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新居編 16 微笑んで

 自分がさ、起きて、朝の挨拶を誰かと交わすなんて、去年の冬には思いもしなかった。寒い朝なんてダルイばかりで、あぁ、布団から出たくないなぁって、それくらいのことしか思わなかった。 「おはよう、拓馬」 「おはよう、ございます……」  コーヒーの香りと人の気配で目が覚めた。  こういうのも、そわそわしてしまう。自分以外の人と暮らしているって感じられる些細な瞬間ごとに「あぁ……」って実感しては、驚いて、感動すらしたりしてる。 「ごめんなさい。俺っ、寝坊」 「いいよ……たくさん寝て構わないよ」  そう言ってベッドの端に腰を下ろすと、俺の目尻をそっと指でなぞった。何かついてるのかと思った。睫毛とか、もしくは寝ていた間に枕やシーツの痕でもそこにつけちゃったのかなって。 「君は……初めて君に出会った時、目の下にくまを作ってたから」 「! ごめんなさいっ、あの」  そうだった、かもしれない。  毎日毎日残業続きで、でもあの日はあいつに会えるからって、待ち合わせの時間までには仕事を終えたいと前日まで頑張ってたから。けど、そんなの色っぽくないじゃないかって、慌てた。そんな色気の欠片もないようなのをあの時は抱いてくれてたんだって、申し訳なくて、ぎゅっと身体が縮こまる。 「謝ることはないよ。仕事、頑張ってたんだろう? それに今はそんなことないから」 「……」 「君が毎日ちゃんと眠って、ちゃんと食べて、笑ってくれていると知ってるから」  ぐっすり眠っているところを眺めるのがとても楽しかったんだって笑って、俺の、いつも通りにすごいことになっているんだろう寝癖にキスをした。  会えたのは奇跡だと思う。  ものすごい偶然がいくつも重なって、この人との繋がりは一夜限りから、細い一本の糸程度の繋がりになって、そこから、糸がいくつもいくつも重なって、束ねられて。 「これからは毎日、君のことを見られる」  今はとてもしっかりと、きっと誰にも切れない糸になった。 「幸せだ」 「いくらでも見せます。俺なんかの寝顔くらい」 「本当に?」 「もちろんです。そんな」 「俺にだけ?」 「も、もちろんです!」 「本当に? 他の誰にも、これから見せられないよ?」 「本当です! 敦之さんだけです」 「それは、世界一の幸せ者だな」  独り占めに大喜びするのも、他の人に羨ましがられるのも俺の方なのに。なのに、俺の方が涙が出てきてしまいそうになるくらい、本当に嬉しそうに笑ってくれるんだ。そして、そうやって笑ってくれる度に思う。絶対に、絶対に誰にも。 「俺も、幸せ者です」  誰にも、貴方のことをあげたくないって。  だから、昨日抱き合ったまま眠ってしまったせいで裸なのが少し恥ずかしいけれど、そっと擦り寄って、頬にキスをした。  ね、そうだ、寝坊してしまったけれど、朝ごはんをまた一緒に作りたい。パンなら敦之さんがお気に入りのナッツが入っているのを買ってきてあるから、それにハムとレタスを挟んでもいいし。卵焼きも乗せられる。二人でのんびり、お昼ご飯を兼ねてしまっていてもいいかもしれない。 「俺も、起きますね。えっと、服……」  だって、夜だって一緒にいられるんだから。 「これを着るといいよ」 「あ、ありがとうござ……案外、こういうの好きですよね。敦之さん」 「そりゃ、男のロマンだろう?」 「俺は……あんまりないですけど」 「そう?」 「だって……」  俺よりもかっこいい人に俺の服を着てもらったって、そんなに楽しくはないでしょう? なんだかサイズが小さくて申し訳ないような気さえするし。  くすくすと笑ってる彼の服を着ると、すごく自分が小さく華奢になれた気がした。そんなことはないのだけれど、普通の、どこにもでいそうなただのサラリーマンだから。男性を、しかも魅力的な男性を虜にできるようなプロポーションも美貌も持ち合わせてはいない。  けれど。  もぞもぞと布団の中で着替えて、ようやく俺も起きようとベッドから立ち上がった。 「こっちの方が楽しいです」 「俺も、こっちはとても楽しいよ」  貴方の服を着て、ダボついた袖をまくって、襟口から貴方のものだという赤い印をちらつかせて。  少しくらいは、世界中が焦がれるこの人を夢中にさせらやしないかとあざといことを考えて。 「今度、観葉植物を買いに行こう」 「植物ですか? やっぱり華道家の人は植物好きなんですね。でも、いいかもしれない。うちは日差しがよく入るから、葉っぱも喜びそうです」 「君の、それ」 「?」 「昨日も言っていた、うち……って」  そうだっけ。いつだろう。 「それ、とても好きだよ」 「……」 「君がここを、俺を、うちって呼ぶのがとても好きだ」 「……だって」  あざとくたっていい。必死だと笑われたってかまわない。貴方のものだと世界中に言いふらしてまわりたいくらいなんだ。 「ここは、俺たちのうち、でしょう?」  貴方を独り占めしたくてたまらないから。  微笑んだら、微笑んでくれる彼を抱き締めて、そっと、おはようございますのキスをした。これから、この人と朝も夜も一緒に過ごすのは自分だけなんだと、貴方の服を身にまといながら、そっと、笑顔と一緒に口付けた。

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