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媚薬編 1 彼は家路を急いでる
敦之さんと出会ったのは夏になる少し手前の頃だった。去年の今頃。
「……雨だ」
生花教室を終えてホテルを出ようとすると、正面エントランスから見える外の景色がどんよりと曇っていた。
去年は……あんまり雨の降らない梅雨だったけれど、今年はよく降るなぁ。今朝見た天気予報でもこの辺りは一週間のうちいくつも傘マークが並んでいた。でも、まだ梅雨入りはしてないって。
「敦之さん、大丈夫かな」
傘持って朝出たっけ? 今日は遠出だから。でも自宅までは雪隆さんが送ってくれるだろうから、急いで帰ろう。そしたら、車を降りた時、傘を差してあの人を出迎えられる。できるだけ雨になんて濡れて欲しくないから。
「あ……敦之さんだ」
服のポケットに入れておいたスマホが振動して、取り出すと、敦之さんからの電話だった。
「もしもし?」
『拓馬』
優しい声。今朝まで耳元で名前を呼ばれるとくすぐったくてたまらないほど、俺を幸せにしてくれた甘い声。
「敦ゆ、」
『拓馬! 今日、花の教室に!』
甘い声、と思ったんだけど、大慌てな可愛い声だ。
「はい。今日行われてる季節の花を使った生花に参加させていただきました」
『!』
「先生を務めてらしたのは、加藤さんで、あ、加奈子さんも特別講師でいらっしゃってました! すごい綺麗な方でしたよ」
『この前も加藤が務めた時に』
「だって、休日で講師勤めてる方、加藤さんが多いので」
『っ』
あ、珍しい、ぐぅ、って返事に詰まってる。こういう敦之さんって珍しいな。電話じゃなくて顔も見たかったな。
「平日は俺も仕事があるので。休日の教室に参加が多くなっちゃうんです」
『どうして拓馬は……全く。俺が講師の日にレッスンを受講したらいいだろう? なぜ、いつも、毎回、俺じゃない時に』
「だって」
少し怒ってる、かな。
溜め息が何度も電話越しに聞こえてくる。
上条家の当主である敦之さんのパートナーに相応しい知識くらいは身につけないといけないでしょう? 花のことちっともわかりません、なんてことじゃ、お話にならない、と思うから。だから上条流の花をしっかり学んで、貴方のパートナーに相応しい男にならないと。雪隆さんにもそのことは相談して、都合が合いそうな時は生徒の枠をひとつ内緒で作っておいてもらうんだ。で、今日は仕事は休みで、尚且つ、敦之さんは遠方へ仕事で出かけるから。
「だって、少し……ヤキモチしてしまうので」
『……』
「敦之さんの周り、女性の生徒さん、すごいから」
最初の一回だけ敦之さんが講師の時の教室で習ったんだ。とっても楽しかった。敦之さんの慌てたような顔も楽しくて、教え方も、あ、もちろん加藤さんも上手なんだけれど、敦之さんのしてくれるレッスンは特別上手ですごく良かったんだけど。
「見てると、やっぱり妬いてしまうから」
でも、女性にしてみたら敦之さんってさ、やっぱりたまらないんだ。
男の俺ですら、貴方に一年前、声をかけられた時、とても夢見心地になれた。だから女性なんて……さ。
「講師をしている敦之さんの邪魔をしてしまいそうなので」
教えてくださいと敦之さんの周りを囲む女性をさ。
本当はぜーんぶ押しのけて隣に行きたくなっちゃうんだ。でもそんなの、それこそパートナーとしてしちゃダメでしょう?
「だから、加藤さんの、というわけじゃないですが、敦之さんが講師じゃない時の教室にしてるんです」
『……る』
「え? なんて?」
『すぐに帰る』
あ、どうしよ。明日も俺はお休みだけれど、敦之さんは午後からお仕事なのに。
「はい。待っています」
きっとたくさん可愛がってくれる、と思う。今夜、たくさん。
「あ、敦之さん傘は持って、」
電話、切れちゃった。今頃、同行している雪隆さんに帰りを急かしてるかもしれない。でも、新幹線って言ってなかったから。
――急かしたところで帰る時間は変わりませんよ。
そう冷静沈着に受け答えしている雪隆さんまで想像できてしまって、思わず笑った。きっと、また雪隆さんが溜め息をついていそうで。
「わっ! ごめんなさい」
電話と、その想像に夢中で、うっかり人にぶつかってしまった。エントランスは突然の雨に困惑してカバンから傘を慌てて取り出す人が何人もいて、少し混み入っていた。
「あ、いえ」
「すみません。前を見てなくて」
「いえ……あの、さっき、生花教室にいらっしゃいました、よね?」
「え?」
言われて見上げると男性が一人立っていた。
「あ、いや、俺も参加してたんです。男性の参加者って少ないから」
「あ……そうだったんですね」
「えぇ、いや、見かけて、なんか勝手に仲間意識を……すみません。つい声かけちゃって」
「いえ」
確かに男性の生徒ってあんまりいないんだ、ほとんど女性。それとたまにシニアライフにとのんびり参加しているおじいちゃんとか。
「傘、忘れてしまったんですか?」
「え? あ、はい……えぇ」
「じゃあ、この傘、どうぞ」
「え?」
「安物のビニール傘ですから遠慮せず使ってください。俺はこっちもありますから」
言いながらカバンの中に入れておいた折り畳みを取り出した。営業周りをしているから、傘は必需品で、つい休みの日の出かけにもこの時期だと持ち歩いてしまう。
「生花教室楽しんでください」
困惑しているその人に傘を押し付けて、折り畳みを広げると、一度会釈をして、雨の中に飛び出した。早く帰ろう。敦之さんが帰ってきて、遠方での仕事でヘトヘトな身体を直ぐにでも温められるように。リラックスできるように、お風呂用意しておいてあげよう。
一度振り返ると、同じ教室の生徒さんだった男性はまだポカンとしながら俺が渡した傘を握り締めていた。
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