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第14話

 (ひいらぎ)は交際相手を連れておきながら、櫻岬を放さない。かわいい、かわいいと言って頬擦りをしてみたり、手を繋いでみたり、抱き締めてみたり忙しい。 「あー!もう、なんなんだよ」 「えー、だって寂しいんだもん。カノジョとはお外でイチャイチャできないし。お外でも愛でるものがほしいの!」  意図的なのか、そうでないのか、柊の口から吉良川(きらがわ)について、名も話題としても出ることはない。 「はぁ?」 「ね!七瀬ちゃんも、べいべとならイチャイチャしていいでしょ?」  背後から抱擁されたまま、柊が交際相手のいる後ろを振り向く。櫻岬の身体はぐいと持ち上がる。 「ぐひぃ」 「べいべは胡麻みたいに小っちゃくてかわいいねぇ」  とはいえ櫻岬は170cm以上ある。大学でも自分より背の低い男はちらほら見かけた。柊は彼等についてはどう思っているのだろう。  構い倒され、抱擁から解放される。講義室はまだ開いていなかったため、人混みというほど人口密度が高いわけではなかったが、十数人の固まりができていた。たまにこういうことがある。そこで講義室が開くのを待っていると、櫻岬は横から肩を叩かれた。しかし柊ではない。彼のいる反対からで、その方をみると、宮末だった。まるで柊とその交際相手に内密で、接触を図っているようである。肩を抱かれ、引き寄せられる。 「おはよう、(ほん)ちゃん」  爽やかな好男子が、白い歯を見せている。 「おはよ、フューチャー」 「大丈夫か?」 「うん」  何に対する「大丈夫か?」なのか、櫻岬はいまいち分からなかった。肩を抱き寄せる手はそのままそこに置かれ、そのうち頭へと上がってくる。頭を抱き寄せられている。宮末の匂いがした。大好きな飼主の匂いだ。憧れの兄貴分の香りだ。しかし首を傾げる姿勢を保つのが、そのうちにつらくなる。 「どしたの、フューチャー?」 「あっはっは。なんでもないよ。ごめんな、痛かった?」 「へーきだけど」  首に手を当て、宮末を見上げていると、講義室が開いた。櫻岬は左見右見(とみこうみ)して、半歩先を行った宮末が戻ってくる。 「誰か探しているのか?」  この時間は吉良川もいるはずだった。しかし見つからない。宮末にいえば気を遣わせるだけだろう。 「いや、別に」  まだ気になりながらも宮末の隣に座った。 「もしかして、吉良川探してた?」  櫻岬はどきりとして宮末の爽やかながらも、少し気にしたふうな顔を見る。 「ん、いや、別に約束とかしてないし」  答えてから、ほぼ肯定になっていたことを自覚する。いくらか気の急いた返事をしている。櫻岬はどうしようかと宮末を見つめ、宮末もどこか呆けた顔で櫻岬を見つめる。 「おはよう、櫻岬と……宮末」  吉良川の声がそこに割り入った。 「隣、いいか?」 「おお、勿論(もち)勿論(もち)」  いつもは宮末を避けていた吉良川が、今日は自ら傍にきた。それでも櫻岬を間に挟んでではあるが、近くに座っている。 「おはよう」  宮末は茫としていたのから我に帰ったような唐突さで返事をする。櫻岬ははらはらしながら左右を意識した。  吉良川は今までの忌避が嘘のように宮末と話していた。講義が終わり、3人で構内を歩く。櫻岬は適当な理由を挙げて、吉良川と宮末を2人きりにするべきか否かを考えていた。まったくの外野であるけれど、彼に近付けば、その額や首に汗が浮かんでいるのが認められるだろう。  優秀で勉学に対する意欲の高い2人は、櫻岬を挟み、彼の頭上で今終えたばかりの講義について話し合っていた。櫻岬はもしかすると自分の知らないうちにこの2人が実はそうとう仲良くなっていたのではないかと考えながら、頭上で交わされる議論の邪魔をしないよう身を縮こめていた。やがて彼は決意し、有りもしない用事を告げて離脱する。  吉良川は宮末が好きらしい。2人にするべきだ。邪魔をするのは悪い。櫻岬なりに友人を慮ったつもりのことを並べ、購買部でアイスを買ってから、次の講義のある学舎に向かう。次も2人と同じだが、その点、大講義室は偶然を装って離れて座ることができる。  宮末と吉良川は2人でいた。その後姿を斜め左後ろから見られる位置に座りアイスを齧った。横からずい、と頬を突つかれる。 「なんだよ」 「アイス食べてるの?かわちぃね。子供みたい」  柊である。交際相手は連れていなかった。一人である。 「カノジョは?」 「七瀬ちゃんはこの講義取ってないから。べいべこそ、あの背の高いお友達は?」 「見ての通り。やめろよ」  喋っている間も柊はアイスの入った頬を突っついた。 「なんなん。暇なん?」 「ハムスターみたい。べいべのこと、かわいいなって思っちゃって」 「はぁ?」 「七瀬ちゃんとはまた別だよ。そういうんじゃない」  櫻岬の隣に柊が腰掛ける。それからパーソナルスペースを無視して、さらに隣へと近寄ってきた。 「なに、なに……!」  そこは一番後ろの一番端だった。狭い通路へ押し出されるほど、柊は体当たりをする。 「ひぃらぎ!」 「かわちぃ」  通路へ倒れそうになると、柊の腕が回り、抱き留められる。 「寂しがり屋め」 「あ、分かる?」 「受けて立つぜ」  櫻岬の推測によると、柊は復讐をしているのだ。吉良川と切り離されたことについて、復讐心を燃やしているのだ。ゆえにこのような無意味で不毛な絡み方をするのだ。そうに決まっていて、ほかにない。 「べいべ」  猫と猫が一緒に暮らして抱き締め合っているのとは、段々と様相が変わっていく。柊の顔が、櫻岬の肩に乗った。 「受けて立ってくれんの?」  耳元で囁く声は、平生(へいぜい)のふざけたものではなかった。女を口説くような甘さがある。"七瀬ちゃん"以外が聞いてはならない声音である。櫻岬は耳が腫れたような心地がした。(つんざ)かれたみたいに押さえる。顔も熱くなった。 「ウブだねぇ」 「うっさ……」  押し戻すと、柊は悪戯っぽく笑って離れた。しかし隣にはいる。 「べいべ」  彼は机に突っ伏していた体勢から片腕を枕にして櫻岬を見上げる。気怠げな声を出す。 「なんだよ」 「なんでもない。呼んだだけ」  チャイムが鳴って、講義がはじまる。 ◇  元々、宮末と吉良川はその性分からして仲が良くなる素質は十分にあったのかも知れない。そもそも宮末のほうは吉良川に対して友好的だったのだ。  櫻岬は別のグループの中から2人を遠目に見ていた。  どしたの、べいべ。  櫻岬は首を振ってなんでもないと答えた。  柊くん、最近カノジョと別れたらしいよ。  マジ?じゃあ"七瀬ちゃん"今フリー?  そらもう次のカレシいるだろ。  同じグループの奴等の会話が耳に入る。そちらのほうを向くと、櫻岬も興味ありと判断されたらしく、"七瀬ちゃん"についての話を振られる。彼等は櫻岬を柊やその交際相手と仲が良いと思っているらしい。  だってこの前抱き合ってた。  否定するとそう返ってくる。櫻岬は苦りきって引き攣った笑みを浮かべた。  昼飯を食い終わったあと、次の講義に向けてグループは散開した。櫻岬はひとりになって、キャンパスを歩く。 「紅ちゃん」  宮末が後ろから肩に触れた。 「およよ、フューチャー。おはよ」  すでに昼である。 「おはよう、紅ちゃん。なんか久しぶりな気がする」  彼は朗らかに笑う。櫻岬のほうは首を傾げている。 「昨日会わなかったっけ」  だが思い返せば、一方的に吉良川といる彼を別グループから見ていただけであった。それに気付いてしまったが、宮末のほうからその点について追及してくることはない。 「忙しいのかな、紅ちゃん。おれで役に立てることがあったら言ってくれ」 「別に忙しくはないよ」  この友人と喋るとき、櫻岬は舌っ足らずになる。 「そっか。じゃあおれの気のせいだな」  宮末の腕が櫻岬の肩に回る。櫻岬は友人を見上げた。 「吉良川は?」 「次の講義違うからさっき分かれた」 「そっか」  肩に回った友人の腕が強く身体を引き寄せていく。服に触れると、大好きな飼主の香りが鼻に届く。櫻岬は尻尾を生やして振りたくなった。 「紅ちゃん」 「うん?」  自分が小さな子供になったような気分がした。肩に置かれた手が震えていることにも、置かれた本人は気付かない。無邪気な眼差しを向けて、相手が微かに狼狽えたことにも気付かない。 「いや、元気そうでよかった」 「元気だよ、オレは」 「よかった。また飲もうな」  回された手が肩をとんとんと叩く。 「今度は、ちゃんと飲む」 「またおれが看病してもいいぞ」 「もう風邪ひかないもん、オレ」  兄貴分の大きな掌が額に触れる。嬉しさと心地よさに櫻岬は目を瞑った。自らその体温に擦り寄りそうである。 「熱はないな」 「フューチャーのおうち、フューチャーの匂いがして寝れん」 「臭いか?おれ」  宮末は朗らかに笑いながら自身の匂いを確かめる。つられて櫻岬も自分の匂いを嗅いでみる。 「臭くないよ!洗剤の匂い。でもフューチャーの匂いもする」 「紅ちゃんからおれの匂いはしないだろ」 「そっかな?」  移り香を己が身の中に探してみる。しかしない。 「男って臭いのにフューチャーは臭くないね」  やはり櫻岬の口調は甘えて、あざとく、可憐ぶっている。飼主にしがみついて喜ぶペットみたいに彼は憧憬を抱く友に飛びつく。 「紅ちゃん」  髪を撫でられる。甘えた仕草に応じられている。はしゃいでいると視界が薄暗くなった。額に柔らかな感触が起こる。落ち着く匂いが強くなる。 「ひゅーちゃー?」  前髪に何かついていたかと櫻岬は自身でも前髪を撫で梳いた。毛束の間から懐いた兄貴分を見上げる。そしてぎょっとしてしまった。宮末の眼差しの優しさと穏やかはいつものことだが、そこに悲哀の念が混じっている。 「あ……ぃ、ひゅーちゃー?」  友人でもそうはできないほど長いこと、視線がぶつかっていた。櫻岬に怯えの色が滲みそうになったところで、宮末は冗談めかして清らかに笑う。 「行こうぜ、講義室」 「うん」  櫻岬は宮末から目を離せなかった。派手さや華やかさとは違う堅実な男振りは、先程のことがなくても見詰めてしまう。 「お」  余所見をしていたせいか、櫻岬の爪先は地面を蹴ったまま引っ掛かる。前方に足が出ず、身体が支えられなくなった。そのまま前にのめっていく。 「紅ちゃん!」  宮末の腕が胸元に回って抱き留められる。服越しの筋肉を感じた。憧れと尊敬と、雄としてのほんの微かな劣等感と、被庇護欲が適度にぶつかり合う。 「ひゅうちゃあ。ありがとぉ」  櫻岬は幼くなってしまった。転倒を阻止した友人を見上げる。するとこの友人は咄嗟に顔を背けた。 「大丈夫か?足首は痛めてないか?」 「うん。平気。ははは」  目の前で足首を回して見せる。流れで手首も回してみせた。  講義を終えて、宮末と共に本館を出た。帰り際に吉良川と会う。彼は本館前の銀杏の木の下にいる。 「お、吉良川」  櫻岬は彼に声をかけた。吉良川は誰かを待っている。そしてそれが誰なのか、櫻岬は分かっている。理解している。 「あ、じゃあオレ、ロッカーに用あるから」  彼は有りもしない用件を作って、2人に手を振ろうとした。 「櫻岬。君に用があるから、西キャンパスのベンチで待つ」 「え?へ、へぇ」  一体何の用があるのか、皆目見当がつかなかった。 「じゃあここでバイバイだな」  宮末は朗らかに笑って2人に手を振った。彼が去っていくのを見送ろうとしたが、彼も彼で櫻岬の動向を気にしていた。数度に分けて振り返り、手を振った。やがて曲がり角に入った。吉良川もついてきている。 「話って?」 「ロッカーに行くんだろ」 「ああ、あれはウソ」 「ウソ?」  吉良川は足を止めた。非難めいた目を向けられる。 「フューチャー待ってるのかと思ったから」 「余計なことを……するな」 「オレは嬉しいんだよ。3人でいられるようになったの」  櫻岬はへらへらと笑ったが、吉良川の神経質げな眉は皺を刻む。 「でも君が、避けているじゃないか。俺の言えた義理じゃないが……」 「別に避けては、ないよ。で、話って?」 「忘れた」 「は?」  ふいと外方を向いた吉良川の横顔が空の橙色に染まっている。 「君といたかった……と言ったらどうする?」 「いるけど、フツーに。なんで?」 「君は友人がたくさんいて、忙しいそうだから……」 「それは買い被りすぎ。あとフツーに暇だから一緒にいようぜ」  櫻岬は吉良川とよくいた人気(ひとけ)の少ない西キャンパスに向かい、第二学生食堂の近くのベンチに座る。鼻先も臍も同じ方向を向いていると、知らない者同士の相席みたいだった。 「オレといたいってなんだよ。相談?」  櫻岬から隣へ話しかける。見遣れば吉良川は肩を窄めて身を堅くしていた。 「どしたん?」  そうとう話しづらいことらしい。櫻岬はそれ以上何も言わず、彼の言葉を待った。 「柊と、別れただろう……付き合っていた訳では、ないけれど」 「うん」  吉良川は正面を向いたまま、徐ろに俯いた。捉えた横顔の、その瞳の忙しなさに櫻岬は察してしまった。彼の肉体は火照っているのだ。華奢に見えて、壮健な若い男である。櫻岬にもまた覚えのあることで、しかしいくらか趣向が異なる。  櫻岬は考えた。果たして己はこの友人に応えられるであろうか。この友人の慣れに、付き合えるのだろうか。つまり彼を抱けるのか、もしかすると抱かれる側に回れるのかと考えた。 「ぅ……―っ、」  病熱を起こさんばかりに思案を巡らせ、掠れた呻き声が漏れ出てしまう。 「後悔はしていない。清々(せいせい)しているくらいだ。俺も変わらなきゃいけないと思って、宮末とも普通に話せるようになった。毎日が、楽しい……ただ、カラダのほうが慣れなくて………」  この友人の肌を知っている。その骨の固さや、細さ、皮膚の滑らかさ。潤んだ目や蕩けた声。抱けるのか。抱かれることはできるのか。触ることならできるかも知れない。舐めることも、彼の衛生観念からいって、多少の躊躇いはあるけれど、清潔感によって誤魔化されたなら深く考えず誤魔化されても構わない。腿を貸すのではだめなのであろうか。 「お、おおう……」  吉良川も吉良川で言いづらいのであろう。同性間とはいえ、彼はそういう話を軽々とできる気性ではない。すべて不本意に明かされたことなのである。櫻岬は忖度(そんたく)した。今度は櫻岬のほうが身を堅くしていた。 「櫻岬といれば……冷めていくから………」 「は?」 「櫻岬といれば、鎮まる」  それは挑発だったのか否か。 「なんだよ、それ!オレてっきり、吉良川とそうなるのかもって、心の準備しちゃったぞ」 「ば、ばか……そんなこと………」  彼は何故そのとき、ベンチの座面に置いた手を動かしてしまったのか。手と手がぶつかった。視線がぶつかる。 「あ、う……」 「めんご……」  櫻岬は耳を熱くして吉良川のいるのとは反対方向へ首を曲げる。 「キ、キ、キッスくらいなら……チュ、チュウくらいならできるから、いいぜ、してこいよ」  だが、してこいと言う割りに彼は吉良川のほうを向かない。 「櫻岬」 「オレに、惚れるんじゃねーぜ……」  顔が熱く疼きながら櫻岬は努めておどけた。 「それなら遠慮しないが。いいのか?」  吉良川も意地を張っているようだ。 「こいよ」  櫻岬は挑んだ手前、友人のほうへ直る。吉良川は先程ぶつかった手と手を重ね、首を伸ばした。櫻岬は目を瞑る。唇が衝突する一瞬は危険性とは異質のスリルがある。接触した相手の筋張った手が肩に当たった。それは支えを求めているようで、上手く甘えられていない。  唇がはずんだように溶けていくような時間は一瞬だった。目蓋を上げると身を引いた吉良川は(しお)らしく両腕を垂らし、目を伏せて忙しなかった。 「照れんなよ」 「友人とこういうことをするのは、初めてだから」 「ま、色んなカタチがあるしな、やっぱ」  咳払いをして、櫻岬は動揺を隠す。 「君は、平気なのか」 「なぁにが」 「俺とこんなことして」 「じゃあ吉良川は、特別な」  平静を装うのだ。櫻岬はいつものだらしのない軟派で軽率そうで剽軽な笑みを繕った。 「顔が熱い……」  吉良川はよそへ視線を投げて自身の頬に触れる。 「で、オレといるとなんだって?」 「誤算だった。謝るよ。すまない」 「よろしい」  櫻岬は緩慢に笑って背凭れへ身を預ける。反対に吉良川は前のめりで背筋を丸めている。背骨が服の上から透けている。 「吉良川?」  その後姿がなんだか不穏だった。 「……トイレ」  彼は顧眄(こべん)することもなく、呟きのようにそう言った。 「勃った?」  冷やかしの色もなく、他意もないために吉良川は素直に応えたのかもしれない。黙って首肯する。 「オレのせい?」 「櫻岬の所為ということはない。俺の問題だ」 「そ……か」 「先に帰っていてくれ。つまらないことに付き合わせたな。ありがとう」  友人は本当に肉体の変化があったのかと疑うほどにあっさりと腰を上げて、颯爽と去っていく。 「バイバイな~」  櫻岬は座ったままだった。すぐに帰る気になれず、日が落ちていくのと共に強くなる風に吹かれていた。空に手を翳し、影絵めいたその形をぼうと眺めると、やがてそれは唇に当てられる。浅く肉を押してみる。吉良川の唇と重なったとき、どれくらい弾んだのか……友人の唇の柔らかさを思い出そうとする。しかし彼は我に帰ってしまった。すると急に恥ずかしくなる。 「べいべ」  空が一瞬で闇と化した。視界には濃い暗雲が立ち込めたのだ。それは彼の眼前に、ぬっと首を突き出した人物がいたからだった。 「うっわ!なんだよ」  上から降りてきた手に逃げられない。彼は捕まり、人型の暗雲を顔面で受け止める。 「ぅ、ふん、」  淡い疼きの幻覚に囚われていた唇が乱暴に塞がれる。 「やめろって!」  唇を唇で押し潰して、人の形をした暗雲は顔を離した。顔が見えてくる前から、櫻岬はこの者が誰なのか分かっていた。 「おええ」  吐気をしてみせると、柊は満足そうだった。 「かわいい」  ふざけていると思ったのが間違いだった。その本気の混ざった囁きに、櫻岬はぎょっと柊を見る。 「かわいいね、べいべ」  両頬に添えられていた手がそれぞれ左右の肩に触れた。引き寄せられ、櫻岬は首が据わらなくなったのか、ごろんと頭を仰け反らせた。反動によって戻ってきたときに柊の唇に迎えられる。 「う、むゅ……」  その口付けは悪戯や冗談ではない。柊よりも背の低い、おそらく力も弱い、弱者に寄り添った生存本能が告げている。柊という高身長で容赦のない恐ろしい個体を前にしたときばかり研ぎ澄まされる。  だが櫻岬は抵抗を示した。柊を押し除けようとする。ところがそれに従うこの男ではない。彼はさらに唇を減り込ませる。息苦しさに口を開けたのは失敗であった。柊の舌が乱入する。放水に似た無秩序さだ。 「は……、ふ………」  口腔を荒らす舌に歯を立てる。そして以前飲まされた鉄錆臭い独特な甘さを思い出して躊躇った。この間隙を縫われ、巧みな舌技に櫻岬は身を震わせた。力が抜け、またもや彼は首を仰け反らせた。咽喉の隆起を晒し、艶やかな危うさを醸す。  柊に高められていく酩酊感に溺れた。遊びではかった。大きな身体を拒み、拒みきれていない手が戦慄く。突つかれ渦巻く動きに潜んだ衷情(ちゅうじょう)に戸惑う。 「は……ぅう、」  柊の手が櫻岬の腿と腿の間に滑り降りていく。確定的なものを知られる前に彼は身を捩った。だが相手にはすでに気取(けど)られていた。衣類越しに掴まれてしまう。柊の大きな掌の中で、櫻岬は自身の反応の程度を知るのだった。  柊は深い口付けをやめずに、硬くなったものを扱いた。繊維の擦れる音がする。櫻岬は柊を突き離すべきか、己の中枢を守るべきか混乱している様子で、それでは迷いなく蠢く手を追い払えるべくもない。 「ん………、ふ、ぁあ……」  ただ(おどし)のつもりでそこを握っているのではない。柊は確かに官能を送るため握っていた。布を2枚ほど隔てた中で芯が作り上げられていく。 「あ………ぅんむ、」  柊から自身を守るだけの力も奪われていた。口角から涎が溢れて粘こく滴り落ちる。膝が震える。  取り返しがつかなくなるまで育てたあと、喉奥まで舐め回すような接吻が解かれた。水の柱が築かれ、しかし無惨に消え失せる。 「舐めてあげる、(べに)」  それは気色悪さからくる寒気なのか、被虐的な悪寒だったのかは分からない。柊は彼の膝の間に入ってしまうと屈んだ。 「や………だ、」  普段の威勢はどこへやら、涙ぐんだ眼で恐ろしく冷たい表情の柊を見下ろした。 「舐めさせて」  柊は口で砦を開く。下着を掻き分けられ、凝り固まってしまったものが現れた。柊の頬を打つ。

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