら、オレと桜二で交代で作ろう?」
オレがそう言うと、依冬は唐揚げを乗せる手を止めて、しょんぼりと背中を丸めて椅子に座り直した…そして、桜二はそんな依冬を見てため息をひとつ吐くと、ポツリと言ったんだ。
「1日…500円くれるんだったら…作っても良いよ…。」
それが…桜二なりの落としどころだったみたい。
今の所、依冬もそれに納得してる様子で律儀に500円玉を崩して持ってる。
こうやって色んな事に落とし所を見つけながら、何とか3人で生活しています。
そして、それは思った以上に…楽しかった。
「ふふ…桜二の卵焼きは絶品だよ?どうしたらこんな美味しいものが作れるんだろう?歯ごたえと良い、味と良い、料亭のレベルだと思うんだ。うん。うん。」
オレがそう言って桜二の足をつま先でスリスリ撫でると、依冬がお味噌汁を飲んで言った。
「俺がこの前作ったパンケーキも美味しかったでしょ?」
ふふ…!あれは粉っぽくて不味かった!
「うん…美味しかったよ?もう少し混ぜてから焼いたら、もっと美味しくなったね?」
オレがそう言うと、依冬は満面の笑顔を向けて笑った。
可愛い…!
ごちそうさまをすると、お茶碗を洗う桜二のお手伝いをする。
彼が洗い物をする間、彼の背中にくっついて応援をするんだ。
「桜二?勇吾…どうしたかな?心配なんだよ…電話しても出ないし…メールしても返事が無いし、手紙を出しても…」
「それいつから?」
ソファに寝転がった依冬がそう言って、オレを見ながら首を傾げた。
いつから…?
「確か…ロメオが産まれた頃かな?7月ころ。」
ロメオ…それは陽介の第一子。出生体重2580グラムの可愛い男の子だ。
かっこいい名前を…という事で、車のアルファロメオから取った名前だそうだ…。
「ぷぷっ!未だにその名前に慣れない!」
桜二がそう言って吹き出して笑うと、それを見た依冬も一緒になって笑い始める。
酷いじゃないか!
「ちょっと!ロメオを馬鹿にしたら、許さないからな!」
オレはそう言うと、桜二の髪をグチャグチャにして、依冬の顔を掴んで二日酔いの頭痛が酷くなる様に横に振った。
「あ~~~!」
頭を抑えて痛がる依冬に抱き付くと、彼の顔を見つめながら言った。
「ロメオは可愛いんだ。この前、オレの事を“たんたん”って呼んだ。ふふ…!あぁ…!めちゃくちゃ可愛い!“たんたん”だって…!可愛い!あぁ…!可愛い!」
陽介とお姉さんはあっという間に離婚した。
あんな盛大な結婚式をして永遠の愛を誓った筈なのに…お姉さんに本当の運命の人が現れてしまったんだ。
そして、あっけないくらいに、簡単にロメオを手放して居なくなってしまった…
陽介は実家の両親に協力して貰いながら、ひとりでロメオを育ててる。
だから、ロメオに会いに行くと、自然と陽介の両親とも仲良くなっていった。
お父さんはオレの事を“シロたん”って呼んで…お母さんはオレの事を”シロちゃん“って呼んでる。陽介の一番下の弟はオレの事を”シロたん“って呼ぶ。
だからかな…ロメオはオレの事を“たんたん”と呼ぶ。
「も…可愛くて…可愛くてなんねえ…!」
悶絶して依冬に項垂れると、彼はオレの背中を撫でて言った。
「それだよ…。勇吾さんが音信不通になった理由はそれだ。シロが自分以外に夢中になったから…へそを曲げたんだ!」
はぁ~?
「…いくら何でも、勇吾はそんなにバブちゃんじゃないよ…?」
依冬に白けた顔を向けてそう言うと、念の為、桜二を見て言った。
「…違うよね?」
「さあね…」
彼がこんなつれない返事をする理由はひとつ…オレをヤキモキさせる勇吾に苛ついてるんだ。
桜二から手渡されたコーヒーを受け取ると、ぼんやりと黒いコーヒーに波勃つ波紋を見つめる。
まさか…赤ちゃんにやきもちを焼くほど、勇吾はバブちゃんじゃないよ…
それにオレに連絡をしない事は、彼にとったってしんどい筈だよ…?
違うのかな…
もう…オレの事なんて…忘れてしまったのかな…
他に、誰か…好きな人でも…出来たのかな?
オレの予想では…後者の線が強いと思ってる。
そして、それを咎める権利も、止める理由も無いって思ってる…
なんの権利も無いんだ。
相手の気持ちを縛る事なんて…出来ない。
「きっと…他に、好きな人が出来たのかもしれないね…」
コーヒーを啜ってオレがそう言うと、桜二がオレの顔を見て言った。
「それはないよ。」
さっきの問いかけには“さあね”なんて返事をした癖に、どうしてそれは断言して言うのさ…
「ふぅん…」
そう言って桜二から視線を逸らすと、窓の外を眺めて大晦日の快晴の空を見上げる。
勇吾の居る世界は綺麗な物で溢れてる…
それはめまぐるしく更新され続けて、昨日の物があっという間に古くなっていく…
そんな世界にいると、情熱的に盛り上がった気持ちが色あせるスピードも、もしかしたら速いのかもしれない…
いつまでも、縋って、目標にしてるのは、オレだけなのかもしれない…
ダサいよね…
未だに彼の居るイギリスに行けていない癖に、傷付いて悲しくなるなんて…自分勝手すぎる。
左の手首に巻いた桜二のお守りを、右の手のひらで包み込んで深呼吸をする。
こうすると、動揺を抑えられるんだ…
自分を責めてしまいそうな時、こうして気持ちを落ち着かせて咄嗟の自己嫌悪を回避してる…
土田先生の所には、今でも、2か月に1回のペースで通い続けてる。
彼のおかげで、以前に比べたら確実にオレは自分を好きになれた。
それでも、海外へ行く勇気はまだ無い…
…自信が無いんだ。
それに…仕事に穴を開けられないし、準備だってどうしたら良いのか分からない…
英会話だってまともに出来ないし…お金の単位だって分からない…
あぁ!
こんな風にいつまでも足踏みをしているから…勇吾はオレの事なんて、忘れてしまったのかな…
いつまで経っても会いに来ないオレの事を…嫌になっちゃったのかな…
フットワークの軽い彼と比べて、自分はグズで…ノロマだ…
「ハァ…」
ため息を吐いて沈み込んだオレの頬を撫でると、桜二は悲しそうに眉を下げて言った。
「どれ…俺から、連絡してみようか…?」
「え…?」
あの桜二が…オレの為に嫌な事をかって出てくれた…
優しいんだ。
桜二はオレにだけ優しい…
「うん…」
オレを膝の上に乗せたままソファの上で二度寝し始めた依冬を撫でながら、電話を片手にオレを見つめる彼を見つめて…
桜二の電話に勇吾が出るのか…
様子を伺った。
携帯電話を耳にあてて、すぐに…桜二が言った。
「もしもし…?なんだ、居るじゃないか…シロが心配してる。どうして連絡をしないの…?」
え…?
オレがいくら掛けても電話に出なかった勇吾が、桜二の電話をすぐに取った…
何で…?
オレを避けてるの…?
その事実に、目から涙がボロボロと溢れて止まらなくなって…胸が痛くて、苦しくて、悲しくて、堪らない。
寝ている依冬に抱き付いて顔を埋めると、しきりに左腕に巻いた桜二のお守りを撫でて、深呼吸した。
「大丈夫だよ…」
そう言ってオレの背中を撫でる桜二の手が…あったかくて、痛くて、胸が張り裂けてしまいそうだ。
「そう…分かった。」
黙って電話口に聞き耳を立てていた桜二がそう言うと、あっという間に勇吾との電話が終わった。
オレに代わる事無く切られた電話に、嫌でも察した。
…彼はオレの存在を無視した。
あんなに、愛してるって言ったのに…
無視した。
…それは、愛の終わりを告げた事と、同じ…
彼は、勇吾は、もう…オレを、愛していない…
「…仕方が無いんだ…オレがいつまでも会いに行かないから…だから、ダメだったんだぁ!うっうう…うう…勇吾、大好きだったのに…うっう…」
桜二に両手を広げて抱きかかえてもらうと、彼の胸に顔を埋めて思いきり泣いた。
そもそもが、オレに都合の良い関係だったんだ。
イギリスから…オレだけを愛していてなんて…そんな、自分勝手な事、成り立たないんだ!
それなのに…離れて行く彼を止める事なんて、出来る訳がない…!
「シロ…落ち着いて、聞いて?」
そう言ってオレを宥める彼の声も、彼の言葉も、何も聞きたくなくて…
ただ、黙って抱きしめて欲しかった。
「嫌だ!」
オレはそう言って拒絶すると、桜二の口を両手で塞いで泣きながら怒って言った。
「も、も…もう!勇吾の話は…し、したくない!!」
「でも…」
「嫌だ!も…もし…したら、もう、桜二の事も…嫌いって言うからっ!!」
オレの怒鳴り声で目を覚ましたのか…いつの間にか起きていた依冬が言った。
「シロ…ちゃんと話を聞いた方が良いよ?」
もう…
もう…!
どうして、もう勇吾がオレを愛していないという話を…!他の人を好きになったなんて話を…!
そんな、察して余りある事を…ちゃんと聞かないといけないんだよ…!
オレは桜二の胸から顔を上げると、何も言わずに急いで自分の部屋に向かった。
「シロ…待って…!」
出かける支度をすると、ふたりの制止も聞かないで…仕事の道具を入れたリュックを背負って家を出た。
もう嫌だ…ここにはいたくない!
勇吾に振られたオレに、現実をちゃんと見ろと“話し”を聞かされるんだ!
そんな事…言われなくったって分かってる!
わざわざ傷口に塩を塗るなんて…
野暮だ!
野暮で意地悪だ!
「シロ…?勇ちゃんの事好き?」
「勇吾…大好きだよ…」
大晦日…人もまばらなだだっ広い道路を駅に向かって歩いて進む。
ポカポカと温かい太陽の光に照らされて、12月も終わるというのに、凍てつくような寒さはない。
なのに…優しく、甘く、愛を囁いた彼は、オレの事をどうでも良くなってしまったみたいだ。
ぽたぽた落ちる涙をコートの袖で拭って、ひたすら足元だけ見つめて歩く。
違う誰かに…また情熱的に夢中になってるの…?
そう、オレじゃない他の人に…
酷いよぉ…勇吾。
あんなに愛してるって…言った癖に…!
バレエの様に美しくて、古典文芸の様なロマンティックな愛が…終わった。
オレが、一歩を踏み出せないせいで…儚く散ってしまった。
それは、認めたくない…悲しい現実。
勇吾、オレはそんな事、認めたくないよ…!
愛してるんだ!
ピンポン…
「おや?シロたん、どうしたの?」
「ふふ、急にごめんね。仕事前にロメオに会いに来たの…良いかな?」
オレがそう言うと門松が飾られた玄関のドアが開いて、陽介のお父さんがロメオと一緒に顔を出した。
ドロドロとした気持ちを抱えていたくなくて、愛するロメオに会いに陽介の実家がある東村山まで来た…
「たんたん~!」
「ロメオ~!」
赤ちゃん…それは、柔らかくて…あったかくて…無垢。
本当にまっさらで、真っ白な存在なんだ…
大人のぶりっ子がどんなに“純真”を装ったとしても…この本物には敵わない。
汚ねえババアは引っ込んでろって…横っ面を張り倒すレベルの、パンチのある透明感と存在感と、真似なんて出来ない純真さを持ってる。
ゼロに限りなく近い赤ちゃんの前では、全ての人がゴミ屑の様に汚いんだ…
オレに笑顔を向けて両手を伸ばすロメオを抱きしめると、陽介のお父さんからバトンタッチしてあの子を抱っこした。
適度な重さを両手でこぼさない様に大切に抱きかかえると、ロメオは信用しきった様にクッタリとオレに体を預けてくれる…
フニフニの柔らかくて張りのあるほっぺに頬ずりして、透明感のある疑いの無い眼差しを見つめる。
嘘も、ごまかしも、傷付けようとする心も持たない。
真っ白な人…
「ロメオ…会いたかった…」
そう言って可愛いあの子を体に飲み込むように抱きしめる。
「…ん、もう、シロたんは陽介と結婚すれば良いのに…」
お父さんがそう言って笑うから、オレはクスクス笑いながら言った。
「男はいらない。ロメオだけ欲しいよ…」
男なんて…争いの元にしかならない…
「ズコーーー!」
そう言ってリアクションするお父さんは、陽介の陽気な部分と同じものを持ってる。
ふふ…親子だな。
「ズコ~~~!」
ロメオを抱っこしたままお父さんの真似をすると、腕の中のロメオがケラケラ笑った。
ん~可愛い!
「シロちゃん?お仕事に何時に行くの?」
「ん~っと…18:00にお店に着いてなきゃダメだから…16:00くらいまで居ても良い?」
今はまだ、お昼にもなってない。
他人の家に16:00まで居ても良い?なんて図々しい事が言えるのは、この家の人がみんな優しくて、オレを好きでいてくれるからだ。
「良いよ?お父さんが歌舞伎町まで乗っけてってやろうか?」
「いや、良いよ。」
オレがそう即答すると、お父さんはまたズコー!って言って笑ってる。
陽介の家族は面白い家族なんだ。
誰かがボケると、誰かしらが突っ込みを入れる。そんな陽気な家族だ。
その様子を眺めてるだけで、沢山笑えて、心が和むんだ。
「たんたん…たんたん…」
「なぁに?ロメオ?たんたんと公園に遊びに行こうか?ふふ…」
「きゃ~~!」
大喜びして両手をあげるロメオを抱っこすると、お父さんとお母さんに言った。
「近所の公園で、砂遊びして来ても良い?」
「良いよ。気をつけてな~。」
そう言うとお母さんはにっこり笑って、お父さんは手のひらをヒラヒラさせてテレビを見始めた。
よし!
オレはロメオのベビーカーを準備すると、彼の飲み物をお母さんから受け取って専用のバックにセットする。
これはロメオのお出かけセットだ…
お母さんが全て整えてくれたロメオのお世話セットのひとつ。
手拭きとティッシュも入れて、いざ、ロメオをベビーカーに座らせる。
「んふふ…あぁ、とっても可愛い…」
ちょこんとベビーカーに座る姿が可愛すぎて、視覚だけでクラクラしてくる。
依冬も…ベビーカーに乗せたら、もっと可愛く見えるのかな…?
ふふっ!
それは…いけない遊びのドアをノックする様なもんだ…!
「行ってきま~す。」
そう言ってベビーカーで出かけたのは、ちょっと先の公園…
「たんたん?たんたん…!」
可愛すぎるだろ…?
道端でひとり悶絶すると、膝をついてオレの顔を撫でるロメオを見つめる…
さっきまでの悶々とした気持ちが浄化されて、全てを受け入れちゃってる自分が居るよ?
だって…あの勇吾にも、こんなに無垢で、かわいらしい時期があったって事を考えたら、何でも良いって…、もう、何でも良い…って、全て許せちゃうよ…
オレの事が嫌いになったならそれでも良いし…他に好きな人が出来たなら、それは仕方がない事だよ。
ただ愛しいあの人が生きてるってだけで…満足できる。
そんな、気がしてくるよ…
瞳を細めて、目の前でオレの頬を撫でてくれるロメオをじっと見つめて、ポロリと涙を落とす…
こうして…真っ白な人に、汚くて汚れた自分を綺麗にしてもらう…
頭を真っ白にして…全てを、ありのまま受け入れよう。
「んふふぅ~ロメオ、可愛すぎ…!どちて、そんなに可愛いの~?」
「お…!シロ。ロメオとお出かけしてるの?」
道端でロメオの手をニギニギしてデレていると、陽介がやって来て、オレの顔を覗き込んで大笑いして言った。
「本当にシロは、赤ちゃんが好きなんだ。もう、俺と結婚するしかないよ?」
ロメオは欲しいよ…でも、男はもう要らない。
オレは重い腰を上げてベビーカーを再び押すと、一緒に歩き始める陽介を見上げて言った。
「陽介はお父さんに本当によく似てる。言う事までそっくりなんだもん。笑っちゃうよ。」
そんなオレの言葉ににっこりと笑うと、彼はおもむろにロメオの飲み物を手に取って、チューチュー吸った。
「はぁ…?信じられない!これはロメオのお茶々なのに!」
そう言って彼の胸を叩くと、キャッキャっと喜んで…ほんと、桜二も依冬も、陽介も子供みたいで…手が焼けるんだ!
その中でも、勇吾は群を抜いて赤ちゃんだった。
だいたい32歳にもなって、自分の事を“勇ちゃん”なんて呼ぶ時点でお察しだ…
そう、“勇ちゃん”って…呼ばせたがって…自分で呼んでた。
可愛いんだ…
とっても、不器用で、可愛らしい人。
そんな所が大好きだった…
そんな所を愛していた…
会いたいな…勇吾。
会いたいよ…勇吾。
「今日は大晦日だろ?お店に行くの?」
オレの顔を覗き込んで陽介が聞いて来たから、オレは首を傾げながら答えた。
「あったり前田のクラッカーだよ?お客も来ないのに…毎年恒例なんだ。」
辿り着いた公園で、陽介と一緒にロメオをお砂場で遊ばせる。
「お座り出来る様になった?」
「ふふ…前よりは出来る様になったよ?」
ロメオ5か月…もう少しで6か月…
「育児書を読んだら、ロメオは他の子よりも喃語を話すのが早いみたいだよ?」
オレがそう言うと、陽介はケラケラ笑って言った。
「なぁんで、シロが育児書なんて持ってるんだよ?」
だって…ロメオの成長過程が知りたかったんだ…。
いつ立って、いつ話して、いつ歩き出すのか…気になって仕方がなかったんだ。
「…うちのおふくろが言ってたけど、育児書なんて参考程度にしかならないって。育ち方は十人十色だから、シロもあんまり鵜吞みにしちゃダメだよ?」
うぅ…ぐうの音も出ないよ…
男を3人も育てた育児のプロが言うんだ。その通りなんだろうさ。
だけど、気になって仕方がないんだ…
何がいつ出来る様になるのか、そして、それはいつ訪れるのか…気になるんだ。
「…うん。分かった。」
口を尖らせてそう言うと、砂遊びに夢中なロメオを見つめて目じりを下げる。
「可愛い…本当に、愛されるために存在するみたいな子。」
うっとりとロメオを見つめると、彼の柔らかい髪を指先で撫でる。
そんなオレを見つめて、すでに垂れ下がってる目じりをもっと下げて陽介が言った。
「俺には…シロも同じように見えるよ?」
違う。
大人に感じるそれと、この存在に感じるそれとは…全く別物。
よく大人はそんなこと言って、自分を過剰に弱く見せたり、逆に強く見せたりするよね…そんなハッタリは、本物の前では脆くて汚いメッキが剥がれた不気味なものにしか映らない。
これが…真実だ。
彼らは無条件に守られるために存在して、無条件に愛されるために産まれて来た…
それが事実だ。
お砂遊びを終えて陽介と一緒に彼の実家に帰ると、ベビーカーの上で寝てしまったロメオをベビーベッドに寝かせてあげる。
トントンとお腹を叩きながら可愛い寝顔のロメオを見つめて…再び彼を思い出した。
勇吾にもしてあげた…
あの人は機嫌の悪い赤ちゃんだったけど、可愛かったな…
格好付けた外っ面じゃない…甘えん坊な内っ面をオレに見せて…甘えるんだ。
堪らない幸福感と、堪らない愛おしさを感じさせてくれた…
なのに…
「シロたんは…なんだ、うちの嫁に来る事になったのか…?」
「うん。父ちゃん。シロは元来、俺の嫁なんだよ…」
「まぁ…やっと、やっと、その時が来たのね…しくしく…」
ボケまくる陽介一家に戸惑っていると、階段を降りて来た三男坊が役目を理解して言った。
「…母ちゃん、お昼まだ?」
この家族はこういう流れが出来てる。とっても、面白い家族なんだ…
次男は彼女とニューイヤー何とかを済ませたら実家に顔を出すそうだ。
お母さんはまた結婚なんて話をされたらどうしようっ!?なんてふざけて笑った。
「シロちゃん?お仕事で“年越しそば”を食べられないでしょ?今、お母さんが茹でてあげるから、一足先に食べちゃいなさい?」
「わぁい!」
両手を上げて喜ぶと、陽介が隣に座って言った。
「母ちゃん!俺もシロと一緒に年越しそば食べたい!」
年末の騒がしいテレビ番組を、陽介一家と一緒に団らんを囲んで眺める。
こんな暮らし…あったかくて穏やか過ぎて…抜け出せなくなりそうだよ。
優しいお母さんに、面白いお父さん…可愛いロメオに、鋭い三男…そして、陽気な陽介。楽しすぎて…毎日ほっぺが痛くなりそうだ…
「はい、どうぞ?」
そう言ってお母さんがオレの目の前に出してくれたのは、茹でたほうれん草と茄子とエビの天ぷらが乗った、とっても美味しそうなお蕎麦!
「わあ!豪華だ!美味しそう!いただきま~す!」
夏子さんに言われた…麺を沢山掴んで啜る姿がフェラチオしてるみたいだって…
だから、オレは少しだけ掴んでハムハムしながら蕎麦を啜った…
「ん~!お母さん、美味しいよ?とっても、美味しい!」
オレがそう言って喜ぶと、お母さんはにっこり笑ってガッツポーズをした。
ふふ…可愛らしい人。
「シロたん?蕎麦はな、思いっきり啜って音を立てて食べるのが粋な啜り方なんだよ?やってごらんなさい。」
お父さんにそう言われて、オレは少しだけ掴んだ蕎麦を思いっきり啜って食べた。
「ふはは…!お父さんはほら、江戸っ子だからなぁ~!そういうの気になっちゃうんだよ?」
満足げにそう言うお父さんに、三男坊の鋭いつっこみが入る。
「東村山のどこが江戸だよ!」
「一応、東京都だぞ?隣は所沢だけど、ここはギリ東京都だぞ?」
「シロ?年越しそばを一緒に食べるなんて、まるで、夫婦みたいだね?」
隣でデレデレしながら蕎麦を啜る陽介を見つめて、ほっこりする。
この人に邪な思いなんてもう抱かないよ?
彼は優しいお兄ちゃんだ。
オレの兄ちゃん、蒼佑とは違う、普通の…お兄ちゃんだ。
今頃…桜二と、依冬は、どうしてるかな…
勇吾がオレを無視した…そんな展開に、派手にショックを受けて、動揺した。
そして、桜二にこれ以上言われたくなかった。
みなまで言うなって、よく言うでしょ?
オレも最後まで聞きたくなかったんだよ。
分かりきった結末を“言葉”で最後まで聞きたくなかったんだ。
だから…家を飛び出してきちゃった。
きっと、もうダメなんだって…心のどこかで分かってた。
だって、あんなに連絡をしたのに返事をくれないんだ…
愛が終わったって…馬鹿でも察するレベルだよ。
それなのに…“返事くれない人にはもう手紙出さないよ?”なんて…現実を見てないはがきを送った。
馬鹿みたいだよね…
大好きだったから…反応のない彼にも、必死に縋りついてしまったんだ。
彼が…また、突然現れてくれるんじゃないかって…自分勝手に期待してばかり。
自分では、何も…してこなかった癖に、期待してばかりいた…。
うんざりされたんだ…
もう…嫌になっちゃったんだ…
オレみたいなわがまま…捨てられて当然だ…
勇吾の事を、諦める…決心がついたよ。
楽しそうに笑う陽介の家族を見てたら…勇吾を手放せる気がした。
イライラするより、笑っていた方が楽しいし…泣いてるよりも、笑った方が楽しい…
それに、桜二と依冬を愛してるオレに、勇吾まで縛り付ける権利なんて…ない。
「ふふ…!」
彼らと一緒に大笑いしながら年末のテレビを見て、まったりと年越しの雰囲気を味わうと、寝起きのロメオにミルクをあげて陽介の家を後にした。
「シロ、送るよ?」
「良いの、またね?陽介。」
玄関で彼と別れると薄暗い道をフラフラと歩いて駅まで向かう。
良いな…あんな家族。
いつも元気を貰える…あったかい家族。
ふと、ほったらかしにしていた携帯電話を覗いて見て足を止める。
「勇吾…」
彼からの着信履歴に胸の奥がザワワと波を立てて、笑顔だった表情が一気に悲しい顔になって…涙がぽたぽたと落ちて足元を濡らした。
もう…掛けないよ。
とどめは刺さないでよ…
大丈夫、十分オレは分かったんだ。
…あなたは、自由だ。
「もう…しつこく掛けないよ。ごめんね。勇吾…」
桜二からの長文メールを無視して、依冬からのご機嫌取りのメールも無視した。
良いんだ…オレは落としどころを見つけたんだ。
だから、もうしつこく縋り付いたりしないし…纏わり付かない。
彼の声を聞きたいと願わないし…彼に愛されたいなんて…思ったりもしない。
どうしてオレを無視するのか…問い詰めたりもしない…
これ以上嫌われたくないし…みっともない自分になるのも御免だ。
人はこれを“引き際”なんて表現するけど…こんな気持ちになれるまで、時間もかかるし、心も傷付く…
だって、悲しいだろ?
愛していた人に…愛されなくなるんだから…
ずっと気になっていた喉の奥に刺さった骨が、ロメオという甘いチョコレートにコーティングされて、刺さったままでも気にならなくなった。
あるがまま、刺さった骨と一緒に過ごせる気がした…
いつか外れるその日まで…チョコレートでコーティングし続ければ良いんだ。
これは目を逸らしてる事にはならない。
傷を受け入れて、無理に抜こうとしてないだけだ…
電車に乗ると椅子に腰かけて、携帯電話で撮影したロメオの写真を眺めながら鼻の下を伸ばす。
可愛い…本当に、愛されるために産まれて来たような子だ。
18:00 三叉路の店にやって来た。
エントランスに入ると、渋めの着物を着た支配人がオレに言った。
「おい!どうだ?男前だろう?」
「ふふ…!確かに、3倍は盛れてる。悪い越後屋みたいだけど、良く似合ってて格好良いよ。」
オレがそう言うと、支配人は急にデレデレして言った。
「なぁんだ…シロ、お前…俺に気があるのか?」
180度態度が変わるって…こういう事を言うんだろうね?
ある意味、とっても器用だ!
「さあね~?」
桜二の得意技、“さあね”を使って支配人をドギマギさせると、控室への階段を下りて、控室でメイクに熱心な楓に挨拶をする。
「おっはよ~!楓!」
「シロ!おはよ~!」
彼の手元にはフランスで買ってきた化粧品が所狭しと広げられてる。
…楓は今年のクリスマスも彼氏と旅行に行った。行先はフランスだ。
来年も企画したら、オレは楓の彼氏に一言言わなきゃいけないって思ってる。
なんでわざわざこの忙しい時期に長期の休暇を取らせるのか?
どうしてわざわざオレの大嫌いなクリスマスを、オレひとりで過ごさせるのか…?
そろそろ、腹を割って話し合いたい気持ちなんだよ?
「フランス語って…良く分からないよ。」
ぶつぶつそう言いながらアイラインを引く楓に、オレは言った。
「とりあえず、単語のあとにシルブプレって言えば良いんだよ…」
そんなオレをジト目で見ると、楓は深いため息をつきながら言った。
「じゃあ、シロ君に問題です。デデン!イギリスの英語とアメリカの英語、違うのは知ってますか?」
「知らな~い!知らないし、一生、使う事も無い!」
そう断言してケラケラ笑うと、メイクを済ませて衣装を選んだ。
いつか…勇吾の所に行ける様に、パスポートを取った…
簡単な英語を話せる様に、映画と海外ドラマを山ほど見た…
彼の住所がどこなのか…そこまでどうやって行くのか…グーグルマップで調べた…
行く勇気もない癖に…
馬鹿みたいに…要らない準備をした。
もう、時すでに遅し…彼はオレの目の前から、居なくなってしまった!
「はぁ…」
泣き出してしまいそうな自分を、馬鹿な奴だと笑って…乗り切って行こう。
泣いてるより…笑ってる方が、楽しいもん…
19:00 店内へ向かうとエントランスに桜二と依冬が立っていた。
家を飛び出したオレを、どうやら…怒っては無さそうだ。
「ふふ…僕のカワイ子ちゃんたちだ~。パパちゃんと一緒に年越ししようじゃないか…」
そう言って彼らを両脇に抱えると、一緒に階段を下りていく。
店内には、数名のホステスと、同じく数名のホスト…やたらと人数が多いウェイター達は、きっと、オレと同じ。お年玉狙いで出勤した口だ。
お客さんは今の所、ゼロ!
みんな今頃、お家で年越し番組に夢中になってる頃だよ?
「…シロ?今まで、どこに行ってたの?」
そう言ってオレの顔を覗き込む依冬に、クスクス笑いながら教えてあげた。
「ロメオに会いに行ってた。あの子はひとりでお座りが出来る様になっていたよ。」
オレがそう言うと、桜二はムッと頬を膨らませて言った。
「…他人の子供なんてどうでも良いんだよ。俺のメールは読んだの?」
随分いきり立ってるね?
でもね、ロメオを馬鹿にするのは頂けないよ?
オレは桜二をジロッと睨むとつれない声で言った。
「読んでないよ。どうせ、お説教だろ?」
「…はっ!」
そんなオレの態度に、桜二が怒った様だ…
カウンター席に座ってもオレから顔を背けて、子供みたいに頬を膨らませて怒ってる。
「馬鹿だな…どうしてお前がそんなに怒るんだよ。」
膨れた彼の頬を突いて笑うと、桜二はオレをジト目で見て言った。
「シロは早合点が過ぎる。自分が他人の気持ちを汲むのに優れてるって過信してる。いつも自分が感じた事が正しいって…思い込んでる。自分が超絶ネガティブ志向だっていう前提を加味してない。」
なんだと!
「酷いね、どうしてそんな事を言うの?全く、やんなっちゃうよ!」
口を尖らせて彼をジト目でみると、桜二はフイッと顔をそらして壁を見つめた。
「バッカみたい!」
オレも彼から顔を背けて、クゥ~ンと鳴き声をあげる依冬を見つめる。
「依冬はそんな風に思わないよね?シロは早合点してるって思わないよね?」
依冬の頬を鷲掴みにして、オドオドと瞳を揺らす依冬に迫った。
「あわ…あわあわあわ…」
あわあわ…しか言わない依冬の口を手で掴んで強引に動かすと、彼の声色を真似して言った。
「…うん。思わないよ?シロは、いつでも、人の気持ちが分かるニュータイプだからね?だからセクシーで可愛くて、最高なんだぁ~!わんわん!」
「はっ!とんだニュータイプだな!」
壁に向かって桜二が吐き捨ててそう言うから、オレは再び依冬の口を無理やり動かして彼の声色を真似して言った。
「黙れ!愚民!」
「シロ!」
「なぁんだよ!」
オレと桜二が睨み合う中、マスターがサービスのピーナッツを出して真顔で言った。
「なんだ、喧嘩か…?」
「違う…ただの、じゃれ合いだ…!」
オレはマスターにそう言うと、桜二から顔をそらして手元のビールを一口飲んだ。
…オレ達が新居に引っ越しを済ませた日。マスターは言ったんだ。同棲してお互いの嫌な面を見続けると、100年の恋も冷めるって…
甘い生活を夢見て一緒に暮らし始めたのに、1年…2年と経つうちに…喧嘩が増えて…話さなくなって…どちらともなく、離れて行くって…
酷いだろ?
普通、同棲をし始めた相手にする内容の話じゃない。
だから、オレ達はその時マスターに言ったんだ。
そんな訳ない。オレ達はずっと一緒に居ても平気だもんね~?…って。
ジト目でオレ達を見続けるマスターを、ケラケラ笑ってそう言ったんだ…
「な?俺が言った通りだろ?」
不敵にそう言って笑うと、マスターはオレにサービスのチーズを出してコクコクと頷いて言った。
「もうすぐ…どちらともなく、離れて行く…」
「やめてよ!そんなんじゃない!オレは桜二が大好きだもん!でも、桜二が…嫌な事言うから…聞きたく無いって言ってるだけだもん…」
咄嗟にマスターにそう言うと、桜二を見つめてシュンと眉を下げた…
そんなオレを見て、壁を見つめることをやめた桜二がオレに向き直って言った。
「シロ…俺だって…シロを虐めるつもりはないんだ…。ただ、聞く耳を持って欲しいんだよ…」
あぁ…もう…
それが嫌なんだよっ!
「もう…どうせ、勇吾の話だろ…。どうしても桜二はオレにとどめを刺したいみたいだ…。仕方がないよ。だって…オレがもたもたして…いつまでもイギリスに行かなかったから…嫌になっちゃったんだよ。きっと…」
「勇吾は…軟禁されてるんだ!」
は…?
オレは耳を疑った…
オレが桜二にした様に…誰かが勇吾を軟禁してる…?!
「…ど、ど、どう言う事…?」
ガターーーーン!!
「キャーーー!」
突然、後ろのステージでものすごい音がすると、オレのすぐ真後ろに強い衝撃を感じて、体が縮こまった!
咄嗟にオレを体の中に庇う2人に、胸キュンしながら周りを見渡して言った。
「何?何が起こったの?」
桜二と依冬の腕の中から這い出ると、ステージに突き刺さっていた筈のポールがオレの目の前に倒れ込んでいた…
え…?
「あ…あっぶねーーっ!」
まさにあと10センチ…ポールが長かったら、オレの頭に直撃したよ?
ステージ上、ポールの根元を見ると、支配人が棒立ちしながらテヘペロして言った。
「調子に乗って登ってみたら…倒れちゃった!びっくりして、ちょっとだけ…漏らしちゃった!」
「はぁ~~?!」
オレは支配人を見つめて開いた口が塞がらなくなった。
だって、オレと楓は今日、このポールに掴まって回って踊る予定だったんだよ?支配人の体重が70キロ~80キロくらいだとしても、回転したら同じような負荷がかかっていた筈…オレと楓、どちらかが踊ってる最中にポールごと倒れた可能性だってあるんだ!
「腐食してるね…」
依冬がそう言って、天井に固定されていたポールの上部のネジを見つめて言った。
「これでシロや楓君が怪我でもしていたら…責任者の問題として裁判で追求できる事象だね…」
「まぁ…待って下さい。結城さん。今日はね、ポールの調子がおかしいって…声を頂いたんでね…支配人である、私が!この、私が!危険はないかと確認していた最中だったんですよ。これは、ほら、責任者としてね?」
支配人はすごい速さでカウンター席に来ると、ポールの上部を固定していた腐食したネジを手の中に入れて、証拠隠滅しながら言った。
「あぁ…!シロと楓が、怪我しなくて良かった!」
「嘘つき!さっき、調子に乗って登ってみたら、倒れちゃった!って…テヘペロしてたじゃないか!」
オレがそう言って抗議すると、支配人はオレの体を持ち上げてカウンター席から遠くに運んで行く。
「ん!離せ!下ろせ!」
そう言って暴れると、支配人がオレの耳元に顔を近づけて言った。
「シロ…?いつも危ない事して…ポールを無茶苦茶に揺らしたの、だ~れだ…?」
「え…」
まさか…
この銭ゲバジジイ…オレに全責任を押し付ける気なのか…?!
「うわん!依冬!ジジイがオレのせいにした!」
そんなオレの言葉に依冬が怪訝な表情をすると、オレを床に下ろして取り繕う様に支配人がへらへら笑って言った。
「そんな~…そんな事してないだろぉ?シロ~?ん~?どうしたんだ~?ん~?」
二枚舌の銭ゲバジジイ!さっき、確かにオレのせいにした癖に!
「どっちみち…これじゃあ踊れないね…」
ステージの上から倒れたポールを見つめて、楓が柄にも無く、まともな事をポツリと言った。
確かに…いつも一緒だったポール君が倒れてしまったら、僕たちは何も出来ない…踊る事も、掴まって回ることだって出来ないんだ。
「今日はお客さんがまだ1人も来てなくてラッキーだったよ…。こんな事態…お客さんの目の前でなった日にゃ…大変な騒ぎになっていた事だろう。動画が拡散されて…YouTubeにアップされて、連日、嫌がらせの電話が鳴り響いて…店を潰されるんだ!」
ウェイターが驚異の想像力を働かせてそう言うと、支配人がとぼけた顔をして言った。
「…だから、今日、倒したんだよ…?」
は?
お前、わざとやったの?
しかも、お客さん2人いるけど?チャージ料も取った、れっきとしたお客様の桜二と依冬がいるけど?
「さっき、カウンター席にいたけど…10センチポールが長かったらオレの頭を直撃してたんだけど…」
オレがそう言うと、支配人はどや顔しながら言った。
「どこもケガして無いだろ?そう言う事だ…!」
どういうことだよ!
支配人の暴挙によりポールが倒れるという…前代未聞の事態になった大晦日の店は、急遽、閉店になった。
着替えを済ませて荷物を持つと、エントランスで管をまく支配人に掴まって、散々文句を聞かされた…
「発注しようにも、きっと、ポールを扱ってる会社も三が日は休みだ…。ちっ!頭が痛いぜ!こんなんなら保険にでも入ってたら良かったな!あ~あ!面倒くせえな!シロのせいで、面倒くさいな!あ~あ、初詣も行けないし…俺は家に帰ってお前でも頭の中で犯しまくる事にするよ!」
そう言って足元の段ボールを思いきり蹴飛ばすと、じろりとオレを見て言った。
「…イク時、なんて言ってイクの?」
…最低だろ?
でも、こんなのこの人の中では通常運転の範疇だ。
「元気出してよ…また、ポールが立ったら教えて…良いお年を~!」
オレはそう言って落ち込んで自暴自棄になった支配人をギュッと抱きしめると、そそくさと桜二たちの待つ外へと向かった。
さっき、とっても大事な話をしていた。
なのに、ポールが倒れた衝撃ですっかり話が途中で止まってしまっていたんだ…
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